あいつをどう思ってるが知らないが
一、樫井豹真から刀根理子への手紙
「あいつをどう思ってるか知らないが、いなくなったら一生、後悔する」
二、檜皮和洋から刀根理子への手紙
拝啓
桜満開の季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
先日は何の挨拶もなく四十万町と私立勿来高校を離れることになってしまい、本当に申し訳なく思っています。
それだけに、理子さんの手紙がいかにもラブレターという体裁で(封印にハートのシールというのはベタすぎます)、転学者には不要の学校紹介パンフレットに入っていたことはたいへんに驚きましたが、読んでみて理由がすぐに納得できました。
お察しのとおり、この僕、檜皮和洋は普通の人間ではありません。
思えば町内にある私立勿来高校に二年生として転校してきたのは三月の末。それからせいぜい二週間で、一度も登校しないまま再び転校することになったこと自体、まともではありません。(まあ、慣れてはいますが)
だからこそ、正直に書きます。隠していても仕方ないので。再び会うこともないでしょうから。(手紙でよかった……)
あなたと過ごしたこの時間を、忘れないでいようと思います。
たぶん、僕は呑み込みの悪いバカとしか思われていなかったでしょうけど。
出会った時から、印象は最悪じゃありませんでしたか?
桜どころか、まだ朝晩が肌寒い頃、町内会長さんから「こちら、とねりこさん」と、あなたを紹介されたとき、ストーブの前でぼうっと座っていた僕は返事をしませんでしたね。
こう思ったからです。
「何でガーデニングの話なんか?」
そのくらい、僕の気持ちは動転していました。
あの山間の町に転校して一週間は、新居の準備やら制服の仕立てやらで町内を走り回り、それがようやく一段落ついたところで、いろいろ親切にしてくれた町内会長さんが「頼みがあるけんども」と話を持ち掛けてきたのが前日、四月一日。
ワゴンに積める程度のものしかありませんでしたが、前日までの引っ越しで疲れてしまい、昼近くまで寝ていた僕は、「神楽に出とくれんかな?」と言われて「カグラ」という言葉の意味を聞き返すことなく、呆けた頭のままで「はい」と返事をしてしまったのです。
夜遅くになってやっと転職先の年度初め業務から帰ってきた父は、僕の話を聞くなり「勝手に決めるな」とだけ言って寝てしまいました。
一日明けて迎えに来た町内会長に招かれるまま、黒のジャージ姿でにたどり着いたのは、町内の小さな公民館でした。
そう、あなたと出会った「日御子神楽」の稽古場です。
大きなアンプがある割には石油ストーブのガンガンに焚かれた部屋の畳に上がるなり、僕は神楽の祝詞を渡され、大勢の大人の前で読まされたのでした。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝……
もちろん、慣れない昔の言葉の羅列をいきなり声にしろと言われて、できるものではありません。
何が起こったのか分からない上に赤っ恥をかかされ、おろおろしている僕。
そのうえ、紹介されたのは、目の前で僕をじっと見ていたあなたでした。
折り畳みのパイプ椅子に腰かけている、真っ赤なトレパンに白いトレーナー、その上にどぎついピンクのヤッケを羽織った姿はあか抜けないものでしたが、正直、うろたえました。
なぜかは、書けません。あのときの気持ちを表現できる適当な言葉が見つかりません。
今でさえできないのですから、その場で何も言えなかったのはしかたがありません。
そんなの言い訳、とお思いでしょうが。おそらく。
僕を更に追い詰めたのは、あなたの第一声でした。
「これで高校二年? 小学生の方がまだマシですね」
そう冷たく言うあなたはどう見ても僕より年下にしか見えなかったのですが。
「リコちゃん、それはどもならんて」
町内会長さんの情けない声で、であなたの名前が「とね・りこ」というのだと察しがつきました。「とね」を刀祢と書くのか、刀根と書くのか分かりませんでしたが。
名前に漢字をどう当てればいいのか、いろいろと考えていた僕の頭を現実に引き戻したのは、急に横柄になったあなたの口調でした。
「有馬高生は、もう探しないたんかな?」
探したわあ、と町内会長さんは口を尖らせて答えましたね、目をそらしながら。
有馬高校。
僕が転校したのとは別に、そんな名前の公立高校が近くにあるのは知っていました。
どちらかというと、当然、そこそこレベルが高くて、授業料を払わなくていいほうが魅力です。
しかし、訳あって急に引っ越したので、定員の厳しい公立ではなく、私学に入らざるを得なかったのです。
そんなわけで、一瞬だけ考えたのは、「ああ、もともとお呼びでなかったんだな」ということでした。
しかし、そういった少し惨めな気持ちは、あなたの知ったことではなかったようです。
パイプ椅子の倒れる音が稽古場一杯にけたたましく響き、あなたは僕を見据えて立ち上がりました。
「ちょっと来てくれませんか?」
丁寧に、しかしトゲのある冷ややかさで「ちょっと顔貸せ」と言っているあなたは怖かった。僕はおとなしく従うことにしました。そういうことにしてるんです、こういうときは。昔から。
稽古場の外にあなたに呼び出されたとき、よく晴れているとはいっても、桜が咲く前の空気はまだ冷たいものでした。
その春先の気候並みにぞくっとさせてくれたものです、あなたのまなざしは。
「会ったばかりでこんなこと言うのナンですけど」
逃がすまいというつもりか、僕を公民館の戸を背にして立たせ、長い黒髪をさあっと撫でるなり、一呼吸おいて言い放ってくれましたね、結構失礼なことを。
「高校生ですよね?」
ムカッときました。
確かに、僕の頭はたいしたことありません。せいぜい人並みより……ちょっと上だと思いたいですけど。
でも、はじめて渡された昔の言葉をきちんと読めなかったくらいでそこまで言われる筋合いはないと思います。
それでも、「まあ、一応」としか答えられなかったのは、ひとえに僕の性分のせいですが、それでもあんなに怒られるとは思いませんでした。
「じゃあ、それなりの意地と見栄を見せてください。二人合わせてもせいぜい五分くらいの掛け合いを覚えるだけなんです」
決して、意地も見栄もないせいではありません。そもそも、あの場で見せる必要がなかっただけです。
さらに、もう一つ理由がありました。
僕には、口にしてはいけない言葉があるのです。
あのとき、口ごもったのも、そのせいでした。
それなのにあなたは、僕にそれを繰り返させようと迫りましたね。
「汝って、読めませんか?」
読めないのではありません。うかつに読んではいけないのです。読んだら最後、とんでもないことが起こります。
「読めませんか?」
一歩進んで詰め寄られて、途方に暮れました。
どうしても読まなければいけないのか? そもそも、何でここまでムキになるのか?
「これ、読んでもらわないと困るんです」
ぐいと眼前に迫られて、僕は思いました。
……帰っていいんじゃないか?
朝から呼び出されて、訳のわからないものを読まされて、読まないで済まそうとしたところを責められる。
僕には何の非もありません。雰囲気的に反論は無理ですが、黙って帰るのは難しくないはずです。
相手は年下の女の子ですから。
そんな卑劣なことまで考えたそのとき、僕はあなたの目に光るものに気づきました。
真珠のしずくにも喩えられるもの……涙です。
そのとき、空はうっすらと白くなりました。春の風が一瞬だけ、天から吹き降ろしてきました。その風にむざと落とすに忍びなく、僕は覚悟を決めました。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝……
いかに昔の言葉とはいえ、さっき聞いたばかりの言葉を復唱するぐらいの記憶力は持っています。
問題は、その結果にあったのです。
僕が「汝」という言葉を口にした途端、春の空は灰色に乱れ始めました。
小学生の頃、図工の時間に写生に出て、使った絵筆をすすいだ後の筆洗で絵の具が水に弄ばれているときのような、あの雲です。
しかし、僕の発音はやはりおかしかったようです。
「そのアクセント、変です」
な・ん・じ、とあなたはゆっくり言い直してくれました。
冗談じゃありません。本気で僕がその言葉を発したら、とんでもないことが起こります。
すでにお察しのとおり、僕は普通の人間ではありません。
言葉によって自然を操る者、「言霊使い」だからです。
口ごもる僕を、あなたは責め立てました。
「できないんですか? どうして?」
それは、としどろもどろに答えたその時です。
公民館の中から、高らかにクラシック音楽が鳴り響きました。
ビバルディ『四季』の中の「春」でした。
「樫井さん……!」
あなたがそうつぶやいて公民館の中へ駆け込んだおかげで、僕は危険なひと言を口にしないで済みました。
雨雲はすでに去り、空は再び冷めた青色を取り戻していました。
しかし、「春」の曲はすぐに止み、この隙に帰ろうとした僕の足は止まりました。
背後の戸が開いたのです。
「あの、とね……さん?」
刀根と刀祢、どちらを書くのか分からないままにウロ覚えの名前を呼ぶと、返事をしたのは男の声でした。
「刀に根っこと書いてトネだ」
振り向くと、そこには小柄な少年が立っています。
「理科の理に子供で、理子。今、自分の稽古をつけてもらってる」
上目遣いに僕を睨みつけるなり、初対面の僕に理子さんよりも失礼なことを言いました。
「面汚し」
男が相手なら何の気兼ねもいらないはずですが、僕はやはり何も言えませんでした。
畳み掛けながら見つめるそのまなざしには、背筋がぞっとするような何かがあったのです。
「檜皮和洋。俺はお前を知ってる」
まさか、と思いました。ひとつだけ、心当たりがあったのです。
僕は尋ねてみました。
「君も?」
彼は頷きました。
「樫井豹真。覚えておけ」
同じ言霊使いがそんなに簡単に出会うものか、と思うかもしれませんが、僕たちの同類は結構、あちこちにいます。お互いに連絡を取り合い、血筋と技を受け継ぐには何かと不便の多い世の中を、助け合って生きているのです。
実際、僕と父がここへやってきたのも、仲間内の紹介があったからなのです。
「じゃあ、君が……」
僕より一つ年下の言霊使いが既にいるらしいという話は、父から聞いていました。父の亡くなった友人の息子で、母親も早くにこの世を去り、彼の素性を知らない親戚の家に引き取られて暮らしているということでした。
「知ってるんなら余計なことは言うな」
まるで心を読んでいるかのように、言葉を的確に返してきます。
「俺も事情は知ってるから聞かない」
彼の言う事情は深刻ですが、単純です。
僕が言霊使いの力を隠しきれなかったために、周囲から気味悪がられておかしな噂が立ち、居づらくなったというだけのことです。
