3-2 RAY824.11/欲望の在処と暁の祈り
実際、そうだろうな、と言われてみて彼も思わない訳にはいかない。そうでなくて、この状況下で平気でいられるだろうか、と。
至近距離というのは、それが何であれ、至近距離まで近づいてもいい、という相手に対して、危険な感情を起こさせるものではないか、とBPも改めて思う。
「……んでもさあ」
ぼそぼそ、とその至近距離に居る男はつぶやく。
「オマエ元々、結構平気なヤツだったんじゃない?」
「何が?」
「女でなくても平気、な類じゃないの?」
言われてみたら。彼は想像する。しかしその想像は途中でどうしても暗雲がかかる。
「判らん」
「けどオマエ、オレがこーんなことしても」
首に手を回す感触。
「はたまたこーんなことしても」
更には軽く口にキスまでされる。
「何か平然としちゃってさ。その気全く最初から無い奴だったら、んなことされりゃ、馬鹿ヤロと叩き出すぜ? オマエ腕は強いんだからさ」
「そうかな」
「そぉだよ」
「お前こそ、そうだったんじゃないのか?」
「オレ?」
何を聞くんだ、という調子で相手は問い返した。
「どぉだろ。オレ別に女は好きよ。抱きしめてやらかくて、そういうのはいいよね。キモチよく中に入れてもらってとろとろしたいって感じ」
「んじゃ野郎は?」
だいたい何でこうもくっつくのだろう、と何故か冷静な自分の頭を改めて不思議に思いながらBPは問いかける。
「さーあ。オマエの前に誰か居たワケじゃないからさあ」
「そうなのか?」
「そぉなの。女はさ。別に知識の方であるのに、あっちはいまいちぼんやりしてるし。でもオマエのカラダは結構オレ好きよ?」
「何で」
「何でだろ」
リタリットは首をひねる。そして改めて思い当たった、というように、指をくわえ、すぐ上の天板に視線を移す。
「ヤッてみりゃ判るのかなあ?」
「って何を」
「ってナニを」
「寒くて勃たないんじゃないかよ?」
「だから暖かくなったらさ」
ってことは今って訳じゃないんだな、とBPは何となくほっとする。別にこのべたべたくっついてる男が嫌いではない。抱きしめられようがキスされようが、別にそれは彼にとって大したことではない。
だがそれ以上、そこまでしてもいいか、というとどうも彼の中で疑問が残るのだ。おそらくこの場合のリタリットが自分にしたいのは、「そういうこと」だろうし、ではその場合自分がやすやすとそのまま流されてしまうのだろうか、と想像すると、それもまた暗雲が思考の上に流れていくのである。
何か違うような、気がする。
「ま、いーさ。そん時まではおあずけ。寝よ寝よ」
「おあずけって」
きゅ、と手に力が込もる気配がする。数秒後には、相手は既に眠りの中に居た。
だけど。彼はその眠る気配を感じながら思う。そんな時が来るとこいつは思ってるんだろうか。暖かくなったら。この地でそれは無理な話だ。
だとしたら。
ふと彼は、そこが夢の中であることに気付いた。
ああまたあの夢だ。
ひどく風景が鮮明だった。石造りの建物の内部、ということがすぐに判る。
それが見覚えがあるもの、という気はするのだが、何処であるのかはさっぱり判らない。下手すると、それが建物であるということすら、自分の感覚からはするりと抜けだしそうになる。
自分はその建物の、暗い部屋に居る。だが自分の姿は見えない。自分なのだから。
未だに彼は自分の顔が判らない。房の皆が、自分の姿を言葉では説明してくれる。重そうな黒い髪、黒い大きな目、やっぱり黒い太い眉、少しとがり気味の顎、そして最近は雪焼けして多少色はついたが、元々は白いだろう肌……
言われてはいるが、実感は無い。触れてみる感触から、輪郭の予想はつくが、それを具体的に考えることができないのだ。
それと似た感覚で、ふと立ち上がる夢の中での自分の足取りは奇妙だった。ふわふわとして、雲の上を歩くように、実感が無い。
そしてその暗い部屋の一部分に急に光が差し込む。誰かが入ってくる。逆光で、シルエットしか彼の方からは見えない。だけどそのシルエットは、ひどく小柄に見える。長い髪をゆらゆらと揺らせ、自分に近づいてくる。
そして自分に向かって、泣きながら、何か言うのだ。何か言いながら、その腕は、自分を抱きしめようとするのだ。
だがそこでいつもその夢の光景は終わる。
