追憶
空に浮かぶ雲がだんだんと薄く繊細になり、秋の訪れを感じさせていた。夕暮れ時の今、うろこ雲の間から無数の橙色の光が差し込み、美しい空を描いている。
彼女はそんな空を見て、ふと、どこか懐かしいような気分になった。思えば最近この時間に空を見上げることがなくなっていた。小さい頃は毎日見ていたのに……。昔よりもずっと空に近づいたはずなのに、不思議なものだなと彼女は思う。その代わりに、彼女にとって空はかつてよりもずっと美しいものに見えた。空の色や雲の正体を知った今の方が、そう見えるというのもなんだかおかしな話なのだけれど。
――そういえば、昨日の夢にもこの空が出てきた、と彼女は思い出した。それはとても大切な想い出の夢だった。彼女と、ある一人の少年との想い出。今、まだまだ短いながらに自分の人生を振り返ってみても、あの頃以上に特別な時間はなかったと、彼女は思う。だから、かつて何度もあの頃に戻りたいと強く思った。もしもそんなことができたなら、どんなに嬉しいことか。何度も何度も願った当時の気持ちを、まるで昨日のことのようにありありと彼女は思い出すことができた。
彼女と彼の出会いから別れまでは長い。小学一年から高校一年までのおよそ十年間だ。その間に勿論たくさん出来事があったのだけれど、夢の内容はとある日のものだった。そうだ――あの日もこんな夕暮れの空だった。風が優しく彼女の髪を揺らす中、目を閉じて彼女はあの日のことを思い出した。
彼女と彼の関係を一言で言い表すならば、『恋人』であろう。しかし、それは明確な交際関係にあったわけではなく、いわゆる『両想い』というものだった。互いに互いを好き合っているということを二人は分かっていたが、それ以上先に進む勇気がなかった。今思えば、それは後悔の始まりなのだけれど、そうできなかった当時の気持ちを責めることはできなかった。
夢の日――二人は一緒に下校していた。二人は小・中は地元の公立校に通い、高校は最寄り駅から六駅先の私立校に通っていた。それまでは互いの家が通学路になかったことから一緒に登下校することはなかったが、高校に入ってからは一緒に学校を行き帰りすることが増えた。週に三回ほどの頻度だったように思う。本当は毎日でも彼と一緒にいたかったのだけど、学校の友達に冷やかされるのが恥ずかしかったし、何よりそんな幸せに彼女の心が耐えられそうになかったのだ。
彼との下校ルートにおいて必ず寄っていく場所があった。河原のそばの休憩所だ。それは線路に沿って流れている川の土手を、真っすぐに十分ほど歩いていくとある。小さな休憩所だが、そこにある木のベンチに座って話をするのが二人の日課になっていた。
その日も二人は一緒に下校し、その休憩所に立ち寄っていた。夕焼け空の綺麗な日だった。いつも通り彼が先にベンチの左側に座り、彼女がその隣に座る。会話も何気ないものだった。友達のこと。勉強のこと。部活のこと。彼とそんな話ができることがとても幸せだった。いつまでも彼とのこんな日々が続いていけばいいのにと思った。強く――そう願っていた。
……だけど、そうじゃないことを今日認めなければいけない。彼女は重い口を開く。
「あのね、今日は言わなきゃいけないことがあるの」
「ん。どうしたの?」
何の疑いもない目で彼は言った。そのせいで余計に言いづらくなってしまう。
「えっとね、なんていうかその……」
一度言い淀んでしまうと言葉上手く続かない。どう言えばよいのかずっと考えていたのに。頭で分かっていることが、どうしても口から出てこない。彼は何も言わずに待っていてくれる。それがひどく、彼女を苦しめた。
スカートの裾をギュッと握りしめ、彼女は下唇を噛んだ。――負けないように、泣かないように。
(この事実から逃げていても何も変わらない。ちゃんと彼に伝えないと)
彼女は覚悟を決めた。そして、声を震わせながら言った。
「私、転校するの……」
「……え?」
そこからの記憶はひどく曖昧だ。その後、彼とどんな会話をしたのか覚えていない。そもそも何も話すことなく別れてしまったのかもしれない。……ただ、今までに見たことのないような彼の悲しい表情だけは、彼女の記憶にはっきりと残っていた。それと同時に、彼女自身も確かに悲しかったことも。やっぱり言わなければ良かったとそのとき思ったが、そうしなければ、いつかお互いがつらい思いをするだけだということも彼女は分かっていた。
せめて――自分の想いを伝えれば良かったと、彼女は思う。転校のことだけを告げ、結局自分が本当に言いたいことは何も言えなかった。あの日から別れの日までの間に、彼と話す機会は何度かあった。たとえなかったとしても、作り出せたはずだ。……それでも、気持ちを伝えることはできなかった。それを伝えてしまうことが、決定的な二人の別れとなる気がしたからだ。前の町を発つ電車に乗り、その扉が閉まった瞬間、大きな後悔と悲しみが襲ってきたのを彼女はよく覚えている。自分は今、確かに彼を失ったのだと理解した時、どうしようもないほどに涙が溢れ出てきた。人目も気にせずに車内で号泣した。母が慰めてくれたけれど、そこに、一番隣にいてほしい人はいなかった。『好き』と言えないまま、二人は離ればなれになった。
夕陽に照らされながら、彼女はあの頃の気持ちに思いを馳せた。
彼のことを好きになったのはいつだっただろう。もう正確には覚えていない。いつの間にか好きになっていて、そう自覚したときから彼を好きでいることが当たり前となっていた。彼の優しさに惹かれた。彼の声に胸が高鳴った。彼の隣に居たかった。本当に好きだった。世界で一番大切な人だった。
彼は今、何をしているだろう。私のことを覚えていてくれているだろうか。覚えていてほしいな。大切な想い出を、私はずっと覚えているから。
そこまで思ったところで、本当に自分は彼のことが好きだったんだなあ、と彼女は思った。それならやはり、ちゃんと気持ちを伝えるべきだったと改めて感じた。そこでふと思う。――私は、今でも彼のことが好きなのだろうか。どうだろう。もう何年も前のことだ。彼との恋を幼かったなあ、と思い返すこともある。でも、あれからいくつかの恋愛を経験してきたけれど、あの頃のように真っすぐで切実な想いをすることはできなかった。それは自分が大人になったということなのかもしれないけれど……。
――でも、これだけははっきりしている。私は彼に出会えて良かった。彼を好きになって良かった。彼と同じ時間を過ごせて良かった。これからも、この思いはきっと変わらない。
だから――だからこそ、と彼女は思う。私には言うべき言葉が二つある。あの日も、昨日の夢でも言うことができなかった言葉。きっともう会えないけれど、伝わることはないけれど、それでも――と彼女は思う。今はもう彼のいない街で、大切な彼のことをだけを想いながら、ささやくような、祈るような声で彼女は言った。
「ありがとう。大好きでした」