よくあることだ、と彼は鼻で笑いました。
「昔は、雨男だってだけで仕事を干された大工がいたっていうしな」
その逆もあったといいます。雨乞いをしたり、もっと昔は船が海で嵐に遭わないように祈ったりもしていたようです。
「まあ、刀根理子とはうまくやるんだな」
理子さんとの間に入ってくれたことには、彼の素性が分かったところで気づいていました。
そこで僕は聞いてみました。理子さん本人には言えない事だったからです。
「これ、どういうこと?」
僕がいきなり祝詞を読まされた理由です。
面倒くさそうに顔をしかめられましたが、丁寧に説明してもらえました。
四十万町周辺にある日御子神社は、もともと農作物の実りをつかさどる地元の太陽神であったこと。春の神楽は、その神様を山から里に迎えるものであること。その祝詞は男女の掛け合いで、十代後半の若い男女二人が毎年交代して役目に就くものであること。
「……ってことは、刀根さんは中学三年生?」
ぎりぎり十五歳ということになりますよね。
「町立の氷月中」
てっきり、樫井豹真も同い年かと思って聞きました。
「じゃあ君も?」
物凄い形相で睨まれました。
「俺は有馬高の一年」
それなら、祝詞の条件に合っています。
すぐに気づきましたが、僕が何も言わないうちに不機嫌そうな答えが返ってきました。
「背が低いとダメなんだとさ。」
フォローの言葉もありませんでしたが、彼は自己完結してくれました。
「俺も別にやりたくないし、こうやってBGM流してるほうが性に合ってる」
「神楽にクラシック?」
まさかそんなはずはないと思いましたが。
「お囃子さ。横笛を吹ける大人も減ってるんでな」
「じゃあ、助けてくれたあのビバルディは?」
フォローのつもりで聞いてみると、彼の頬が心なしか緩んだ気がしました。
「いつも聞いてるのをアンプにつないだのさ」
懐からレコーダーを取り出して見せてくれましたが、表情を強張らせてすぐ引っ込め、渡井を理子さんのことに戻しました。
「刀根理子も別にやりたくなさそうだけどな。受験生だし」
「じゃあ何で?」
会ったばかりの年下の相手に罵詈雑言浴びせられて、結構気分を害していた僕です。正直なところ。そこまでムキになる理由を知りたいと思いました。
「あそこは代々、しきたりにうるさい婿取りの家でな。母親が仕切ってんのさ」
気の毒ではありましたが、さいぜんの辛辣な発言でチャラ、ということにしました。新学期が始まれば、もう会うこともありません。問題は、どっちの高校に来るかということです。
授業料無償の県立有馬高校か、学費がかかってちょっとランキングの低い私立勿来高校か。
止せばいいのに、身内の気安さで、つい余計なことを言ってしまいました。
「来年は有馬に来るんじゃない?」
樫井豹真は急に背中を向けて言いました。
「刀根理子の親父は勿来高校の理事だぞ、どうでもいいが」
僕は「へえ」というしかありませんでした。本当にどうでもいいことだったのです。むしろ、続く言葉のほうが問題でした。
「くれぐれも言っとくが俺たちの力は、隠すことなんかない。見るに堪えないから止めてやったけど、次はやれよ」
さらに、公民館の戸に手を掛けながら付け加えたのは、これです。
「こないだ持ってた入学案内見たら、県庁所在地にある進学校のだったぞ」
そこで入れ替わりに理子さんがやってきたので僕たちの会話は途切れましたが、あの後に掛け合いをやってみたんでしたね。
もちろん、さんざんだったと思っています。
「早うやって早う終わっとくれん? 受験生やもん、私」
町内会長さんにそう言っていた理子さんですが、僕が大人から何度ダメ出しをされても、自分の番が来ないことに表情も変えず、ずっと同じところに立っていましたが、余計なことは何一つ、冗談はおろか不平不満さえも言いませんでした。
お囃子のCDを流すプレイヤーのボタンを押す樫井豹真はと見れば、その指にムダな力が入り、デッキを壊すのではないかとさえ思われました。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝……
早い話が「なんじ」と言わなければいいのですが、それは通りませんでした。「なれ」を「な」と読んでも同じことです。とうとう、僕は休まされ、樫井豹真が代役に立ちましたが、実に堂々としたものだったと思います。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝このくにに来してひととせ、ふたとせ、長きにわたれば、とこしえの恵みを賜はん。
そこで語り始めた理子さんの笑顔は、まるで別人のもののようでした。照明の蛍光灯をいつ交換したのか分からないほど古ぼけた部屋が、あのときだけふわりと明るくなったようにさえ思えたものです。
受けたまへ、受けたまへ、我みとせ、よとせ、とこしへに、日御子の恵みにて、五種の穀やすらへん。
結局、あの日は朝から引っ張り出されただけで、ほとんど何もせずに半日が潰れました。気が付くと公民館は昼前の日が差し込んでいたにもかかわらず、また元の薄暗くて辛気臭い場所に戻っていました。
練習が終わった後、町内会長さんが手を擦りながら感謝の言葉を述べるのをうわの空で聞きながら、それとなく理子さんを探したのですが、あなたはもういませんでした。
「どうしたんやな?」
話をろくに聞いていないのに気付いたのか、町内会長さんが尋ねてきました。
刀根さんは、と聞いたところ、この近辺では名の知れた旧家の生まれで、本来はあまり出歩くことも許されておらず、帰りは早いのだということでした。
やっぱり、受験生の気持ちは経験してすぐでないと分からないものですね。
僕もすぐに帰ろうかと思ったのですが、そこで声をかけてきたのは、樫井豹真でした。
「ちょっと顔貸せ」
相変わらず、彼はぶすっとしていました。
本当は帰りたかったのですが、ここで断ると後を引きそうだという判断が勝ち、「昼飯前に済む用事なら」と条件を付けて、ついていきました。
着いた先は、公民館からだいぶ離れたところにある、山肌を削った採石場でした。
人家のあるところなどとうになく、あるのは舗装もされていない道と、ごろごろ転がる大きな岩だけです。
どう考えても関係者以外立ち入り禁止の場所です。
うすぼんやりと晴れた空の下で、僕たちは乾いた砂を踏みしめ、向かいあって立ちました。
場所的にも雰囲気的にも、昼食は遅くなりそうでした。
そこで僕は、とりあえず謝っておくことにしたのです。
「悪かったよ、代わってもらって」
しかし、豹真の怒っていたポイントは、そこではありませんでした。
「やれって言ったろう」
僕が祝詞を上げなかったことを言っているのです。
それは無理だ、と僕はさいぜんから言っていることを繰り返しました。
この力を人に知られたら、また引っ越さなければいけません。まるで趣味であるかのように。
父は転職三日目で、辞表を出さなくてはなりません。根性なしの新入社員でもないのに。
しかし、豹真にとってそんなことは知ったことではありません。
彼は、僕に言霊使いのプライドがないと思っているのです。
「できない」
僕は断言しました。
子どもの頃からどれだけ引っ越してきたでしょう。どれだけ父に職を変えさせたでしょう。母は、そんな生活に疲れたのか、去っていきました。
もういい加減、静かに暮らしたかったのです。
父から聞いていた彼の境遇は僕よりも過酷なのですから、そんな気持ちは話せば分かるはずでした。
「君だって、使わずにやってこられたんだろ?」
豹真の言霊がどんなものかは分かりませんでしたが、人前で使えばタダで済むわけがありません。両親を失い、人の厄介になっている立場ではなおさらのことです。
しかし、豹真は顔を歪めて笑いました。
「使ったさ。言霊も、頭も」
僕の身体に、ぞっとするものが走りました。
言霊を使う者同士は、それが働く前から互いにそれを感じ取れると父から聞いたことがありましたが、それを実感したのは初めてでした。
実感できたことは、まだありました。
それまで何となく感じていた、豹真の性格の悪さです。
「事故が起こっても、周りには、その場の誰かのせいだと思わせればいい」
いちばん知り合いになりたくないタイプでした。
言霊使いがお互いをそれと感じ取れるのには、それなりにいいこともあるのですが。
なぜなら、父が言うには、言霊とは違う力を持つ者たちもいるからです。
お互いにその存在は感知できないので、こうして仲間同士を見分けて固まることで棲み分けができてきたということなのですが、この場合はお互いに気づかないほうが幸せだったのではないかと真剣に思いました。
どうやら豹真にとって、僕は仲間というより対等の喧嘩相手のようでした。
「いやなら、使わせてやるよ」
そのつもりがなくても、口だけでは分からないということが、ようやく覚悟できたのは、このときです。
豹真の口が、小さく動いていました。耳を澄ますと、微かな声が聞こえてきます。
言霊を動かすための祭文でした。
ほのたつや、ほのたつや、ひと・ふた・み・よ、ほむらたつ……。
肌に熱いものが感じられて、ふと身体を見渡せば、うっすらと煙が立っています。
祭文の意味と豹真の力は、そこで分かりました。
火の立つや、火の立つや、一・二・三・四、炎立つ……。
何もないところに火を起こす。
たぶん、そのキーワードは「ほむら」……。
その時思ったのは、僕が父に言霊を鍛えられてきたように、豹真も亡き父親から同じように育てられてきたのだろう、ということです。
そうなると、自分の身体に火が点きかかっていることの恐怖よりも、またそうしている豹真への怒りよりも、むしろ同情や憐れみのほうが強く感じられました。
しかし、それが豹真に伝わるわけはありません。
「使え! お前の言霊! 大火傷するぞ!」
きな臭い匂いの中で、僕は叫びました。
「やめろ! 言霊使い同士は闘っちゃいけないって、知らないのか?」
それが僕たちの掟です。互いに傷つけあって、共倒れにならないための。しかし、豹真はそれを軽く笑い飛ばしました。
「そんなもんがあったかもしれんな。俺はずっと一人でこうしてきたから関係ない」
ぞっとしましたが、聞かずにはいられませんでした。
「言霊使いでない人にまで?」
楽しそうな笑い声が返ってきました。心からの笑いだったでしょう。
「そうさ、バカはいくら傷ついてもいい!」
あの甲高く耳障りな声は、今になっても忘れることができません。豹真は舞い上がっていました。生まれて初めての、言霊使い同士の戦いに。
「さあ見せろ、お前の言霊! 使わなければ焼けて死ぬぞ!」
もともと黒いジャージなので目立ちませんでしたが、あちこち焦げているようでした。豹真はもはや正気とは思えませんでしたが、それでも僕の頭の中で引っかかっていることがありました。
なぜ言霊が動かないと、焼けて死ぬのか? 見せれば、やめてくれるのか?
