2-11・ネーム
身体中が痛い。
けれど背中にはふんわりとした安心を覚える感触。
それは感じた事のない安心感に身体が包まれている気がした。
ゆっくりと眼を開けると知らない天井が伺えて、慣れない空気がそっと頰に触れる。
自分はあの時に死んでしまって違う世界へと来たのだろうと
一瞬だけ思ったが身体中に走る痛みのせいで、まだ生きているのだと気付いた。
思考が回り始めた頭で記憶を辿ってみる。
あの時。
知らない少女に出会った後で自分は倒れて______それから記憶がない。
一体此処は何処だろうと思いながら瞳を動かす。……見た事もない部屋。
けれどあの冷たいコンクリート剥き出しの部屋の一室とは大違いで、此処はちょうどいい暖かな気温と優しい空気に包まれている。
(此所は、どこなの?)
部屋には誰もいない。
そう思った次の瞬間、障子が静かに開く。
その瞬間にフィーアは眼を見開いてしまう。
部屋に入ってきたのは、
あの自分を見下ろしていた黒髪の少女だった。
驚きを隠せないフィーアとは
反対に、少女は無情の表情を浮かべている。
風花は少女が眼を覚まして此方を見ている事を知ると
「……眼が覚めたのね」
あの時と変わらない、冷たい声音で呟く。
けれどフィーアには、恐怖に支配された精神と感情しかなく。
自然と身体が震え、怯えている。
だが。アルビノの少女が
怯えた眼をしている事を風花はとっくに見透かしていた。
………何故なら自分もかつて、その眼をしていたからだ。
風花は、やや眼を伏せながら言った。
「私は何もしないわ。大体そんな趣味もないし」
「…………………?」
フィーアは、少女の言った事に拍子抜けしてしまう。
おぼんには、小さい茶碗に盛られた粥とスプーン。
湯飲みが二つ。
(…………どうするつもり?)
こんな穏やかな空間も
何より、人形の様な少女も不慣れなものばかりだ。
その間に風花は距離を置いて正座し、持ってきたおぼんに置いていた湯飲みをひとつ取ってゆったりと飲む。
彼女は一切に何も言わない。
何もせずに数時間。暫くの間が過ぎた。
警戒心を故に、フィーアは黙って睨み付けている。
そんな日常がまた、数日間と続いた。
黒髪の少女はただ全てが淡々としていて、
何もせず、何も言わないまま、アルビノ少女の傍に居る。
呆然と遥か彼方を見る様な眼差しで何処にも視線は注がれる事はない。
このままでは、日が暮れそうだ。
本当に何も手を出してこない事に、
暴力を受けて育ってきたフィーアには意外だった。
いつしか初めに抱いていた恐怖心は消え去り、興味に変わる。
「本当に、何もしないの……?」
いつしかの疑問が、言葉として溢れていた。
すると呆然としていた少女は此方に視線を戻して、静かに頷く。
絵に描いた様に、彫刻の様に目鼻立ちの整った顔立ちが綺麗で間近に見える。
思わず見惚れてしまいそうだ。
「ええ。最初に言った筈。私にそんな趣味はないと」
「貴女はどうしてわたしを………」
「………“何故かしら”ね」
淡く微笑して、首を傾ける少女。
フィーアは躊躇いつつも、自分の事を話し始めた。
「………これ、そろそろ食べない?」
おぼんが差し出される。
温かな白米に湯気がまだ俄に立っていた。
ごくり、と息を飲む。
この少女を、この差し出された粥を信用していいのか分からない。
そんな躊躇うフィーアに、風花はさらっと呟く。
「………毒は入ってないわ。
ただの私が作ったお粥。味は保証しないけれど」
(信用してもいいの?)
この物静かな少女が
何かを企んでいるとは思えない。
「………わ、わたし___」
物心着いた時から、冷たい部屋に入れられて生活していた事。
裏社会の人間達の、玩具で彼らが酒に酔えば暴力を振るわれていた事。
自分達は自分の名前すら知らない、人間だと言う事。
そして______暴力を受けた末に皆が死んで、自分だけ逃げた事全て話した。
「……そうだったの」
「……はい」
風花はやはり気付いていた、何か裏があるのだと。
皆を置いて自分だけ逃げてしまったと嘆くフィーアの肩に
風花は手を置いてそんな事はないと何も言わずに静かに否定する。
「私だけ逃げてきてしまった…私は罪人よ」
「……そんなことないわ。貴女は皆の存在を伝える為に這い上がってきたの。
自分を責めなくて良い。貴女にそんな権利なんて無いから。
辛かったね。せめて…皆の分まで生きて欲しいと思ってる。
皆の事は任せて。
私が、この事を、貴女の友達を地下から出すわ」
泣き噦るフィーアにそう頭を撫でながら言う風花。
何も知らず分からずのフィーアに、風花は色んな事を教え決めた。
フィーアが這い上がってきた日を誕生日に。年齢は推定だが、おっとりとした姉の様な雰囲気から自分よりはひとつ上の17と考えた。
そして______。
「それとね。
私、貴女の名前、決めてしまったの」
名もなき少女に風花は言った。
アルビノの少女の名前は、フィーア・トランディーユだと。




