3
サヨコはびく、と体を強ばらせた。スライが何を言おうとしているのか、突然わからなくなって、入れ替わりに妙などす黒い不安が胸一杯に広がった。
(いない……地球には……誰も)
サヨコの中を、離れてしまった両親や、『草』を使っても発作を起こした自分や、ルシアの嫌悪に満ちた表情が通り過ぎる。カナンの、物を見るような冷ややかな視線や、フィスの恩着せがましい弁明、エリカの無意識だろうけどひっかかる、かすかな優越感も。
(そうだ……わたしには……帰るとこなんてない)
どこにも、行けないのに、どこへ行こうというのか。
誰にも、すがれないのに、誰を求めているのか。
苦しそうな呟きが、呪文のようにどろどろとサヨコの胸の中でうなった。押し殺そうとすると、体の中に巣喰っていた得体の知れないものが、目を覚ましてしまったように見る見るサヨコの感覚を遠く彼方へ奪い去り始める。揺らめいていく視界に必死に瞬きをする、それがサヨコにできた精一杯の抵抗だった。
自分の意志ではないのに、唇が開いて、凍った淡々とした声を紡ぐのが聞こえた。
「そうです。月基地『神有月』に両親がいますが、もうずいぶん会っていません。シゲウラ博士が保護者がわりでした。そのシゲウラ博士も、もう亡くなりました。わたしには、肉親は、もう、近くには、おりません」
スライがぎょっとした顔でサヨコを見ているのを感じた。だが、口は止まらない。
「わたしに、関しての情報は、シゲウラ博士の学会報告をお読み下さい。4歳のときに、初めての発作を起こしました。両親が『CN』だったため、非常に難しいケースとして、報告されて、おります。以後の経過は、シゲウラ博士の著書、もしくは、連邦の人事部に資料が保管、されております」
「サヨコ・J・ミツカワ?」
スライが同じぐらい凍りついた声でサヨコを呼んだ。
「もっと、詳しい情報は、ここでも滞在期間に得られる、はずですが、研究に対する、拒否権を、わたしは、もって、おりません」
「もういい、よくわかった」
スライは大きく開いた目から嘲りを消していた。何かとてつもなく深い穴に潜んだ、正体不明のものを見ているような、不安と苛立たしさと微かな恐怖を浮かべている。サヨコのことばを遮るように言ったが、サヨコは黙らなかった。
「わたしの、身柄は、連邦の、総合人事部にあり、わたしに関するすべての権限は…」
「サヨコ・J・ミツカワ! サヨコ! もういい!」
スライがこわばった顔で叫び、サヨコは唐突に我に返って狼狽した。
『それ』は、幼いころに、サヨコに植えつけられた対応の1つだった。まさか、今まで残っているとは思っていなかった自動的な反応。とっくに解決していたと思っていた闇の部分。
非常に特殊な学会報告ケースになってしまったサヨコは、多くの人間の好奇の目に晒されることになった。彼女を人間的に扱ったのは、シゲウラ博士1人といっても過言ではなく、サヨコを護ろうとしたシゲウラ博士の努力にもかかわらず、サヨコは来る日も来る日も、研究対象としてのみ扱われることが多かった。
サヨコの自我は崩壊する前に、自分を外界より隔離して閉じ込めてしまうことを学んだ。彼女を保護するものがいない、という認識が起こったときに、マニュアルのように自分についての情報を説明することで、無用なストレスから自分を切り離す方法を取るようになったのだ。
心理学的に言えば、この現実から閉じこもる方法は、解離と呼ばれる。
その自分の防衛反応を、サヨコはもう乗り切ったつもりだった。なのに、少し心が揺さぶられただけで、亡霊のように甦った『それ』はあっさり彼女を支配してしまった。
(どういうことなの…?)
まるで、その彼女の思考を読んだように、スライが低い声で言った。
「以前に心理操作か、それに似たことを経験しているか? 例えば……自分を保てなくなるようなこと、だ」
サヨコは目を上げた。ついさっきまで、サヨコを嘲けるように見ていたスライの目が、暗さを増して、不可思議な哀れみを宿しているようだ。その目をサヨコは覚えていた。シゲウラ博士がときおり彼女に向けていた目と同じものだ。
その記憶がサヨコの唇をほぐした。
「……たぶん……学会報告の前後に……わたし…ひどく不安定になったんです……何か…自分が…人間扱いされなくなって……それが耐えられなくて…」
スライの目はますます深く暗くなった。サヨコを覗き込んでいた視線を逸らせて体を起こす。
サヨコはそこで初めて、自分が壁にもたれてようやく立っていたのだと気がついた。よろめきながら体を起こし、視線を逸らせたまま彼女の前に立っているスライに声をかける。
「あの……スライ……船長…」
「スライ、でいい」
スライはぽつりと言った。すぐに思い直したようにことばを続ける。
「サヨコ・J・ミツカワ。これは言っておいた方がいいと思う」
スライはようやく振り向いたが、その瞳は元の通りに冷ややかに凍っている。
「宇宙は、君が想像している以上に人間に変化をもたらす。大きな変化は心理的なものだ。ここでは、どんな心理的な問題も、解決されていない限り、増幅されて再度甦ってくることが確認されている。その変化は、『CN』より『GN』の方がはるかに大きい」
先に続くスライのことばを予想して、サヨコは体を固くした。
「そして、時には、この変化を『草』でさえも止められない。『GN』が『草』を使っても『宇宙不適応症候群』を再発する、というのは、そのためだ」
スライはことばを切った。少し息を吐く。それから、静かな口調で、
「サヨコ・J・ミツカワ。君は、『GN』であるだけでなく、大きな心理的問題を抱えている。君がここにいることは、君自身を取り返しのつかない危機に陥れることが予想される。……カナンがそれを気づかなかったとは思えないが……それを考えると、今回のモリのケースを調査する以前に、我々は君への対処に手を取られるだろう」
サヨコは無意識に目を閉じた。聞きたくなかった最後のことばが、容赦なくサヨコに耳に流れ込んでくる。
「…我々が必要としているのは、君ではない」
サヨコの手から、鞄が落ちた。




