3ー5・束縛の糸
(最初から、周りの人を全て突き放すべきだった)
風花は、そう思った。
あの母娘と同じ、青年を北條家の束縛の元に置くのではなく
自分だけが消えて元に戻れば良かったのだ。
例え、薄情だと言われ思われても。
自分自身だけが、素直に北條家に戻れば
青年にも、青年の人生に傷を付ける事もなかったのだから。
辞職願を差し出した後
風花から渡されたのは、ある封筒だった。
中身のかなり膨らんだ封筒を見た時に、圭介は薄々の封筒の中身を理解しつつあった。
封筒の中身に入れられていたのは、200万程。
何故、風花は退職願を受け取る代わりに
大金を差し出したのだろうか。
受け取れないと青年が言うと、
「退職金だと思って下さい」と冷たく突き返された。
風花は寡黙で真面目な性格なのは知っている。冗談を言う人間ではない。
風花の多額の封筒を見詰めた後、圭介は再び、風花の瞳に視線を移した。
無表情で寡黙な面持ちは変わらないが、
その漆黒の双眸は強く何かを訴えている様に感じた。
「…………どうしたんです?」
「………こんな事を唐突に言ってしまってごめんなさい。
けれど。離れて下さい。北條葬儀社から、北條家から」
(さもないと貴方が潰されてしまう)
敢えて言葉にはしなかった。
けれど、華鈴が人を陥れ人生を左右する事件を起こしてから風花は悟った。
圭介が北條家に居ても潰されてしまうだけなのだと。
北條家に、北條葬儀社に居ても、傷付けてしまうだけだ。
ならば、
(_____北條家から、離れた方が良いわ)
圭介は華鈴に執着されている。
それもあまり、良い事も言えない。
青年を傷付けてしまったとはいえ、この機会は良かったのかも知れないだろうか。
逃げた事にはならない。
今からならば、彼自身の人生もやり直せる。
ならば北條家に束縛されるよりも、自由に生きていく方が良いに決まっているだろう。
北條家から離れなければ、彼自身の自身の人生は潰れてしまう事は決まっているのだから。
心地良い陽気。
開いた部屋と縁側の向こう側には、
果てしない空からは自由に、優雅に鳥が羽ばたいている。
病床に着いた厳造は、遠い目で優雅に羽ばたく鳥を見詰めていた。
その瞳は、衰弱仕切り弱ったものだ。
この部屋で、病床に着いてから
厳造の容体はみるみる悪くなっているのは、目に見えていた。
手足は痩せ細り、顔はかなり窶れてしまい、
かつての“威厳ある当主”の姿も面影もない。
(……………わしは、いつまで此処で過ごすのだろうか)
この部屋の病床に着いてから、日に日に追いやられてきた精神。
身だけではない。特に厳造の精神は日に日に衰弱し弱々しくなって行った。
あの少年の遺室。
この部屋に居る限り、遥か昔に己の手で下し殺めた、
あの少年を忘れる事が出来ない。
金属バットを握った感覚。
振り下ろし、小さな身体にぶち当たる感覚、
それら全てが今頃になり厳造の記憶と感覚に甦ってきたのだ。
もう何十年も忘れていた記憶と感覚を、あの小娘によって呼び戻されるとは。
365日、24時間。
あの少年を、少年を殺めた記憶を忘れる事が出来ない
。
この部屋に移されてから一時とも、安堵出来る瞬間等在りはしなかった。
そしてこの部屋に移す事を下したあの“表向きの孫娘”の存在も。
風花に至っては憎しみが交差するが、
今の精神衰弱した厳造に至っては彼女が恐怖の存在で仕方ない。
彼女はこのまま大人しくしてくれれば、良いのだが……。
(………助けてくれ………)
届かぬ思いを、離れに束縛された老人は闇の中で叫ぶ。
けれどこの言葉にならない声と思いは誰にも届きはしない。
日が暮れつつある。カーテンの隙間からは
微かに茜色の光りが差し込むのみだった。
ベッドの傍らを背にして佇む青年は、微動一つしない。
(…………これで全てが終わった)
仕事も、人生も。
圭介にとっては、もう終わったも同然だった。
長野圭介は、解雇処分。
北條葬儀社から離れる事になったが、不思議と喪失感はない。
何故ならば
(……………俺の人生はもう、終わっているのだから)
どうにでもなれば良いのだ。
もう自分自身の人生に絶望して棄てたも同然なのだから。
「あはは……」
圭介は、髪をかき上げつつ薄ら嗤う。
それはまるで自身を嘲笑うかの様に。
さて。
これからどうしようか。
脳裏を掠めた後で、ベッドの傍らに体育座りで呆然としていた。
芯を無くした物憂げで重たい深い絶望を横たわらせている。
現金の封筒を返す隙もなく、彼女は消える様に帰って行った。
最初で最後の再会と別れは、とても味気もないものだっただろう。
けれどそれでいい。妙な情がある方が別れにくいものだから
あっさりと別れ切った、後腐れのないこんな形が良かったのだ。
だが。
(逃げろとは、どういう意味なんだろう)
風花の言葉に気になったのは、
「北條家から離れろ」という言葉だった。
何時もは変わらない彼女の表情が、それを告げた際だけは何処か切なげで。
このテーブルに佇んでいる多額のお金は、
退職金という意味と北條家から逃げる為の逃走資金らしい。
北條家が複雑化しているのは暗黙の了解だが、
風花が見せたあの表情は、ただならぬ様な気がした。
そんな事を思いながら
茫洋な瞳で青年は、目の前を見詰めていた。