372.後顧の憂い
あくる日の昼間。
俺はダンジョンに行かず、サロンの中にいた。
広い屋敷は今、俺とエリの二人きりだ。
ちょっと前までだったら、『燕の恩返し』の出張所にエリザとイーナがいて、昼間のみんなの働いてる時間でも屋敷はそれなりにドタバタしているものだが、二人が独立して『金のなる木』を立ち上げてから、屋敷の昼間は基本的に無人になった。
そんな静まりかえった屋敷のサロンに、俺とエリの二人っきり。
ソファーに座る俺と、たった状態で、俺のズボンをつまむようにぎゅっとしてくるエリ。
「エリもたってないで座ったら?」
「(ぷるぷる)」
ソファーをすすめたが、エリは首を振った。
根本的にまだどこか不安なんだろうな、だから安心してすわる事も出来ない。
何となくそう思った俺。
「うん、そうだね」
肯定も否定もせず、エリの頭を優しく撫でてやる程度の反応にとどまった。
姿形、ひいては行動が子供である分、ニホニウムよりも気を使ってやらなきゃいけない。
そう思った。
「だれかー、誰もいませんなのー?」
「ん?」
不意に、玄関の方から声が聞こえてきた。
幼げな声に、特徴的な口調。
俺は立ち上がって、サロンを出た。
「……っ」
俺の後ろを、エリがあせあせ、って感じでついてきた。
短い手足を大きく振ってとたたたとついてくる、焦っていて、今にも転びそうだ。
「大丈夫、慌てないでいいから」
俺は立ち止まって、エリを待った。
エリは俺に追いついて、やはりズボンの裾をつまむように引っ張ってきた。
「歩くときはこっちね」
そう言って手を差し出す。
エリは少し迷ってから、俺の人差し指を掴む。
手をつなぐには、俺とエリの手のサイズに差がありすぎる。
手を出しても自然とどれか一本の指を掴まれる形になる。
そんな状態で、一緒に玄関に向かっていく。
「誰もいないなのー?」
「はいはーい、今行くから待ってて」
声を上げつつ、歩く速度は遅めに維持する。
あくまでエリにあわせる、というスタンスを崩さない。
普段の倍以上の時間を掛けて、玄関に辿り着く。
声と言葉使いで想像ついてた相手がそこにいた。
マオ・ミィ。
小学校低学年くらいの女の子で、幼げな肢体に大人びた表情、身長と同じくらいの長いツインテールが特徴的な女の子だ。
同時に、フィリンダンジョン協会長という高い地位にいる人間でもある。
「久しぶり、マオ」
「お久しぶりなの。今日は遊びに来たのー」
ハイテンションにそう言って、俺の腰に抱きついてくるマオ。
親愛を表わすスキンシップは嫌いではない。
「……」
同時に、小さいマオの更に低い位置から息づかいを感じた。
「あれ、この子は誰なの? もしかしてあなたの隠し子なの?」
「なぜいきなり隠し子の方か!」
いきなりの大ボケに対して盛大に突っ込んだ。
「違うなの?」
「ちょっと訳あってあずかってるんだ」
「ふーん、なの」
マオは俺から離れて、中腰気味でエリを見つめた。
エリは慌てて、若干怯えた様な感じで、俺の背中に隠れた。
「あっ、隠れちゃったなの」
「悪いな、ちょっと人見知りなんだ」
「そうなの。マオはマオ・ミィなの」
「(ぷるぷる)」
マオのフレンドリーな自己紹介に対して、背中に隠れてしがみついてるエリはプルプル首を振るだけ。
「本当ごめんな。それよりサロンの方に行っててくれ、飲み物を用意してくる」
「わかったなのー」
マオはそう言って、軽やかな足取りでサロンに向かっていった。
それを見送って、エリに手を伸ばす。
「行こっか」
マオがいなくなって、ちょっと緊張がほぐれたエリは俺の指を再び掴んだ。
二人でキッチンに向かう。
キッチンに入って、飲み物を用意する。
マオ・ミィ。
フィリンダンジョン協会の協会長で、酒ソムリエ的な仕事をしている彼女だが、よくある「見た目は子供、頭脳は大人」でもなく、いわゆるロリババアという訳でもない。
本人がかつて
「無理をしなくていいの、マオは見た目通りの年齢だから言葉遣いは好きにするといいの」
と自己申告していたから、その通りであれば10歳かそこらだ。
故に、酒の鑑定は香りと見た目オンリーでしている。