そう考えて、一つだけ、思い当たったことがありました。
僕の言霊の効果のうち、豹真が見て知っている可能性があるのは、理子さんを前にしたときの、空を覆う暗雲しかありません。
もし、そうであれば、明らかな勘違いです。
僕の力は、雨風を起こすことではありません。火をつけられても、消せないのです。
已むを得ません。
僕はジャージを脱ぎ始めました。脱いだものを片端から地面の砂に叩きつけていると、今度は靴下に、そして下着に火が付きます。僕は構わず脱ぎ続けました。
「何してるんだ、お前!」
豹真の金切り声を聞き流し、僕は最後に残った腰の一枚に手を掛けました。
「やめろ! バカかお前は!」
僕は笑いました。
「そうさ、僕はバカだ。好きなだけ傷つけるがいい。ほら!」
これで全裸になる、というところで、豹真は僕に飛びつきました。
どうやら、こういう結末はプライドが許さなかったようです。
荒い息をつきながら、豹真は言いました。
「服着ろよ」
もう、服から煙は出ていませんでした。
言われなくても、と腹の中で毒づきながら、僕は脱いだ服の砂を払って再び身に付けはじめました。
豹真は諦めたのか、ものも言わずに背を向けて、歩み去っていきます。僕はようやく安心することができました。
しかし、羽織ったジャージのファスナーを上げたとき。
あの悪寒が、再び襲ってきました。
僕はとっさに叫びました。
な、なじ、なんじ、にじ、とよみなれ! (汝、蛇、汝、虹、響み鳴れ!)
彼方の山の向こうが一瞬だけ陰り、稲妻が一瞬閃いたかと思うと、微かな轟きが聞こえました。
これが、僕の言霊です。「なじ」「なんじ」あるいは「にじ」。
どれも「蛇」を意味する古代の言葉に由来するものですが、その時代には稲妻も「天空を駆ける蛇」と捉えられていたらしく、それが言葉に力を持たせる源となっているようなのです。
遠い空で雷が鳴った瞬間、ぞっと来る感触は失せました。振り向いて見ると、ごつい大岩が転がる山の中の採石場から、豹真の姿は消えていました。
しかし、本当の問題は、その夜に起こったのです。
帰宅して夕方まで寝ていたところ、どう見ても定時に退勤したとしか思えないくらいの早い時間帯に帰った父が、僕をその場に正座させて「雷」を落としました。
地震・雷・火事・オヤジのうち、二つが揃ったわけです。
「お前は何を考えとるんだ!」
父は痩せて背のひょろ高い男ですが、一旦怒ると、貧相な身体のどこから出るのかと思うような大声を出します。その勢いは、本物の雷にもひけをとりません。
僕の言霊を鍛えたときも、ずっとこんな調子で怒鳴り通しでした。
「和洋、ここ座れ、ここ」
父の説教は、向かい合って正座というのが基本です。
「何で怒ってるか、心当たりはあるな?」
僕はこういうとき、「はい」とだけ答えて頭を下げます。
いちいち説明しなくても、そこはもう阿吽の呼吸で分かるのです。
晴天に突然轟いた遠雷の音に、父は僕が言霊を使ってしまったのを察したのでしょう。
「自分がやったのがどれほどまずいことか、分かってるな?」
分かっているからこそ、神妙にしているのです。
なにしろ、言霊は訓練すればするほど危険なものになります。
それは、すでにお話しした僕や豹真のことを思い返してもらえれば分かりますよね。
力を持つ言葉が日常会話の中に含まれていればなおさらのことで、常に注意を払っていないと周りの人がとんでもない迷惑をこうむります。
豹真の使う「ほむら」は、普段使う言葉ではありませんが、僕の「なんじ」はどちらかというと警戒を要するほうだといえるでしょう。
「お前は、人に時刻を聞くこともできんのだぞ」
つまり、「いまナンジ?」と聞いたり、「ちょうどニジ!」と答えたりした途端に、空はにわかにかき曇り、稲妻が轟音と共に振ってくるということです。だから僕は、絶対に時計を手放せませんし、時計のないところでは時間を聞くのを我慢しなくてはなりません。
そんなわけで、僕が言霊を使ってしまったことに対するの父の怒りは、それはもうただごとではありませんでした。
「で、そこには誰がいた?」
樫井豹真だけ、と答えると、父はほっと安堵の息をついてつぶやきました。
「それならまだいい」
状況によっては、ごまかすのが大変なのです。
言霊の働きが一度や二度目立ったくらいなら偶然で済みますが、ものによっては 日常会話の中で特定の言葉を口にすることさえできなくなります。
いちばんわかりやすい例が、「雨男」。
あれは、雨を呼ぶ言葉が普段の会話の中に含まれているために起こる現象なのです。
訓練されていない人の場合は、言葉が効果を及ぼす人と及ぼさない人で個人差があります。
さらに、それが実際に天気を変える場合とそうでない場合があるのです。
「怪しまれたら、また……」
それ以上は、申し訳なくて父に言わせるわけにはいかないので、僕は言葉を遮りました。
「それは分かってるよ」
だから、僕たち言霊使いは、雨を操れる人ならばその言葉を避けることができます。ただし、どうしても会話が不自然になったり、無口になったりしがちです。
それが嫌な人は、敢えて「雨男」の汚名を着て、行楽シーズンなどは爪はじきに甘んずるのですが、それはまだいいほうです。
湿気を招き寄せたり、風で砂ぼこりや海の波を立てたり、僕のように雷を落としたりと言った人たちは、仮に事故を起こさなくても言葉遣いや立ち居振る舞いを気味悪がられ、転居を余儀なくされるのです。
とにもかくにも、これで「僕が自分の非を認めて充分に反省した」という状態になりました。僕はこれまでの経験から、父の説教は終わったものと判断し、痺れる足をこらえて立ち上がりましたが、今回の話にははまだ続きがあったのです。
「お前は何も分かっとらん!」
一喝されて再び着座した僕は、父のまなざしがいつになく厳しいのを感じました。
こんな目で見つめられるときは、たいてい僕が致命的な失敗をやらかしたときです。
つまり、言霊で人を傷つけてしまったとき。これは、身体の傷に限りません。心や、立場なども含みます。
そんなわけで、僕も神妙な気持ちになって父の叱責を待ちました。
ところが、僕が聞かされたのは意外なことだったのです。
「なぜ、豹真と闘った?」
さすがに僕もむっとしました。あれは売られた喧嘩で、言霊を使ったのも、それを避けるためです。そこは気持ちを抑えて丁寧に事情を説明しましたが、父の怒りは収まりませんでした。
「事情はどうあれ、それで言霊を封じられた者もいる!」
これまで父に聞かされてきたことによれば、私闘が知られれば、他の言霊使いたちが大挙してやってきて、言葉と自然とのつながりを断たれてしまうそうです。言霊使いにとって、それはほとんど死を意味するといいます。自分の言霊が動かなくなると、心と身体は急激に衰えていくものらしいのです。
それまで他の言霊使いと関わったことがなかったので気にもしませんでしたが、いざ自分が当事者になってみると、豹真と闘ったときとは別の寒気がしました。
しかし、父の語気はそこで緩みました。
「ただし、例外もある」
それは知りませんでした。「例外?」と聞き返すと、父は重々しい口調で答えました
「正式に申し込まれた決闘なら、負けたほうが追放されて済む」
それは初耳だったので、聞いてみました。
「どうして今まで教えてくれなかったの?」
父は一瞬口ごもりましたが、答えてはくれました。
「知らない方がいいこともある」
それっきり、父が豹真との闘いについて触れることはありませんでした。
ここまでお読みになれば、その翌日のことに納得がいくかと思います。理子さんがまともに豹真と関わったのは、あの日だけですから。
その日の練習は、会場下見も兼ねて、町役場の駐車場に仮設した野外テントで行いましたね。
普通に考えれば、前日にあんな思いをすればもう行きたくなくなるものですが、不思議と抵抗はありませんでした。あのときの気持ちも、理子さんに初めて会った時と同じくらい、言い表す言葉が見つかりません。
ただひとつ、説明ができるとすれば、それは豹真への意地でしょう。逃げたと思われるのは、シャクに障りました。
さて、朝早くからとはいえ、人の行き来も結構あるところで祝詞を上げるのは気恥ずかしいものでした。町内会長さんをはじめとする大人たちのテンションもかなり高く、役場を訪れる人たちとの間に交わす挨拶には、どうしても僕たちが巻き込まれます。
来る人来る人、「がんばってね」と声を掛けてくるのにいちいち答えるの、面倒じゃありませんでしたか、理子さんは。
正直、僕の目にはあなたがたいへん不機嫌そうに見えました。当然だろう、とその時は思いました。この町から出て、偏差値ランクの高い学校に通って、それからもっと先へ行きたいあなたとしては、たかが田舎町の神楽になどつきあってはいられないはずです。
特に、絶対に上手く言えない僕の祝詞などには。
雷を起こすまいとすれば、どうしても「なんじ」はまともに発音できません。最も影響の小さい形で読み上げなければならないので、ダメ出しは避けられないのです。
前の日と同じところでつっかえることで、理子さんも大人たちも相当イラついているのは分かりました。
練習を滞らせているのはもうしわけないので、僕も対策を考えました
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、ぬし……
なんとかごまかせないかと、「汝」を、同じ二人称の「ぬし」に置き換えてみましたが、それは認められませんでした。
特にこだわったのは、理子さん、あなたでしたね。
別に責めているのではありません。当然のことです。
「まじめにやってくれませんか、檜皮さん」
はじめて名前で呼んでもらえて、なんだかくすぐったい気持ちがしましたが、理子さんの子と場は辛辣で、心が折れました。正直。
「遊んでるんじゃないんです、私も、町内会の人たちも。そんなところでわざとふざけるなんて、小学生男子のすることです」
ひとこと多いな、と思いましたが、そこは黙っていました。代わりに町内会長さんがなだめてくれましたよね。
「そこはほれ、男の子やし、大目に見たってくれよ」
全然フォローになってないのですが、僕は素直に感謝しました。心の中で。
しかし理子さんは、大人相手にきっぱり言ったものです。
「朝早くから、お店やなんかお忙しいのに、ありがとうございます。でも、私の場合は頼まれたのではありませんし、自分で名乗り出たわけでもありません。あくまでも母が申し入れたことです。行事ではありますし、母の立ってのお願いでもありますので、お役目は果たします。でも、それならそれなりのことをしたいと思っておりますので、宜しくお願いします」
