338.牛乳騒動
シクロを少し離れると、そこは何処までも広がる、何もない荒野だった。
何もない、というのは比喩とかじゃない。
文字通り何もない、あらゆる動植物は一切存在しない荒野。
この世界にきて初めて街から離れた時はびっくりしたが、今はもう慣れた。
あらゆる物がダンジョンからドロップされるこの世界じゃ――。
「何もないのも当然だよなあ……」
「低レベル、それは違う」
俺のつぶやきに反応したのはイヴ。
自前のうさ耳と、色っぽいバニースーツを身にまとったファミリーの仲間の一人だ。
彼女はいつもの様に、ニンジンが絡まないローテンションな口調で言ってきた。
俺は小首を傾げて、聞き返した。
「違うって何が?」
「たまにハグレモノが徘徊する。誰かが捨てたゴミとか、落とし物とか」
「なるほど」
イヴにそう言われて、改めて荒野を見た。
やはり何処までも広がる荒野だ。地平線さえ綺麗に見えてしまう。
これだけ広いとハグレモノの一匹や二匹、大して問題はないのかもしれない。
「ところで、なんでついてきたんだ」
気を取り直して、当然のように俺のそばを歩いているイヴに聞いてみた。
「うさぎ、そろそろだと思う」
「そろそろ?」
「そろそろ精霊付きになりたい」
「へえ?」
目を見開くくらい驚いた。
今から行く街、そしてダンジョン。
話を聞く限り、ニンジン命のイヴが興味を示すような所ではない。そのダンジョンの精霊付きになれた所でニンジンライフが向上するとは思えない。
なのに、イヴはノリノリだった。
パッと見ローテンションだが、長い付き合いで分かる。
イヴはいつになくノリノリだった。
「今までいろんな所についてきたのに、なんでいまになって? どういう吹き回しだ?」
「そう、うさぎは今までの時間を無駄にしてきた。低レベルにもっと協力すれば、とっくに精霊付きになってる」
「まあ……そうかもな」
ファミリーに精霊付きが何人もいるし、イヴがこれまでしてきた事を考えればそうなってもおかしくない。
「うさぎが自分で精霊付きになれば」
「なれば?」
「低レベルと二人で、ニンジンの品種改良が出来るようになる」
「ああ、なるほど」
シクロなどでは、ダンジョンに関する新しいルールが出来ている。
ダンジョンのモンスターからドロップするものを変えること――品種改良をするのに、精霊付き=実力者が二人参加してないといけない。
いろんな事があった結果、そういうルールができあがった。
「なるほど、それでか」
「そう、それで」
「だとしても今ついてくる事はないだろ? どのみちダンジョン開通後一回は屋敷には帰るんだ。プルンブムとの約束もあるし。その後についてくればよかったんじゃないのか?」
イヴはプルプルと首を振った。
「今回は全部参加する」
「すごいやる気だ」
「ニンジンのために」
「いつも通りだな」
やる気まんまんだが、ぶれないイヴに安心しつつ。
俺は目的地目指して、黙々と荒野を進んだ。
☆
何もない荒野を抜けてやってきたのはハセミという街だった。
規模はそれほど大きくないが、パッと見るだけでも冒険者の数は結構いる街だ。
その街の入り口で俺たちを出迎えた初老の男が名乗ってきた。
「私がアーロン・フレイム。このハセミのダンジョン協会会長です」
「佐藤亮太だ、宜しく」
右手を伸ばして、アーロンと握手した。
ふと、イヴが俺を見つめている事に気づいた。
「どうした」
「うさぎも握手したほうがいい?」
こういうことにまったく興味なくて気配りをしないタイプのイヴが自らこんなことを言い出した。
せっかくだから、と俺はアーロンにイヴを紹介した。
「彼女はイヴ・カルスリーダー。仲間だ」
「なんと! あのボーパルバニーまでも」
驚くアーロン、初めて聞く二つ名が出てきた。
キリングラビットというのは知っていたが。
「二つ名の凶悪度が上がってる気がする」
「ニンジンイノチウサギが一番気に入ってる」
「うん俺には分かる、それは誰も呼ばないヤツだな」
どうやら図星だった、イヴは唇を尖らせて俺にチョップしてきた。
ちょっと痛いおでこをさすりつつ、アーロンに改めて向き直った。
「話を詳しく聞かせてくれ。セルからどうしてもってことで頼まれてきたんだが、詳しい話は何一つ聞かされてないんだ」
「そうでしたか、では協会までの道すがら――」
「アーロンさん!」
歩きながら説明するつもりのアーロンの前に、若い男が現われた。
身なりはいい、青年実業家ってイメージだ。
「ランドル……」
どうやら名前はランドルっていうらしいが、その名前を呼んだアーロンはすごく複雑そうな顔をしていた。
理由は――すぐに分かった。
「牛乳をやめるって本当なのか」
「そうだ、もう無理なんだ」
「なぜ」
「それをランドル、キミが聞くか? 牛乳の買い取り価格は年々下がってる、もう既にこの街の冒険者達が最低限の生活も維持できなくなっているのだ」
「だからといってそれを無くして別のドロップ品に切り替えるのは違う。カルシウム産の牛乳は輸送先のあらゆる街で好評を博している。少しだけの我慢だ、直に値段も戻る」
「キミはそう言うが、いつなんだね。ずっとそう言ってきたが、それはいつのことになるのかね」
「今は皆で一緒に痛みに耐えるときだ。ここを乗り切れば必ず――」
「あー、悪いね」
力説するランドル、あきらめ気味のアーロン。
俺は二人の間に割って入った。
「あんたは?」
「話は聞かしてもらった、大体分かったよ」
「なんだって?」
「あんた買い取り屋なんだろ? それかこの街の買い取り屋の元締め的なポジションのひとだ」
「それがどうした」
ランドルは不審な輩を見る目で俺を見た。
その目は別に構わないのだが。
「事ここにいたって買い取りの値段を上げる話を一切しないで、一緒に痛みに耐えるという精神論だけ」
「それは――」
「生産者が採算のとれない物を切って別の生産物に転向するのは当たり前の事だ」
「――それでは!」
アーロンは嬉しそうな、救いの神を見たような顔をした。
「ああ、話は分かった。引き受ける」
「ありがとう! ありがとうございますリョータ・サトウ様!」
「リョータ・サトウだって!?」
アーロンは感涙して、ランドルは驚愕した。
こうして俺は、カルシウムダンジョンでの品種改良を請け負った。