その相手が、何を言ったのか、どうしようとしていたのか、彼には判らない。
そしてその夢を見た次の朝は、ひどく自分の額が濡れていることに、彼は気付くのだ。
*
その朝彼は、自分がいつもより早く目が覚めたことに気付いた。そしてどうしてこんな時間に目が覚めたのだろう、と思った。まだ周囲は暗いのだ。別に自然が呼んでいるという訳でもない。
何だろう、と思いながら、夜具の中の暖まった空気を逃さない程度に彼はもぞもぞと位置を動かし、辺りの様子を伺う。
そしてふと、窓の方へ視線を動かすと、誰かが防寒具を羽織ったまま、窓際に座っているのが見えた。誰だろう、と彼は思って、目をこする。
中と外との気温差で生まれた水蒸気すら、外の冷たさに凍り付いている。その凍り付いた窓の一部分がこすりとられ、窓際の誰かは、外を眺めていた。
何をしているのだろう、と思いながら彼はしばらくその様子をじっと見つめていた。するとふと、胸にぐっと力が込められるのを感じる。寒いじゃないか、と知った声が小さくつぶやく。
起きたのか、と聞こえるか聞こえないか位の声で彼が問いかけると、相棒はオマエが勝手に動くから覚めちまったじゃないか、と悪態をつく。
「またミョーな夢でも見たんかい?」
夢の話は、BPも以前この相棒にしたことがあった。相手のばかり聞いて、自分のそれも答えないのは不公平ではないか、と考えたのである。リタリットはそれについてはふうん、とうなづいただけだった。それがよくあることだ、という意味だったのか、それだけなのか、という意味なのかは、BPもよくは判らなかった。
だが今はその夢ではなかったので、いや、と彼は声を立て、窓際に首をしゃくった。何なに、とリタリットはもぞもぞと彼の上から窓の方を見る。
「ああ」
納得した様にリタリットはうなづいた。
「何だよ」
「……見に行く?」
珍しいことがあるものだな、とBPは思った。だがこの寝汚い程よく眠る男がこんなことを言うのは珍しいので、ああ、と彼はうなづいた。いつもだったら、とにかく時間ぎりぎりまで眠りこけ、そのために彼を離そうとしないのが普通なのだ。
彼らは音をさせない様にベッドの下段から這い出し、夜具の上に掛けていた防寒具を引きずり出すと、羽織りながらゆっくりとまだ暗い室内を横切った。
「よぉ」
白い息が、外の照明に光る。短く刈り込んだ頭に、帽子をかぶったヘッドがそこには居た。よく見ると、その相棒のビッグアイズも一緒に窓の外を見ていた。
「何かあるのか?」
BPはどちらにとも取れる調子で訊ねた。反応したのはビッグアイズだった。普段そう見ない、半分だけ開けた様な目と、弓なりに逸らした唇を向けると、彼に向かって窓の外を指した。BPとリタリットは黙ってその指された方向に身体を向けた。
「何だ?」
凍った窓ガラスの向こう側には、煌々と光る常夜灯の下に、くくりつけられた幾人かの人間の姿があった。しかも、その身体には、防寒具は無い。
「『暁の祈り』だ」
ヘッドは小さく答える。BPはその声の方を向く。
「お前が来てから初めてだが、隣の棟で脱走者が出た」
「脱走者?」
「考えられないことじゃないだろう?」
ビッグアイズが付け足す様に言う。
「この流刑惑星で、お前『刑期』を聞いたことがあるか?」
そういえば。言われてみて改めて彼はその存在に気付く。いや、考えなかった訳ではない。ただ、誰もそれを口にしないところを見ると、それはいつか何処かからもたらされるものなのか、と曖昧に考えていたのである。
「聞いたことないのは当然だ」
ヘッドはそんな彼の考えにはお構いなしに続ける。
「そんなものは無いのさ。ここには」
「無い?」
「馬鹿かオマエ」
相棒は容赦なく、何を今更、という様に彼をのぞき込んだ。
「ノー天気だよなあ。今までほんっとうに考えなかったのかよ。マジ馬鹿違う?」
「そう馬鹿馬鹿言わん方がいいぞリタ。お前につきあっているくらいだ。だが実際そうだ。ここに『刑期』なんて無いんだぞBP」
ヘッドの細い目は、鋭く彼を見据えた。
「無いのか?」
「無い。奴らは俺達を働かすだけ働かして、そこで死んだらそれでよしと考えている。そのための記憶抹消だ。下手に里心つかれたら困るからな。だけどだからと言って、それで全てが管理できる訳じゃない。見てみろ」