だいたい、こんな感じだったかと思います。
僕は呆然と見てましたし、大人も唖然としていました。
やがて、練習は再開されましたが、やっぱり僕は「なんじ」をはっきり言うことができません。言葉も、できる限り差し替えてみました。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、なれ……
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、うぬ……
しかし、どれだけやってもダメを出され、大人たちは露骨にうんざりした顔で僕を眺め、理子さんは溜息を吐き続けました。
とうとう、シビレを切らしたらしい町内会長さんが前日と同様に休憩を提案した、そのときでした。
あの事件が起こったのは。
ヤカンでお茶を出すための火をかけていた、カセットコンロのボンベが破裂しましたね。
あのとき、周りには誰もいなかったので怪我人はありませんでしたが、近くに遭った新聞紙に引火したので、役場から職員が駆けつけて消火器を掛ける騒ぎになりました。
町内会長さんが平謝りに謝り、町の大事な行事ということで神楽そのものにお咎めはなかったようですが、その日の練習は中止になりましたよね。
あの後、カセットコンロを持ってきた大人が町内会長さんに大声で怒鳴られていましたが、あれは故障したものを使ったせいではありません。
こう言えばもう、察しはつくでしょう。
やったのは、豹真です。
当日用のアンプまでは設営できないので、横笛の音は、僕たちが練習しているそばで豹真がラジカセから流していました。
理子さんには聞こえなかったかもしれませんが、あの時、豹真はとあるプロ野球チームの応援歌を口ずさんでいました。
……夢を、ほーむらン……。
爆発は、その瞬間でした。豹真は、歌の文句に混ぜて「ほむら」を使ったのです。
僕は、帰り際に豹真を呼び止めました。
「何であんなことやったんだ! あのおじさん関係ないだろ!」
豹真はしれっと答えたものです。
「俺は人助けをしたつもりなんだけどな」
まかりまちがって雷を呼んでしまっても困るので、なるべく冷静に話しかけたつもりだったのですが、さすがに怒りがこみ上げてきました。
「誰が助かったんだよ、誰が!」
お前がさ、と鼻先に突きつけられた人差し指を、手の甲で弾くように押しのけると、豹真は口元を歪めて笑いました。
「あのまま行けば、町内会の皆さんの時間を食いつぶし、刀根理子にはバカにされ、役場に来る人の前で午前中いっぱい、いい晒しものだぜ」
そんなのは言い訳だと思いましたが、ここまでしゃあしゃあと言い抜ける豹真を追及するだけ無駄です。
だから僕は、努めて冷静に言いました。
「来年は君がお世話になるかもしれない人たちだってこと、忘れないようにね」
毎年交代なのだから、いかに小柄とはいえ、お鉢が回ってくる可能性は充分あるのです。
この皮肉が通じたのか通じなかったのか、豹真は僕をおいて駐車場を駆けて行きました。
こう言い捨てて。
「来年も、この調子で切りぬけてやるさ」
練習が中止されてしまったので、僕にはヒマな一日が待っているはずでしたが、神様というのはなかなかに意地が悪いものです。
帰ろうとした僕は、背後から理子さんに呼び止められました。
「つきあってくれませんか?」
淡々とした口調でしたが、どきっとしました。いや、いい意味で。
「交際してくれ」の意味でないことは理解できていましたよ、もちろん。
そこで、「どこへ?」と尋ねたわけですが、僕が連れて行かれたのは町はずれの河原でした。
山裾に沿って流れる川のほとりの広い場所でしたが、山間なので、ところどころに大きな岩の転がる河原の石はごつごつと大きく、たいへん歩きにくくなっていました。
足もとの石がときどきぐらつき、僕はバランスを崩しがちでしたが、理子さんは軽々と歩くので、ついていこうにも距離はどんどん開いていきます。
やがて、トレパンにヤッケ姿の理子さんは大岩の一つに腰を掛けて、僕を待っていてくれました。ようやくたどり着いた僕に「遅いですよ」と言うなり、目の前にぽんと飛び降りて宣告したのは、この一言でしたね。
「特訓します」
帰りがけの一言とおなじくらい、どきっとしました。
特訓という言葉に、いい思い出はないんです。父親が厳しかったもので……。
それにしても、まさか前日に会ったばかりの年下の女の子からシゴかれることになろうとは。このときばかりは、情けなくて涙が出そうになりました。
理子さんの言う「特訓」のポイントは、もっともなことでした。相手が僕でなかったら、たいてい上手くいくだろうと思います。
「檜皮さんは、必ず同じ言葉を間違えます。間違えるから、違う言葉でごまかそうとするんですよね」
当たらずとも遠からず、でした。後半だけ当たってましたから。
「私、思うんですけど、その言葉を言おう言おうとして構えるから、かえって間違えちゃうんじゃないでしょうか」
そう受け取られていたなら、たいへん望ましいことです。言霊使いが人の中で生きていくのに肝心なのは、不自然な行動や現象にどうやって理由をつけるかということですから。
さらに、理子さんのアイデアは目の付け所もさるところながら、その方法も独創的でした。
「ですから、その言葉が口グセになればいいんじゃないか、と思うんです。意識するのが原因なんですから、無意識のうちに声が出ればいいんです」
ゆっくり話したのは、僕があまり賢くない、という配慮からだと思います。もしかするとバカにされていたのかもしれませんが、いい思い出のほうを取っておきます。
さて、そこで唐突に理子さんが言い出したのは、これでした。
「どんな曲が好きですか?」
これには僕もちょっと戸惑いました。話が飛躍しすぎていたからです。しかも、声を低めて尋ねられたので、僕が知らないうちに何か悪いことでもしているかのような錯覚にとらわれました。
答えに困っていると、理子さんは更に同じことを尋ねて急かします。あまり音楽には詳しくありませんが、慌てるとなかなか思い出せないものです。おまけに理子さんは、うつむき加減に目を閉じて、額に手を当てています。僕の目には、 相当の怒りを溜め込んでいるように見えました。
僕は記憶を探るヒントを求めて、あちこち見渡してみました。
川のほとりの山、町を挟んだ反対側に連なる山並み、うっすらと雲の流れる春先の青空、殺風景な河原……。
ふと、その河原の広さが気になりました。川の幅に比べて、河原が広すぎるのです。
そこで僕は、「あの」と手を挙げてみました。まるで野外学習に来た小学生のように。
「何ですか」
そう答えた理子さんの口調は、たまたま虫の居所が悪かった引率の先生のように不愛想でしたが、僕は構わず尋ねました。
「この川はもともとこんなに細いんですか? 河原がこんなに広いのに」
しばらくの沈黙が重かったのを覚えています。
やがて、理子さんは「関係ないんじゃないですか」とつぶやいたうえで、こう答えてくれました。
「この川は、雪解けで水が増えても、こんなものです。でも、もともとはもっと水量が多くて、この河原一帯に流れていたらしいですね。今でも、大雨が降ると、河原は水に浸かります」
不愉快そうな口調が、そのときはたいへん不思議に感じられました。まるで、川の流れに責任があるのを追及されているかのような、そんな口ぶりでした。
しかし、川の増水をイメージしたとき、思い浮かんだ曲がありました。
質問されてから随分経っていたので、理子さんがきょとんとしたのも無理はありませんが、あのときの表情は忘れることができません。無表情で、声を押し殺したように話す理子さんに、あんなとぼけた顔つきができるとは思わなかったのです。
そこで僕は、歌詞の内容をかいつまんで説明しました。
「洪水の夜に、崩れそうな堤防にすがって泣く気持ちを歌っているんですが……」
そう、とだけ答える理子さんの表情が再び曇ったのには慌てました。どっちが本来の理子さんかは分かりませんでしたが、僕は、きょとんとしたときの顔をもっと見ていたかったのです。
やがて、理子さんは「じゃあ」と手を叩いて言いました。
「歌ってみて」
今度は僕が面食らいました。歌はあまり得意ではありません。カラオケに行ったことさえないのです。
僕がどぎまぎしていると、理子さんはゆっくりと手拍子を取りながら、理由を説明してくれました。
「好きなリズムで覚えたら、きっと構えないで言葉が出ると思うんです」
相変わらず抑揚のない声でしたが、そう言ってもらえたことが嬉しかったのです。「ああ、気にかけてくれたんだ」、そう思うと、不思議なことに。
でも、変といえば変ですよね、僕のほうが先輩なんですから。
そこで、僕は理子さんの取ったリズムに合わせて歌い始めました。
だんだんと気分が乗ってきて、歌い終わったときに聞こえた小さな拍手で初めて、僕は我に返りました。理子さんの表情は全く変わっていなかったので、照れ臭いとも思いませんでした。
さらに、拍手の割に褒め言葉もなく、僕はすぐに祝詞を挙げさせられました。
理子さんの手拍子に合わせて。
始め・さもらへ、始め・さもらへ、日・御子の・宣らし・たまふや……。
しかし、「なんじ」と続けることはできませんでした。口にできなかったわけではありません。リズムに乗せられて、本当に喉まで出かかっていたのです。もし、本当に声になっていたら、広い河原の落雷という、危険な状況になっていたでしょう。
その落雷を阻んだのは僕の意思ではなく、「何やってんだよ」という声だったのです。
そう、河原に踏み込んできた豹真でした。
理子さんが「樫井さん?」とためらいがちに声を掛けたのは、当然の礼儀だったと思います。
別に同じ学校に通っているわけでもなく、ただ「日御子神楽」に関わっているというだけなのですから。
しかし、理子さんは豹真の眼中にはありませんでした。
彼が見ていたのは、僕だけだったからです。
僕たち二人を見た豹真がたどりついた結論は、一つしかなかったでしょう。
「邪魔したみたいだな」
そこで理子さんが豹真をじっと見つめていたのは、「だったら帰れ」という意思表示だったのでしょう。
しかし、豹真はそんな気持ちを読まない男です。
ぐらつく石を軽々と踏んで、さいぜんまで理子さんが座っていた大岩に腰を下ろしました。
そんな豹真を見もしないで「見学ならお静かにどうぞ」と言い放った理子さんは格好よく見えましたが、同時に心配でもありました。
