しあわせってなぁに
「無理」
切り捨てるような一言に体を起こし、塔屋の上から屋上の様子を覗く。
見慣れた黒髪が風にふわふわと揺れており、今日も今日とて代わり映えしない水色のシュシュがそれをまとめ上げていた。
「……えっ、と」
「もう一度言うけど、無理」
戸惑った様子の男の方に見覚えはないが、堂々としている女の方に見覚えがある。
見間違えること自体、ないのだが。
「ボク、君のこと好きじゃないし、好きになれないもん」
もん、なんて可愛く聞こえる言葉も、今使ってしまえば効果はない。
それどころか、空気を乱す要素になる。
女の方は大きく欠伸をすると、それで話は終わりか、と首を捻り、男の方が屋上を飛び出していく。
遠くなっていく泣き声に、俺は一人合掌。
その間、カンコンと硬く高い音が響き、塔屋上まで登る梯子から、黒いアホ毛が見えた。
ついで現れた顔には見覚えがあり過ぎるため、浅く息を吐く。
胸元まで伸ばされた黒髪をサイドで一つに結わえたその女は、淀みない黒目で俺を見据え、塔屋の上まで登ってきた。
降り立った際にスカートの裾が揺れるものの、校則を遵守した長さで中身は見えない。
「オミくん」
俺の目の前までやって来ると、その場でちょんとしゃがみ込む。
何度か瞬きをした後に「何」と問えば、緩く首を振った。
「ボクもサボろうと思って」
しゃがみ込んだ状態で後方に倒れ込むその女は、制服が汚れることを考えずに空を見上げた。
作間という苗字だけで、クラスメイトに限らず後輩にも先輩にも教師にも認識されるその女は、何年も前から一緒にいる幼馴染みだ。
泣いて屋上を後にしたあの男も、作間さんと呼んでいたため、本名は知らないのだろう。
俺は「作」と周知となったあだ名で呼ぶ。
首だけで振り向いた作は、長い前髪を風で捲り上げている。
「お前、断り方を覚えた方が良いぞ」
「見てたのは知ってるけど、別にそんな進言を受けるようなことじゃ……」
眉根を寄せた作の鼻をつまめば、ぷむ、と変な声が漏れ出る。
「いつか逆恨みされて刺されるぞ」
ぱちくり、瞬きをする作は、数秒後に花が咲くような笑顔を見せる。
蕾が綻ぶような時間をかけた笑みだ。
進言は悪い方向へ進んだらしい――割といつものことだが。
「良いんじゃないかな、死ねるなら」
白いワイシャツの襟元が、風に揺れて無防備にも肌をさらけ出す。
不健康な青色を含んだ肌は、血管が良く見え骨が浮き上がっていた。
そして首を傾げるだけでポキパキと音のする首には、何かが擦れたような赤い痕。
それを爪で引っ掻く作は、話の内容にそぐわない弾んだ声を出す。
「それにさ、自分を救えない人間が誰かを救えるはずもないし。幸せにならない人間が誰かを幸せにするなんて、おかしな話だよ」
楽しそうな笑い声の割に、作の目は笑っておらず、一片の光も見せない。
丸く曲線で整えられているはずの爪も、喉の薄い皮膚を掻き破ろうと忙しなく動き、バリバリと耳障りな音を立てた。
「うーん。駄目だな」
バリバリガリガリ、音を止めることなく寝返りを打った作は、うつ伏せになってから起き上がる。
贅肉もなければ筋肉もない薄っぺらな腹では、仰向けのまま起き上がることは出来ないようだ。
よっこいしょ、間の抜けた掛け声と共に起き上がった作は、そのまま俺を見下ろす。
長い睫毛が小さな色濃い影を落とした。
逆光の位置に立つ作に目を細めれば、くすくすと鼓膜を刺激する笑い声。
そんな笑い声を漏らす割に、耳障りな音は止まない。
「今日は何だか、楽しい感じじゃないね。ボク、他の所でサボるよ」
青いラインの入った上靴が地面を蹴る。
塔屋に登る梯子というのは、何故か地面から離れた位置にスタートの段があった。
手を伸ばして、高い位置の手摺を掴み、体を持ち上げるようにして最初の段を踏むのだ。
つまり、簡単に言えば屋上にある小屋だが、高さはそれなりにあるという話。
座り込んでいた俺は、左手を強く床に打ち付け、右手を伸ばす。
名前を呼ぼうが、腕は決められた長さまでしか伸びず、掴めない。
「さ、」
「また後でね」
掴めなかった右手を床に付き、屋上を覗き込めば、片足と片手を揺らす作がいた。
着地音に気付けなかったが、両足できちんと降り立ったらしい作は、痩せっぽちな体の重さに耐え切れなかったようだ。
足が痺れているのか、引きずるように歩いて屋上を出て行く。
白い襟元から覗く白い首には、赤い痕が残っており、振られた手の指先には赤い色が付いていた。