そして再び窓の外を指し示す。
「脱走は未遂だろうが計画だろうが、見つかればあれだ」
「あれじゃ…… 凍死する」
「そう。夜半からあそこにああやってくくりつけられて、明け方の、一番冷える頃に、とうとうああだ。その時に声を立てる奴もいるらしい」
「ほら見てみろよBP」
ビッグアイズはその中の、一番その窓から遠くに居る者を指さす。
「もうじき夜が明ける。空が明るくなってくるだろ」
確かにそうだった。話しているうちに、明けつつある空は、次第に色を変え始めていた。静かな朝の空は、そう感じるのが不謹慎だと思うくらいに、BPの目には美しく見えた。
だがその美しく色を変える空の中に、そのシルエットは、黒く強烈に映る。
「あの姿が、まるで天に対して祈りを捧げているようだ、と言われてるんだ」
「それで、『暁の祈り』?」
「そうだ」
ヘッドはうなづいた。
「そして、明日の俺達の姿だ」
それは静かな声だった。だがひどくそれは、実感をもって彼の中に響いてきた。自分達には刑期は無い。この冬の惑星から、出られる時は無いというのか。
彼はぐ、と唇を噛んだ。
「お前だったら、どうする? BP」
「どうするって……」
「俺達は、ここに居続けるにしても、何か起こすにしても、地獄と隣り合わせだ。だから誰でも一度はああやって考える。だが連中を見くびってはいけない」
「タイミングって奴さ」
ビッグアイズが口を挟んだ。ぱち、と音がするので見ると、手には何処から調達したのか、綺麗に磨き込まれたナイフが開かれていた。
「ビッグアイズ、それ……」
だがそんなBPの問いかけには、相手は大きな目を物騒にひらめかせると、にやりと笑い、またぱちんと刃を閉じた。
「まだ、その時じゃあない」
ヘッドは普段の声よりずっと低くつぶやいた。
「あんたは、『その時』がいつか来ると思っているのか?」
「わからない」
ヘッドは即座に答えた。
「だが、それが永遠である訳は無い」
「そりゃあそーだよね。死んだらそこで終わりだし」
「リタ」
「そーじゃんよ。死んだら全部終わりなんだよ? あーんな風に、氷の棒になっちまうか、真っ赤にまみれて転がるモノになっちまうか、それはどっちでもイイけどさ」
彼はふと、相棒に残されていた風景を思いだしていた。
「死んだら終わりだ。ヘッドあんたもそれはよぉく判ってるはずじゃない?」
リタリットは言い切った。
「オレは死にたくないね。まだ知りたいことがあるんだ」
それは、その光景のことなのだろうか。BPは思う。しかしそれは自分も同じだった。同じ夢が繰り返される。その中に出てくる誰かは、日々、その感覚を蘇らせてくる。
抱きついてくる、その折れそうに華奢な身体の感触。なのに込められた指の強さ。豊かな髪が触れた時のくすぐったさ。そして……
「それまでは死ねないし、死にたくない。オレは絶対、帰るんだ」
「ああ」
ヘッドはうなづく。
「それは俺も同じだ。……皆同じだ」
気がつくと、ベッドの中で目を覚ましだした房の者達が、窓の外の光景に気付き、静かに彼らの様子を見つめていた。
「焦るなよリタ。『その時』は必ず来る。いつかは俺にも断言できないが、必ず来る。ただ、それにはタイミングが必要だ。俺達の側だけでない。何か、そうするべき時が、必ずあるはずなんだ」
「ああ全く。あまねく神々は何をしてらっしゃるやら。我らはぐれた子羊なんてさすがにお忙しくて天使様すらお寄越しにならないのですね全く。さすがです当然です。天使は今では地の上で人と絡みその光を失いその力は既に我らが星まで満たしはしない。やるせないねえ」
BPは思わず目を大きく瞬かせていた。何をいきなり言い出すのだこの相棒は。
また始まったよ、とビッグアイズはくく、と笑う。そして小声でBPに囁いた。
「癖なんだよ、こいつの」
「俺は知らなかったが…… 」
「お前が来てからあまりそういうことは無かったけどな、BP。こいつは元々こういう奴だ。何処で覚えたのやら」
それで文学者なのか、とBPはようやく納得した。
リタリットはそれから延々十分程、世界に対する怨嗟の言葉を皮肉を香辛料に多数の修辞句つきで並べ立てると、ふっと息をつき、気が済んだとばかりにこう付け加えた。
「ま、言っても詮無いことだが」
だったら言うなよ、とは決して誰も口にはしなかった。