はっきり言えば、理子さんはあの場で帰ってもよかったのです。豹真なんかを、あなたが相手にすることはなかったのですから。
そもそも、「見ていろ」と言われて、黙って見ている豹真ではありません。
「あんたが見ていろ」
おい、と僕が止めた理由はもうお分かりでしょう。怪しまれるだけでもまずいのに、豹真が言っているのは、「僕との闘いを見ていろ」ということなのです。
僕が慌てるのを見て、豹真は笑いました。
「帰ってほしいってさ、檜皮センパイは」
そこで、理子さんは僕をじっと見つめましたよね。まるで、豹真とどっちを選ぶか、と灯火のように。
僕は困りました。
理子さんとの闘いは、豹真の勝ちです。理子さんの前で、僕は祝詞を上げることができません。しかし、僕を心配してくれた理子さんに、「邪魔だから帰れ」とはとても言えませんでした。
しかし、帰るどころか、押し黙ったまま棒立ちになった僕に代わって口を開いたのは理子さんでした。
「それは、私の言葉ってことにしてくれませんか?」
何、と豹真が目を剥くのも構わず、理子さんは舌鋒鋭く責め立てました。
「忙しいんです、私。受験生なんです。いいんですよ、帰っても。そのときは、神楽もやりません。母が何と言おうと。樫井さん、責任とってもらえますか?」
豹真は大岩の上に立ちあがりましたが、それはまるで低い身長を補おうとでもするかのように見えました。実際、その物言いは偉そうでしたが、声は震えていました。
「俺に、何の責任があるって?」
理子さんには分かるはずもありませんでしたが、その朝の爆発事件に限っていえば、豹真は図星を突かれた形になります。現に、僕の身体には、既にあの悪寒が這いこんでいました。しかし、理子さんを止める術はありませんでした。
「この日御子神楽ができなくなったとき、これに関わっている人たち全員を納得させる責任です。それができないのに難癖だけつけるなんて、口答えを覚えた幼児のすることです」
豹真の口元が歪んだのを見たとき、まさか、と僕は思いました。朝に起こったカセットコンロのことが思い出されました。さかのぼって、「バカはどれだけ傷ついてもいい」、そして、「使ったさ、言霊も、頭も」……。
しかし、その心配は早すぎました。豹真は言霊ではなく、嘲笑で返したのです。
「じゃあ、降りりゃいいだろ、神楽。そこまで受験が大事なら、な」
今度は理子さんが言葉に詰まりました。豹真はさらに言い立てます。
「勉強がどうとかいいながら、これやってる時点でサボってんだろ。で、それをおふくろさんだの町内会長だの引合いに出してごまかしてんだろ」
「違うわ! 私は……」
理子さんが声を荒らげたとき、空が一瞬だけ陰りました。僕はそれに気をとられて見上げていたので、理子さんと豹真がどんな顔をしていたかは分かりません。ただ、気を持たせるような勿体ぶった口調で、豹真がこういうのだけは聞こえました。
「そんな中途半端な気持ちは、どっちかを葬らないとなあ……」
その時、僕はさっきの「まさか」が起こったことに気づきました。
ほうむらないとなあ……ほうむ・ら……「ほ」う・「む」・「ら」……。
風と共に、布の焦げる臭いが微かに漂ってきて、僕は豹真に叫びました。
「やめろ!」
豹真は「何を?」とでもいうように苦笑します。
ますます強くなる風に、理子さんのヤッケからは、煙が目に見えて吹き散らされていました。
それを見て、豹真はけたたましい声で騒ぎます。
「あれえ? カイロから火でも出たかなあ? たまにあるんだよねえ!」
その時、僕は雷を呼ばなければならないと覚悟を決めました。
どんどん正気と冷静を失っていく声に誘われるかのように風は吹き乱れ、辺りは次第に暗くなっていきます。
そして、僕が空を見上げて「ナジ」と呼びかけようとしたとき。
既に低く垂れこめていた暗い雲から、土砂降りの雨が降ってきたのです。
こうなっては、いくら豹真の言霊でも火を放つことはできません。彼は舌打ちするなり、岩から飛び降りて駆け去っていきました。
あの叩きつける雨の中、理子さんは茫然と立ち尽くしていましたね。
駆け寄った僕に背中を向けて、「帰って」と突き放したそのひと言は、泣いているようにも聞こえました。
僕は何も答えられませんでした。
ヤッケのフードを引き出して頭にかぶるなり、理子さんは「この川、すぐ増水するから」
と言い残して行ってしまったからです。
その雨は、午後から次の日まで続きました。
僕は朝早く起きてジャージに着替え、朝食もそこそこに公民館へ向かいましたが、着いたときには大人たちはまだ来ていませんでした。
ただ、理子さんだけがそこにいたのに、僕はほっとしました。
しかし、前日にあんなことがあったので、「おはよう」の一言がなかなか出せません。傘を差して、黙ったまま突っ立っていると、理子さんのほうが口を開いてくれました。
ただし、その言葉は「おはよう」ではありませんでしたが。
「ごめんなさい」
そう言われて、僕はしばし考えました。謝られる心当たりがなかったのです。
河原に呼び出されたのは、仕方がありません。僕が祝詞を上げられないからです。
その練習を妨害したのは、豹真です。その事情を知られたら、たいへんなことになりますが。
大雨が降ったのは、天災です。理子さんが雨乞いをしたというなら話は別ですが。
そのうちに、公民館の鍵を開けにきた町内会長さんに冷やかされ、ろくに挨拶も交わさないで練習が始まりました。
豹真は大人たちが集まった後に、横笛の音源CDを持ってやって来ましたが、僕を見てもろくに目を合わせませんでした、
祝詞の練習は、最初だけ飛ばされました。当日まで一週間を切っていたからですが、僕は気に病むことはなく、むしろせいせいしていました。
本来、数日で終わることになっていた練習です。祝詞の量も大したことはありません。
雷を呼ぶ、古代の「蛇」に関係した言葉さえなければ、どれだけ正確な発音や抑揚を求められようとも、どうにでもなるのです。
町を離れてからも、僕はこの全文をメモして持っています。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝このくにに来してひととせ、ふたとせ、長きにわたれば、とこしえの恵みを賜はん。
受けたまへ、受けたまへ、我みとせ、よとせ、とこしへに、日御子の恵みにて、五種の穀やすらへん。
五種の穀とは何ぞや、何処より来しものぞ。一・二・三・四・五数へて、速日、速水のもと培はん。
米・麦・豆・粟・稗、月詠の弑する保食神より来たりて、六・七・八・九・十年、実りて生して速日、速水祀らん。
速日・速水いかに祀らん、五種の穀、十の歳、誰か継がん、いかに継がん。
子に子が咲きて孫を抱き、春は山より迎えて、夏は里にて主し、秋は山へ送りて、冬は遠く崇めん。
現代語訳するとこうでしょうね。
始めましょう、始めましょう。太陽の御子がおっしゃいました、「おまえがこの国に来て一年、二年という長い時間が経ったので、永遠の恩恵を与えよう」と。
お受けしましょう、お受けしましょう。私は三年、四年、永遠に、太陽の御子の恵みを受けて、五種類の穀物をここに休めましょう。
五種類の穀物とは何でしょう。どこから来たものですか。一つ・二つ・三つ・四つ・五つ数えて、聖なる太陽と聖なる水のもとで育てましょう。
それは米・麦・豆・粟・稗です。月の神が殺したという豊穣の神から生まれたもので、五・六・七・八・九・十年の間、実ったものをまた生み出して、聖なる太陽と聖なる水を祀りましょう。
聖なる太陽と聖なる水をどうやって祀りましょう。五種類の穀物と十年間の実りを誰が継ぐのでしょうか、どうやって継ぐのでしょうか。
花が次々に咲くように子が子を産んで孫を抱き、神々を春は山から迎えて、夏は里でもてなし、秋は山へ送って、冬は遠くから崇めましょう。
さて、その日の練習は、それまでとはうって変わって調子よく終わりました。
大人たちが上機嫌の町内会長と帰った後、僕はそれとなく理子さんを探しましたが、あなたはいつの間にかいなくなっていました。
一方の豹真はというと、施錠された公民館の前でまだ理子さんを探していた僕を呼び止めました。
「探してるのか、刀根理子」
僕は答えませんでした。胸はドキリと鳴りましたが、僕の気持ちを教えてやる義理などありません。
帰ろうとすると、豹真は僕の手から傘をもぎ取りました。
「何するんだ!」
相手にしないつもりが、つい怒鳴ってしまいました。豹真はあのいやらしい笑いを浮かべて、傘を返しました。
それを差して帰るのが何だか癪に触って、僕はその場から動きませんでした。代わりに豹真が、自分の傘を差して行ってしまいました。
少し距離が開いたところで、背中を向けた豹真の声が聞こえました。
「好きなんだろ、刀根理子が」
僕はずぶ濡れのまま、豹真に追いすがりました。慌てていたので、傘を開くのもそこそこに、「違う」とだけ告げました。
どっちでもいいが、と前置きして、豹真は本題に入りました。
「まだ、あのへたくそな祝詞を続ける気か」
ああ、とだけ答えると、豹真は「分かった」とだけ言って歩を早めました。急いでついていくと、煩わしそうな問いが帰ってきました。
「つまり、本番までお前の力をごまかし通すということだな」
そんなことは当たり前だ、とはっきり言い返しました。それが言霊使いの掟です。しかし、豹真の考えは違っていました。
「力を知られないことと、隠すことは違う。お前は、普通の人間じゃないことをそんなに恥じているのか?」
恥じてなどいません。父が先祖から受け継ぎ、人生を懸けて僕に伝えた力を、僕は誇りに思っています。
そう告げると、間髪入れずに「だったら」という言葉が返ってきました。
「堂々と使うべきだ。優れた者が正しく評価されず、劣ったものが大きな顔をしているのは、間違っている」
それが間違いなんだ、と反論が、自然に口をついて出てきました。なぜだか分かりません。ただ、間違いなく言えるのは、そのとき僕は豹真の顔を見ていなかったということです。背後に追いすがったから当然といえば当然なのですが、あの歪んだ笑みを思い出すのが嫌で、議論する相手の顔を想像することさえしませんでした。
むしろ、考えていたのは理子さんのことです。前日の大雨の中でまっすぐに立ち尽くしていた、理子さんの姿です。
あんなことだけはもう二度と許すまい、それだけを考えていました。
だから、豹真がこんなことを言っても全く気になりませんでした。