それでもどんな大人よりも判定できるから、フィリンのダンジョン協会長という地位に収まっている。
そんな彼女に、俺はオレンジジュースを用意してあげることにした。
テルル産のオレンジを、エミリーが搾って一工夫を加えた逸品だ。
見た目も味ものどごしも一級品、ただのジュースなのに妙な中毒性まであるものすごい美味しいヤツだ。
それをコップに注いで、トレイに載せる。
すると、エリが俺をじっと見つめている事に気づいた。
彼女が初めて見せる表情――好奇心。
俺がそそいだジュースを興味津々な眼で見ている。
俺は別の小さめなコップを取って、ジュースを注いで、エリに差し出した。
「飲んでみる?」
「……」
エリは驚き、戸惑った。
俺の顔とジュースを交互に見比べて、なにやら迷っている。
俺は何も言わず、コップを差し出したポーズのまま待った。
急かさずに待っていると、やがて、エリが自分の意志で動いて、コップを受け取った。
それに口をつけると――
「……!」
パアァァ、と顔が一気にほころんで、俺に向かってコクコクと頷いてくる。
「だろ? エミリーが作ったジュース、世界一美味しいよな」
「(コクコクコク)」
これまでで一番感情豊かに反応してくれたエリ。
それを見て俺はちょっとほっとして、嬉しくなった。
怯えるだけじゃない、こんな表情も出来るんだ。
と、嬉しくなって、希望が持てた。
そんな風に、エリがジュースを飲むのを温かく見守っていると。
「あー、ジュースなの!」
キッチンの入り口にマオが姿を現わした。
待ちわびて、様子を見に来たんだろう。
「マオも飲むなの!」
「……!」
マオの勢いにビクッとなって、エリは再び俺の背中に隠れてしまった。
若干、震えているのも分かる。
マオのそれに悪意はない。
ただ元気なだけだ。
エリもいつか、この元気に怯えなくなれればいいな。
そのためには――
☆
深夜。
帰宅してきた仲間達と団らんを過ごして、皆がそれぞれの部屋で寝静まり帰った後。
俺はサロンにいた。
みんなが帰ってきた後は俺にしがみつきっぱなしのエリは、疲れて俺にしがみついたまま寝ている。
俺の膝の上で、皿よりも大きい丸いよだれの染みを作って、静かに寝息を立てている。
俺は起こさないようにしつつ、頭を撫でて上げた。
しばらくして。
「こんばんはですわ」
暗い廊下から、上品な物腰でマーガレットが現われた。
リョータ一門、マーガレットファミリーのボス。
マーガレットその人が、音もなく姿を表わした。
「早かったな」
「あなたの頼みですもの、大急ぎで行ってきましたわ」
彼女はそう言って、テーブルの上に瓶を置いた。
エリを起こさないように静かに置かれたその瓶は、ラベルに彼女の顔が描かれている。
「新製品か?」
「はい、パンドラボックスの瓶バージョンですわ。中に入っているのは水」
「マーガレット印のドロップ水か、空気箱よりはちゃんとした商品になりそうだ」
俺はそれを手に取って、まじまじと見つめてから、同じように音を立てずにテーブルに置いた。
「それで、どうだった? ――クロムは」
瓶の中に入っているのは、クロムの水。
美味しい水を生産するダンジョンクロム。
空気箱で有名なマーガレットに頼んで、行ってきてもらったのだ。
現われてもおかしくないマーガレットに、調査を頼んだ。
「えっと……ラト、ソシャ、プレイ、ビルダー」
マーガレットは少し困った顔をした後、そっと四人の忍者騎士の名前を読んだ。
すると闇の中からすぅ、と何かが現われて、彼女の耳元でささやいた。
狙い通りだ。
マーガレット本人が出来なくても、四人の忍者騎士がマーガレットの為に探ってくれる。
むしろマーガレットは何もしないで、ただマーガレット水を取りに行ってればいい。
やがて耳打ちが終わって、マーガレットが俺の質問に答える。
「リョータさんの見立て通り。クロムを独占するためにした事で、新たなエリスロニウムが水をドロップしないと知って、興味を無くした見たいですわ」
「そうか、よかった」
もしかしたらエリスロニウムを追撃してくるかもしれない。
その可能性を考えて、マーガレットに動いてもらったが。
どうやら、その心配はせずにすみそうだ。