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スライは、とりあえずサヨコを用意していた部屋に送った。途中、クルドに連絡を取り、サヨコの話し相手になって落ち着かせるように指示する。クルドはスライの変化に戸惑ったようだが、あえて何も聞かずに、すぐにサヨコの部屋に向かってくれた。その後医務室に戻り、ファルプに確認する。
「ここ14、5年の 『宇宙不適応症候群』の学会報告はすぐに引き出せるか?」
「ああ……サヨコの、か? たぶん、すぐに出るよ、有名な症例だから」
「そんなに有名なのか?」
「ほう、あんたが知らなかったとはね」
ファルプはくすくす笑うと、部屋の隅にある端末を操作した。
「『GN』に興味がないっていうのは知ってたが。私は来た時にすぐわかったよ、ああ、あの娘か、と」
「どういう症例だったんだ?」
「カナンは何と言ってきていたんだ?」
ファルプはそちらの方が面白い、と言いたげだ。
「4歳のときに『GN』であることが確認されたが、その後優秀な心理療法士として成長し、今回のような難しいケースには適任だ、と。何が適任だ、あの狐が。サヨコはあっさり宇宙に揺すぶられている。早く手を打たないと、ぐちゃぐちゃになるぞ」
ファルプの手元を覗き込みながら、スライは、奇妙な動揺が自分を襲っているのに気がついていた。
(何だ? どうして俺はこんなにうろたえている?)
廊下で見せたサヨコの変化のせいだ、と心のどこかで声がした。それに自分が怯えている、とも声は告げていた。
(そんな、ばかな)
否定しながらも、脳裏にさきほどのサヨコとのやり取りが繰り返される。
背後をゆっくり歩いてきていたおどおどした日本人。宇宙に適応しきれない『GN』のくせに、こんなところまでやってきて、と軽蔑さえ感じていた。だが、そこまででしかない、憎しみを向けるのさえ物足りない、打ちひしがれて潰れかけた日本人の末裔という認識。
だが、両親のことを尋ねたとたん、恐怖映画でどろどろと表面が溶けていく人間のように、サヨコは見る見る人間らしい反応を失っていった。
そして、その下にはもう、何もなかったのだ。
確かに、今まで何度か、客としてこのステーションを訪れたものの中にも、『宇宙不適応症候群』を起こしたものはいた。だが、サヨコが見せたのは、人の心に巣喰ったとんでもない『無』だった。
(体まで崩れる…?)
支えかけた動作をかろうじて引き留めたのは、残っていた理性の切れ端…いや、むしろ、手の中でとろけてしまうかもしれないサヨコへの恐怖、だったかもしれない。
スライを見上げたサヨコの目は、底知れぬ闇だった。彼女の中から、とても貴重なものが根こそぎ奪われ、残っていた僅かなものさえことごとく破壊されている。瞬時にそう悟った。
(一体、何が、ここまでサヨコを壊した?)
スライは衝撃から立ち直るや否やそう考えていた。そう考えざるを得なかった。もし、それを確かめもしないでいるなら、サヨコを空っぽにした同じ闇が足元から忍び寄り、スライそのものも飲み込んでしまうかもしれなかった。
(あの『無』の正体を確かめないと、俺もいつか、あれに襲われる…)
スライは首を振った。ファルプが話しかけている、そののんびりとした声に注意を戻す。
「サヨコ、は非常に『タフ』な症例だったよ」
ファルプはキーボードを軽快に叩いた。
「タフ? あの弱々しい娘が?」
スライは眉を寄せた。
ゆったり頷いたファルプが、最後の操作を終え、指を止めて画面を示す。
「そら……読めばわかる。発作を起こしたのは4歳……かなりひどいものだった。生存率7%。同様の状況で発作を起こしたほとんどの症例が、死亡もしくは精神錯乱したままで施設に収容されている。回復したものの、後に自殺した症例も多い。生き残ったサヨコは、体力精神力ともに高レベルだったと考えられるな。現在でも『宇宙不適応症候群』に関しては、まだまだ研究するべき点が残されている。15年前ならなおさらだっただろう。サヨコは極めて『タフ』な素材として学会報告されたわけだ」