「言霊使いが、ろくにしゃべれもしない姿を人前にさらすんだ。掟を共にする仲間たちに対して、何とも思わないのか」
それを言われると弱いのです。普通の人とは異なる存在である僕たちが生きていくには、仲間同士の助け合いが欠かせません。それは、幼い頃から父に叩きこまれてきたことです。
そう考えると、豹真の気持ちも無視できないのでした。
平日の昼時で、田舎町の道路にはそれほど人も車も通りません。誰の姿もないのを確かめてから、僕は傘を投げ出して豹真に頭を下げました。
豹真は慌てて傘を拾い、腰を折った僕の姿を隠すように差し掛けました。
「おい、何のつもりだ」
豹真は相当うろたえていました。チャンスです。僕は年下の男の子に必死で頼みました。
「腹立たしいのは分かる。だけど、君があと数日だけ目をつぶってくれたら……」
再び傘が路面に転がりました。返事がありません。身体を起こすと、豹真は、もう遥か遠くにいました。
今度は僕がうろたえました。さすがに傘を拾うだけの余裕くらいはありましたが、それこそ転びそうな勢いで追いかけます。声が届きそうな距離まで来て、ようやく「待って」とだけ言うと、低いかすれ声が「近寄るな」と拒みました。
思わず立ち止まると、一方的な通告が聞こえてきました。
「お前があのままの祝詞を上げる気なら、理子が火傷を負うことになる」
豹真はやる気だと直感しました。
僕はその足で、町内会長さんの自宅を探して走りだしました。
この個人情報保護にうるさい時代に信じられないのですが、町内の要所要所には、どこに誰の家があるかという見取り図の掲示板が堂々と並んでいます。
手近な見取り図に従ってたどり着いた先は、古い駄菓子屋でした。店先の、串を刺した薄いイカの干物やどぎつい色のゼリー、微妙に著作権侵害をクリアした「パチモン」キャラクター商品の間を通り抜けると、そこには畳の間があり、町内会長さんがドテラを掛け布団代わりにして、見るからに温そうな春ゴタツで昼寝をしていました。
すみません、と声をかけると、目を覚ました町内会長さんはすぐにドテラを羽織って起き上がりました。
「おお、和洋くんか」
まるで就学前から知っているかのような気安さで話しかけてくる町内会長さんに気後れを感じながら、僕は豹真に対するよりも神妙な態度で「すみません」と頭を下げました。
町内会長さんは慌てて、僕を畳の間に招きます。脱いだ靴を丁寧に揃えた僕は、アグラをかいた町内会長さんの前で正座しました。
「まあ、そんなに固くならんと」
僕は返事もしないで平伏しました。
「すみません、僕、祝詞は上げられません」
ぴしゃ、と額が鳴る音がしました。手で叩く音です。
顔を上げると、町内会長さんが実に情けない顔でへたりこんでいました。
「ほれは困るわ、和洋くんが最後の砦やったんやで」
話を聞いてみると、町内会長さんも大変な思いをしていました。
いわゆる少子高齢化で、地元の若者はかなり減っています。昔から続く年中行事もひとつ、またひとつと休止され(なくなった、とは絶対に言いませんでした)、こんな祝詞ひとつも地元にある高校の教員を頼って人を探さなければなりません。
驚いたのは、豹真の父親がこの四十万町の出身で、しかも笛の名手だったということでした。
若い頃にふらりと町を出てしまい、奥さんと豹真を連れて帰ってきたかと思うと急に亡くなってしまったということ、豹真を連れて街を出た奥さんもやがて亡くなり、豹真は父親の親戚に引き取られて戻ってきたということ……。
無理は言えないが、と前置きして、町内会長は言いました。
「おんなじくらいの年の人は、電話でもインターネットでも、喫茶店でお茶飲んでもつながれる。ほうやけんど、ほれだけやと、ここは住むだけの場所になってまう。こういうことを仲間でやらんと、人は年の差でつながれんのんや」
奥さんを支えてやれたら、というつぶやきに対して、僕は何も答えられませんでした。ただ、「ありがとうございました」と言って帰るばかりだったのです。
その夕方のことでしたね。理子さんが僕を訪ねてきたのは。
たぶん、玄関先まで来たところで、家の中が修羅場になっているのはお分かりになったでしょう。
豹真と私闘をやらかしたときと同じく、父は定時に退勤してきました。おそらく職場に、町内会長さんからの電話が入ったのでしょう。
僕は再び父と差し向かいで正座し、説教される羽目になりました。
何でも、町内会長さんは町外の身内を当たってでも代役を探すと言ってきたそうです。しかし、父はそれを断りました。
いつものように僕をまっすぐ見据えた父は、ゆっくり「お前な」と言いました。いつものような怒声ではありませんでした。
「勝手に決めるなと言っただろう」
そういえば、最初に生返事で町内会長さんの話を受けたとき、父にはそう叱られたのでした。しかし、僕にも言い分はありました。これは、急を要することだったのです。明日以降、豹真との闘いを回避するには、今日中に話をつける必要がありました。
だから事情を包み隠さず、父に話しました。
……豹真の言霊使いとしての意地、そして挑戦。
……ある意味、人質に取られた理子。
もしかすると理子さんは、恩着せがましいと思うかもしれません。
あるいは、子どもの喧嘩に親が出るのはみっともない、と思うかもしれません。
しかし、僕はこうするのが最も正しかったと信じています。決してヒーローの行動ではありませんが、それで充分です。
なぜなら、僕は普通の人間ではありませんが、ヒーローでもないのですから。
豹真との経緯を知った父は、正座したまま、しばらく黙っていました。
余りにも長い沈黙に、ひょっとすると足が痺れて立てないだけかもしれないと思い始めたときです。
父がぼそりと言いました。
「言霊使いがこの時代に生きていくのに必要なのは、力じゃあない」
そのとき思い出したのは、豹真の神経質に歪んだ笑い顔です。彼がこだわっているのは、まさにその「力」なのでした。
父はさらに言葉を継ぎます。
「知恵だよ」
それも、僕にはないものでした。せいぜい、咄嗟に服を脱ぐくらいが関の山です。
あれば、豹真とこんなことにはなっていません。理子さんを危険な目に遭わせることもなかったのです。
「それがないのなら」
重々しい声が、最後の決断を迫ろうとしていました。僕は頭を垂れ、父の言葉を待ちました。
また、引っ越しだろう。そう思いました。
それで何度目かわかりませんが、父に済まないという気持ちで胸がいっぱいになったのです。
しかし。
「決闘しかない」
「……はあ?」
先の一言は父の言葉、続く気の抜けたセリフは僕の返事です。
「聞こえなかったか。豹真と決闘するんだ」
別に我が身が可愛かったわけではありません。そこは信念というか美学というか、納得しないと先ヘは進めないところでした。
「だってさっき、力じゃないって」
「そうだ、これは知恵だ」
訳が分からず、今度は僕が沈黙を決め込んでしまいました。
父はというと、そのまま横になり、背中を向けてごろりと転がりました。
「あとは自分で決めろ。決闘状一枚あれば体裁は整うからな」
そう言いながら、父はそこから動きもしません。足が痺れたんだろうと勝手に決めつけて、僕は散歩に出ることにしました。外はそろそろ暗くなっている頃だと思いましたが、一人で考えるにはおあつらえ向きだったのです。
しかし、そこでも予想外のことが起こりました。
そう、理子さんが玄関先に立っていたのです。
あなたがそこで真っ先に遣ったことは、僕に詫びることでした。
「話は町内会長さんから聞きました。苦しんでいるのが私のせいなら、これから説得に行ってきます」
薄暗がりの中、冷たい春の風が、むやみやたらと頭を下げることなく僕をまっすぐ見つめる理子さんの髪を微かに揺らしていました。
そんなことはしなくていい、と僕は言いました。理子さんのそのひと言で、心は決まっていたのです。
豹真と闘って、あなたを守る。
僕は何を迷っていたのでしょう。単純な話だったのです。その結果、父と共に再び流浪の身となっても、それが普通の人間とは違う「言霊使い」の宿命だと割り切れば済むことではありませんか。
分かりました、と抑揚のない声で答える理子さんがどんな目で僕を見ているのか、もう暗くて見当がつきませんでした。考え事をする理由もなくなったので、僕は家の中に戻ろうとしましたが、そのとき理子さんに呼び止められました。
「そこで送ってくれるのがエチケットだと思うんですけど」
女の子と関わったことがなかったので、そういうものかと思ってついていくことにしましたが、実際はどういうものなのでしょう。
古い街灯にぽつぽつと照らされる道を歩きながら、理子さんは祭のことを教えてくれましたね。
……遠い神代の昔、収穫のない貧しい村で行き倒れになった一人のよそ者が、村人の看病空しく命を落とした。死ぬ間際に、よそ者は、自分の身体を山の頂上に埋めるように頼んだ。村人がその通りにすると、その冬、食料が絶えた村に多くの獣が下りてきて人々に捕えられ、命をつなぐ糧となった。やがて春が巡ってくると村はほどよい雨と日差しに恵まれ、さらに夏を過ごした後、その年の秋は豊かな実りに恵まれた。そこで村人は、あのよそ者が外から訪れた神であることを知り、再び山へ送るために祭を始めたという。
長い話だったので、気が付いたら僕たちは、理子さんの家の前に立っていました。
家というより、屋敷ですよね、あれ。
長い長い坂を上ったところにごっつい門があって、その向こうから母屋の二階が見えるんですから。
理子さんがインターホンで何か話すと、女の人が美しい声で答えたので、たぶんお母さまがいらっしゃるのだろうと思いました。豹真の話ではたいへん厳しい方だと聞いていたので身構えていましたが、門を開けてでていらっしゃったのは物腰の優しい、たおやかな女性でした。
「暗いところを、わざわざ済みません」
丁寧に頭を下げられてすっかり恐縮してしまい、上がってゆっくりしていったらというお愛想もしどろもどろでお断りしてさっさと逃げてきましたが、そのとき背中に感じた理子さんの視線は、これまででいちばん冷ややかだった気がします。
帰宅した僕を出迎えた父は、「決まったか」とだけ尋ねました。僕は努めて平生どおりに、「ああ」とだけ答えました。父は「そうか」と言っただけで、あとは何も聞きませんでした。
翌朝、公民館に向かった僕は、通り道のあちこちにある桜の枝で、つぼみが膨らんでいるのに気づきました。
もうすぐ咲くのだ、と思うと気が軽くなり、僕は自然と走り出していました。
おかげで、公民館に早く着きすぎてしまったことといったら!
それほど肌寒くもなくなった朝の空気の中で一人ぼっちでいると、そこへいつものトレパンにヤッケ姿の理子さんがやってきました。
昨日はどうも、と挨拶しても返事がありません。背中を向けて、僕のほうを見ようともしないのです。何か怒っているのかと思いましたが、もうそれほど気にもなりません。僕も春の色に染まりかかっている朝の空を見上げていました。
町内会長さんは、なかなかやってきませんでした。無言のまま二人で立っているのも気づまりで、何か話しかけようかと思い始めたとき、理子さんが鼻歌を歌っているのが聞こえました。
理子さんが、鼻歌なんかを。
思わず振り向くと、理子さんも僕をちらっと見たところのようでした。慌てて目をそらしましたが、理子さんも多分、そうしたんでしょう。
勇気を振り絞って聞いてみました。
「それ、なんて曲ですか?」
ザ・ビートルズ『ヒア・カムズ・サン』。
そう答えて、理子さんは詞を付けて歌い始めましたね。
英語でしたが単純な歌詞だったので、聞いただけでだいたいの意味は取れました。
つらく寒い冬の果てに、春の陽が差してくる。
四字熟語で言えば、「一陽来復」。
そこへ町内会長さんが鍵を持ってとぼとぼやってきましたが、僕たちを見るなり、両腕を広げて駆け寄ってきました。もっとも、ハグしようとした瞬間、理子さんは要領よくその腕をすり抜けたので、酒臭い身体で抱きしめられたのは僕一人でしたが。
大人たちがいつものようにやってきて練習が始まると、知らないうちに来ていた豹真が横笛の音を流していました。
始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、な……
町内会長さんが再びダメを出しましたが、僕はアクセントを変えたり、言葉を変えたりしてごまかしをやめませんでした。
大人たちは渋い顔をしましたが、町内会長さんは「まあまあ」となだめてくれました。しかし、とうとう一人が怒りだして町内会長さんと喧嘩を始めたのは、練習を繰り返すたびに堂々と間違いをやらかす僕の横着さに我慢が出来なくなったからでしょう。
その怒りの矛先が僕に向かうのも当然です。
「おい、坊! ちょっとこっちこい!」
そう怒鳴られても、僕はもう怖くありませんでした。
「すみません!」
大げさなぐらいに頭を下げてみせましたが、そんなことで許してもらえないのは想定内です。
やる気がないだの、大人を舐めてるだの、罵詈雑言が飛んできましたが、やりすごせば済むことです。
勝負どころは、そこではないのですから。
しかし、僕がやりすごしても、正面から受け止める者がいたら意味がありません。
横笛の音がブチっと途切れて、甲高い声が喚き散らしました。
「うるせえんだよ、ジジイ!」
豹真でした。
CD操作を投げ出して、僕を怒鳴りつけていた大人に迫ります。
「遊んじゃいねえだろ、やってんだろ、『なんじ』って言えねえだけだろ、出来ねえことをやらねえって決めつけてんじゃねえよ、だから家んなかでも相手にされなくて、こんなところでブラブラしてんじゃねえの?」
本当に余計なことをする男です。
これには他の大人たちもカチンときたらしく、一人、また一人と豹真を取り囲み始めました。
豹真はと見れば、あのひきつった笑みを浮かべています。
背中に悪寒が走りました。言霊「ほむら」が使われるときに感じる、あの感覚ですが、それを知らないはずの理子さんが「樫井さん」とたしなめにかかるほど、その場の雰囲気は悪くなっていました。
しかし、これこそ僕の出番です。
僕は恥も外聞もなく、町内会長さんを含む大人たちひとりひとりに媚びて回りました。
「すみません、何でか分かりませんけど、そこんとこだけ上手く出来ないんです。すみません、本当にすみません! 本番はしっかりやりますんで、どうか最初のとこだけ、どうか!」
傍目からみれば、その場の空気に耐えきれずにテンパってしまった根性なしの高校生そのものだったでしょう。
豹真を含め、理子さんも、町内会長さんも、その場にいる全員が引いてしまったことが、肌で感じられました。
しばらく誰もが口を開かず、部屋一杯に気まずい雰囲気が充満していましたが、とうとう豹真がプレーヤーの電源を切り、アンプとの接続ケーブルを力任せに全て引き抜いたかと思うと、公民館を飛び出してしまいました。
慌てた町内会長さんが後を追います。
豹真との会話が、どんどん遠ざかっていくのが分かりました。
「ちょい待て!」
「俺、もう帰る!」
「ああ、そのコード……」
「これ、俺の私物!」
「それがないと……」
「だったら俺が吹いてやるよ!」
次に出て行ったのは、さっき僕を怒鳴りつけた人でした。いい年をして、はるか年少の者にきちんと謝ることもできないようです。
それに続いて、他の大人たちもぶつくさいいながら帰ってしまいました。
残ったのは、僕と理子さんだけでした。
やったことがどう思われているか気になって、理子さんの顔色を伺うと、思いっきりそっぽを向かれて心がひしゃげました。
「カッコ悪……」
そのとき、強い風がどっと吹いて、窓ガラスをガタガタ揺らしました。
やがて、町内会長さんが汗を拭き拭き戻ってきましたが、僕たちだけが残った公民館の中に座り込んで、それはそれは深い溜息をつきました。
さすがにこれはやり過ぎたかと思って、声をかけるのもちょっとためらわれましたが、そこで動いたのは理子さんでした。
「あの、さっきいの要領でええんやったら、見てくれんかな?」
町内会長さんが苦笑したのを覚えています。
こうして、その日の練習は、三人だけで再開されたのでした。
その夜のことです。
残業を済ませて帰ってきた父が、ポストの中にあったという封筒を僕に渡しました。
封を切って中を見ると、新聞広告を切って作ったらしいメモに、こう書いてありました。
神楽の最中の決闘。手加減無用のこと。
父は封筒のことは何も聞かず、黙って正座しました。僕も父の前に座りました。
メモは膝の前に伏せ、聞いてみました。
「見ますか?」
いいや、と父は答えました。僕に決めさせる以上、聞く必要もないのでしょう。
すると、正座したのはなぜか?
その答えは、父の質問にありました。
「お前は、豹真の父のことを知っているか?」
少し、と答えると、信じられない答えが返ってきました。
「彼が死んだ原因は、私だ」
豹真が言霊を使うときと同じような悪寒が全身を走りましたが、その話は、重い割には単純でした。
若い頃の父は、今の豹真と同じことを考えていたのだそうです。
……普通の人間とは違う力を持ちながら、なぜ世間の片隅に隠れて生きなければならないのか。
力に溺れるあまり、裏社会に沈みそうになった父を、豹真の父は懸命に止めたのだそうです。
それを聞かなかった父に、豹真の父は決闘を挑んで破れました。
父の雷撃は、命を奪いこそしませんでしたが、呼吸器や声帯、舌の機能を破壊し、言霊はおおろか笛の業さえも封じてしまったのです。
こうして豹真の父は早逝し、母はこの地を離れた結果、生活の無理がたたって病に倒れました。それを悔いた父は、父は言霊を伝えはしても、使うことを自らに固く禁じたのでした……。
さて、それから数日、豹真は練習にやってきませんでした。問題の「なんじ」の辺りは当日のぶっつけ本番という、良識があれば普通はやらないスケジュールで進める練習に文句をつける者はなく、神楽は当日を迎えました。
桜、満開。
僕は神主の、理子さんは鈴の房を手に、金色の冠を戴いた巫女の衣装に身を包み、既にイベントや屋台のテントで一杯になった役場の駐車場の端に設置された、割と地味な祭壇の上で出番を待っていましたね。
日曜の四十万町は満開の桜と春祭りの人出で、春の祭典一色でした。
それこそ、豹真の愛するビバルディの『四季』にある「春」の曲がよく似合うだろうと思われる日だったのです。
ところが、その豹真は集合時間になっても来なかったので、町内会の大人が代わりにBGMを務めることになっていましたが、トラブルはまず、そこで起こりました。
横笛の音が出ないのです。
町内会長が慌て初め、町内会のスタッフがどたばた走り回り、それに気づいた観客も騒ぎ出しました。
僕がそこで真っ先に考えたことは、豹真のいやがらせだということです。
それならそれでいいと思いました。神楽ができなければ決闘は無効。闘わなくていいし、理子さんをはじめとして、傷つく人は誰もいません。
しかし、世の中はそんなに甘いものではないようでした。
アンプからは音が出ていないのに、お囃子の横笛はどこからか聞こえてくるのです。
僕の頭の中に、あの捨てゼリフが蘇りました。
……だったら、俺が吹いてやるよ……!
これは憶測ですが、言霊「ほむら」と共に、横笛の技も引き継がれたのではないでしょうか。
豹真の挑戦のはじまりでした。闘いぬかなければなりません。
恐れることなく、僕は祝詞の文句を口にしました。
始めさもらへ、始めさもらへ……
そのとき横笛の音は止まりましたが、そのくらいのことで、始まってしまった神楽を止めることはできなかったでしょう。
ましてや、伝統の「日御子神楽」に気を取られている関係者と観客に、豹真の操る「ほむら」が聞こえるわけがありません。
体中を悪寒が走り、豹真の言霊が動き始めたのが分かりました。
火の立つや、火の立つや、一・二・三・四、炎立つ……。
急がなければなりません。僕は目を閉じ、心の中に閃く稲妻と向き合いました。心の闇の中を疾走する、閃光の蛇と。やがて、身体の中をぞろりと這うものがありました。これが、僕の中に潜む「ナジ」です。
日御子の宣らしたまふや、汝このくにに来してひととせ、ふたとせ、長きにわたれば、とこしえの恵みを賜はん。
祝詞に乗せて、僕は心の中の「稲妻の蛇」を天空へと解き放ちました。
誰にはばかることもないのなら、雷を呼ぶことなど造作もありません。たちまちのうちに空には暗雲が立ちこめ、満開の桜が照らすこの町を薄暗く覆い隠しました。
しかし、豹真も本気でないわけがありません。恐らく誰も気づいていなかったでしょうが、僕や理子さんの衣装からはうっすらと煙がたちのぼっていました。さらには、会場のあちこちにあるテントやのぼり、そして祭壇からも……。
僕が圧倒的に不利でした。豹真は見える相手に火を点ければ済みますが、僕はどこにいるか分からない相手に雷を命中させなければならないのです。
衣装やテント、祭壇が発火するまで、せいぜい十数秒といったところでしょう。
しかし、僕の心配をよそに、神楽は進行します。理子さんは澄んだ声で、高らかに祝詞を返してきました。
受けたまへ、受けたまへ、我みとせ、よとせ、とこしへに、日御子の恵みにて、五種の穀やすらへん。
早く見つけ出さないと、観客を巻き込んだ大惨事になります。そうなれば、身体の傷だけでは済みません。この神楽を続けることはできなくなり、町内の人を過去から未来へとつなぐ絆が一つ失われるのです。そうなれば、豹真の母のような思いをする人がまた生まれてくるかもしれません。
僕は祝詞を上げながら、豹真の姿を探しました。
五種の穀とは何ぞや、何処より来しものぞ。一・二・三・四・五数へて、速日、速水のもと培はん。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。
祝詞と共に数えているうちに気持ちが落ち着き、考えもまとまりました。
豹真は、僕たちを見ています。見ているということは、間に障害物がないということです。障害物がないということは、僕からも豹真が見えるということです。
僕は辺りをもう一度見渡しました。
目立たない、しかし障害物のないところ。
眼を凝らすと、駐車場の向こうにある町役場の車寄せで、屋根を支える柱にもたれかかっている背の低い人影が見えます。
それが、豹真でした。
しかも、屋根の下ではなく、雷を落とせと言わんばかりの外側で。
衣装の焦げる臭いで、時間がないことが分かります。落雷させてでも理子さんを「ほむら」の言霊から守る覚悟は決まりました。
僕は遠くから見つめているであろう豹真を見据えました。
豹真! だから僕たちは、闘ってはいけないんだ!
心の中で叫んだ、そのときです。
豹真に向けて稲妻を放とうとした僕の耳に、理子さんの悲鳴が聞こえてきました。
間に合わなかったかと思ってそちらを見れば、まだ火は出ていません。
しかし、理子さんの状態はただ事ではありませんでした。
祝詞を上げるその声は、ここ数日聞いていた中学三年生の女の子のものではなく、地の底から轟いてくるような響きを持っていました。
米・麦・豆・粟・稗、月詠の弑する保食神より来たりて、五・六・七・八・九・十年、実りて生して速日、速水祀らん。
鈴を振り鳴らし、髪を振り乱し、独楽のように舞う巫女の姿に目を奪われた僕の視界の隅で、光るものが二つありました。
一つは、暗い雲の中で閃く稲妻。
もう一つは、テントの端で揺れる陽炎。
瞬く間もなく、舞い続ける理子さんの巫女の衣装の周りにふわりとしたものが立ちのぼり、僕も全身に、灼けつくような熱さを覚えました。
ほどなく空が光り、テントに炎が走り、衣装が燃え上がったかと見えた、その時です。
凄まじい風と共に、雨が塊となって僕たちの頭上から落ちてきました。
役場の避雷針に雷が落ちると共に悲鳴を上げて逃げまどう観客は、ふりしきる豪雨の中で蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、そこには茫然と立ち尽くす町内会の人たちと、祭壇の上でびしょ濡れになってへたり込んだ僕たちだけが残されました。
やがて、誰かが我に返ったのでしょう。町の有線放送のコールサインが鳴り、町役場の人が聞き取りにくいくぐもった声で、神楽を含む春祭りの中止を告げました。
土砂降りの中、大人たちがテントの撤収を始めたところで、背中にのしかかるものがあるのに気づきました。
ふと後ろを見やると、目を閉じた理子さんがもたれかかっていました。
あの後、実に済まなさそうな顔をした町内会長さんに促されて祭壇から降り、 役場の更衣室を借りて急いで帰ることになったんですが……。
疲れて眠っていたんですよね? あのときは。
で、その夜のことです。
町内会長さんがやってきて、丁重なお礼を言って帰られましたが、それは別にたいしたことではありません。
理子さんの所にも行かれたと思いますが、どんな様子でしたか?
その後、いつものようにお互いに正座して、僕と向かい合った父は「やっちまったな」の一言と共に苦笑いしました。
こんなことにはもう、慣れっこになっていた僕はさっさと荷造りにかかりました。夜逃げ同様の引っ越しが始まったのです。
夜中に部屋の片づけをしていると、窓ガラスがこつんと鳴りました。何事かと思って近寄ってみると、家の前をうろうろしている小柄な影が見えます。慌てて玄関から出てみると、少し離れたところに豹真が立っていました。
たいへんに迷惑でした。夜が明ければ、新学期前の出校日です。朝いちばんで入学辞退を届け出て、町を出て行かなければなりません。
ちょいちょいと差し招くと、豹真があの不機嫌な態度まるだしで歩み寄ってくるなり、「俺、出ていくから」と言いました。
余りに唐突なことなので、さっぱり訳が分かりませんでした。近所の人に聞かれたくないので、小声で問い返さなくてはなりません。
「家出?」
そうじゃねえよ、と吐き捨てるように言った豹真は、「町を出るんだ」と真顔で言いました。
やっぱり訳が分かりません。あの春の嵐で、僕たちの勝負はどっちが勝ったとも言えない状況になったからです。
「何で? 君の方が早かっただろ?」
実際に、僕や理子さんの衣装は燃え上がる寸前でした。しかし、豹真は納得していなかったらしいのです。
「あの雨でパアになったろうが」
確かに、町内会長さんの話では、火事のカの字も出ませんでした。
「でも、そんなこと言ったら僕だって」
雷は避雷針に逸れてしまったのです。豹真に勝ったとは言えません。それでも、豹真は自分の勝ちを主張するほど図々しくはありませんでした。
「別にジャッジがいるわけじゃないだろ」
そういうものらしいのです、言霊使いの関係は。掟はありますが、それは信頼関係の支えに過ぎないのでしょう、たぶん。
豹真は口元を歪めて笑いました。
「バカはどれだけ傷ついても仕方がない」
おい、と言い返そうとしましたが、続く言葉で遮られました。
「じゃあな。刀根理子とうまくやれよ。他の男に取られんな」
そう言い残すなり、豹真は走り去って、それっきりです。僕は次の朝、父と共に四十万町を去りました。
さて、長々と書きましたが、幼稚ないわゆる中二病の絵空事と思っていただいたほうが気が楽です。
お互い、そういうことにしておいたほうがいいのかもしれません。
最後に、改めてお手紙のお礼を申し上げます。
まさか、豹真がお節介を焼いていたとは思いませんでしたが、それにしても電光石火の早業でしたね、理子さん。
すぐに手紙をしたため、勿来高校に先回りするとは……。
事務の方もシャレの分かる人だったようです。
学校紹介パンフレットにラブレターを仕込んでくれなどという頼みをこっそり聞いてくれたのは、理子さんが旧家の娘で高校の理事の娘だったからでしょう。
さて、手紙を読んで目を疑ったのは、僕たちとは別の力を持つ人たちが、わずか数日とはいえ、すぐ身近にいたということ。
お母様が厳しい方なのも無理はないと思います。素質を見出せばこそ、事故や間違いが起こらないよう大切になさっているのでしょう。どうぞお母さまと仲良くなさってください。
今年は受験の年です。大きなことが言える立場ではありませんが、理子さんの願いが叶うことを、同じ空の下で祈っております。
敬具
三、刀根理子から檜皮和洋への手紙
今朝早く、樫井豹真君が訪ねてきて、檜皮さんが町を出ていくということを知らされました。
なんでも樫井さんはこの朝にでも親戚の方の家を出て、一人で生活するということでしたが、神楽の当日に音響係の仕事をしなかったことを詫びておくよう町内会長さんに言われたというのがその用件でした。
私は余り気にしていなかったのですが、去り際に手紙を押し付けられて、正直ギクっとしました。自意識過剰と笑われるかもしれませんが、あの状況下で渡される手紙といえば、そういう類のものとしか思えなかったのです。
それでも中身が気になって封を切ってみると、たった一行。
「あいつをどう思ってるか知らないが、いなくなったら一生、後悔する」
檜皮さんが町を出ようとしているのだということは分かりましたが、どう思っているかと言われても困ります。だって、知り合って一週間ぐらいしか経っていないんですよ?
あなたと樫井さんがどのような立場の人かというのは、あの河原で察しがつきました。
私も、普通の人間ではないからです。
ノロやユタと呼ばれる人たちをご存知でしょうか?
太古から、天地自然の神々を体の中に感じ、その言葉を伝える業を受け継いできた人たちです。現在でも、まだ奄美辺りや沖縄にいると聞きます。
私にも、その血が流れています。
神楽を守り、神楽を支える人を守り、その暮らしを守ること。
刀根の家の女がすべて、それができる者とは限りませんが、素質があると見なされれば、天地自然と一体となる術を物心つく前から教え込まれるのです。
私も、その一人です。
幼い頃は何とも思いませんでしたが、年月が立つほどに、他の子供たちとの違いを感じるようになりました。
言霊というものを使う人がこの町にいたらしいということも母から聞きましたが、いつのことかも分かりませんでしたし、そもそも互いに関わるものではないと言われてもいたので、気にすることもなく、ひたすら母に従って、この家に伝わる業を学んできたのです。
仲間と遊ぶこともせず、母について山を歩き、川に沿って歩き、たまに海に行けば人目につかないところで水を浴びて天に向かって叫ぶ……。
そうすることで、私の体の中には自然の動きと共にある泣き笑いが生まれてきました。
想像もつかないことかと思いますが、これは恐ろしいことでもあります。
私が自然と共にあるということは、自然が私と共にあるということでもあるからです。
自然の変化は私の感情を豊かにしてくれますが、私の感情は自然を豊かにはしません。
私が笑えば山も笑い、草花も芽吹くかもしれませんが、怒り、泣けばそれらは枯れ果ててしまうかもしれません。
それに気づいたとき、私は泣き、また笑うことをやめました。
笑っていればいいと思われるかもしれませんが、喜びは悲しみを知らなければ生まれてこないものです。逆もまたしかりで、泣くのをやめれば、笑うこともできなくなるものです。
この町を出て、母から、家から離れれば、そんな思いをしなくても済むかと思うようになりました。それを実現するためには、母に物を言わせるわけにはいきません。
私は、神楽を完全に仕上げて、その上で家を離れるのを主張しようと考えていたのです。
私の、私だけの、かけがえのない心を解き放つために。
しかし、河原で樫井さんの暴言に声を荒らげたとき、私は自分の気持ちが実際に自然を動かすことを知りました。一瞬、空が陰った時の恐ろしさといったら!
私はあのとき、泣き出しそうになるのを一生懸命こらえていたのです。もし泣いてしまったら、きっと嵐になるだろうということは分かっていました。
それでも、自分の身体に突然火が付いたとき、私は己を失いました。こらえればこらえるほど、怖さや怒りや情けなさや、そういったものがまぜこぜになって、あんな嵐を呼んだのです。
土砂降りの雨は、私にとっては恵みの雨でした。
思いっきり泣けるからです。
あのとき、もう怖くはありませんでした。怒りも情けなさも、どこかへ行っていました。
沸き起こる気持ちを抑えなくていいのが嬉しかったということもありますが、そのとき、自分の身体に火が付いた理由を考える余裕ができたのです。
もしかして、樫井さんは言霊使いではないか。
すると、彼と言い争っていた檜皮さんも?
自分と同じような人たちがいると思ったとき、涙があふれてきました。それで余計に雨がひどくなったかとも思いますが、過ぎたこととして、どうか許してください。
檜皮さんが神楽を断ったと知ったときは、胸が痛みました。事情は分かりませんでしたが、きっと言霊使いにしか分からない苦しみがあるのに、私がそれを知らずに追い詰めてしまったのではないかと思ったのです。
あの夜道を一緒に歩いたとき、そして檜皮さんが神楽の練習に来てくれたとき、私の心を縛っていたものがほどけていくような気がしました。冷たくしてごめんなさい。ああしないと、神楽の前に春の嵐が桜の花を全部吹き散らしてしまうかもしれないと思ったのです。
檜皮さんと樫井さんの関係がただならぬことになっているのは何となく感じていましたが、言霊使い同士、そして男同士のこと、私が立ち入ることもできないまま、神楽の当日を迎えてしまったことは、本当に申し訳なく思っています。何かできたなら、いえ、何かしていたなら、こんなことにはならなかったかもしれません。
檜皮さんが堂々と祝詞を上げたとき、きっと樫井さんとの間で決着をつけようとしているのだろうと思いました。そうなれば、ますます私の入り込む余地はありません。しかし、私の身体だけでなく、檜皮さんの身体に火が付いたとき、もう放っておくことはできませんでした。
心の中で暴れ出した気持ちに任せて、雨風に身体を委ねたのです。
だから、桜を全て吹き散らしてしまったあの嵐は、私の檜皮さんへの気持ちです。どう書き表していいか分かりません。恐ろしい女だと思われても構いませんし、忘れてもらったほうがいいかという気もします。
進学のことを心配して下さってありがとうございます。私は、有馬高校へ行こうと思います。この地と共にあった刀根の家のことをくどくどと書いておいて何だと思われるかもしれませんが、出て行かないのが妥協の限界です。
この先、檜皮さんがどうされるか私には想像もできませんが、お元気でいてください。
個人的な見解を述べさせていただくなら。
やってきたかと思ったらいきなり出て行ってしまう檜皮さんという人間は意味不明です。
もうちょっと自分をしっかり持ってください。
かしこ
四、檜皮和洋から刀根理子への電報
「イツカ、ムネヲハッテカエル」。
(完)




