2-3 ARK824.08/警備対象の一日ととある出会い
「だってさ」
そしてそれを問いかけると、「その人物」は、あっさりと答えた。
「馬鹿ばっかりだし」
「それは……」
「別に、俺は自分の身くらい自分で守れるよ。それにだいたい俺が誰かなんて、フツーの奴はわかんないし」
それはまあ、とテルミンは思う。自分だって、信じられなかったくらいだ。この目の前に居る人物が、「首相の愛人」だなんて。
「それで、お前、俺のこと何って聞いてるの?」
官邸の広い庭の、あずまやの様な場所で、「首相の愛人」ことヘラはそうテルミンにそう問いかけた。テーブルの向こう側、椅子の上にだらしなく腰掛け、ヘラは半ば伏せた様な目で、ちらと彼の方を見る。
「え」
「だってお前、あん時俺のこと知らなかったじゃない。でも今は仕事でここに居るんだし。お前さ、お前の上官に何か聞いているんじゃない? アンハルト大佐だっけ」
「…… 一応…… 首相閣下の……」
愛人、という言葉はやはりどうしても言えない。だがその隠れた言葉をヘラは引き取る。
「そ。囲われてんの、俺。囲い者。ほら言ってみ」
テルミンは言葉に詰まった。きちんと掛けた椅子の上、ひざの上に乗せた手が汗ばむのが判る。どう言っていいか判らなかった。
「……ああごめんごめん。いじめるつもりじゃないけどさ」
大きな焦げ茶の目を伏せる。濃い長いまつげが、影を落とす。
あの朝には無造作に広がっていた長い巻き毛は、やっぱり無造作にだったが、後ろで一つに束ねられていた。背中の半分くらいあるだろうか。
そしてその髪と、薄いたっぷりしたシャツに覆われている背中も、ひどく華奢で、薄い。
テルミンは、自分自身に関しても、決して筋肉質や良い体格とかとは縁があるとは思っていなかったが、どうもこの目の前のヘラという青年は、それとはもっと別種のものであるとしか思えなかった。あの時思った「胸の無い女」というのがやはり近いのかな、と思った。
だが奇妙なもので、ぱっと見には女性にも見まごう美貌、という形容がぴったりなのだが、近くでまじまじと見てみると、やはり男性以外の何者でもないことに彼は気付く。
奇妙なバランスが、そこにはあるのだ。一体それが何処から来るのだろうか、彼には判らない。
「何見てんの」
不意に目を開かれ、テルミンははっとする。
「い、いえ、失礼しました」
「……そういう言い方、俺はやだな」
へ? と彼はタイミングを外され、心臓が飛び上がるのを感じた。
「何っかやだ。そうゆう敬語、俺に使われたって、敬意なんかこもってないの判るし。やめやめ」
「それでは自分が困ります」
手をひらひらと振るヘラに、テルミンはすかさず反論する。
「お前が困ったって俺知らないもの。とにかく俺に敬語なんか使うな。聞いていて気色悪い」
はあ、とテルミンはやはりそこでもうなづくしかできなかった。
「……では…… あなたのことは何と呼べばよろしいのでしょう」
「また敬語だ。まあいいさ、だんだん止めてくれ。ああそぉだな、奴が居る時には敬語。お前の上官とか部下が居る時には敬語。だったらいいだろ?」
「は」
「お前の顔立ててやろうってんだ。この俺が。我慢しろ」
我慢って。
「とにかく、俺は俺自身を軽蔑してる様な奴等から敬語使われるなんて嫌なんだよ。気色わるい」
「わ…… かりました。で……」
「俺のこと? お前名前聞いてる?」
「ヘラと呼ばれている、と」
「そうヘラ。そう奴が呼んだからな。つまんない名前だ。だけどそう呼ぶんだから仕方ないだろ。お前は何って呼びたい?」
テルミンはまた黙った。呼び捨てはまずい。いくら何でも。何処で誰が聞いているか判らない。
だけど「様」なんて付けたら、きっとこのひとはまた怒るだろう。…… 敬意なんか確かにはない。だけど。
「ヘラ…… さん」
するとヘラはへの字に口を曲げたまま、眉をぽん、と上げた。良くないのかな、とテルミンはその表情の裏側にあるものを読みとろうとする。ヘラは腕を組む。首をかしげる。
「ヘラ・さん」
言葉を繰り返す。ふむ、とうなづく。
「それでいいよ。お前、テルミン、俺と居る時にはそう呼べ。他の呼び方は嫌だ」
そしてくくくく、と肩を震わせて笑った。
「ところでヘラ…… さん」
「何」
「その、何度か口にされた『奴』って…… 」
「決まってるだろ。ゲオルギイの奴だ」
それが首相の名であることを思い出すのに、テルミンは十秒ほど掛かった。
ところで、テルミンは「警備員」という任務をもらってしまったばかりに、彼はそれまで暮らしていた士官の独身寮を引き払って、この官邸の一室に住居を与えられた。
専属の「警備員」と言ったところで、本来の意味でヘラの身をも含めた官邸のそれは、結構な人数が交代で勤務していた。よって彼は、自分の任務はそういう「警備」ではなく、殆どがその「首相の愛人」の暇つぶしの話相手なのだ、ということは理解していた。
実際厄介だ、とは感じていた。無論同時に、この官邸でのアンハルト大佐の副官としての任務も兼ねているのである。軍に入った以上、プライヴェイトな時間など殆ど無くなるだろう、と覚悟はしていたが、少しばかり彼もため息をつかずにはいられなかった。
だがしかし、彼の予想は多少外れた。
彼はヘラの専属の、「私的な」警備員だったから、朝から晩まで、ヘラが必要とする時には、側にいなくてはならないはずだった。
ところが、その時間が、意外にも少ないのだ。
まず朝。任命された次の日に、軍人としての彼がごく当たり前に「勤務時間」として訪ねていったら、当の本人は、まだベッドの中だったりする。
目が半分閉じたままのヘラによく聞いてみるとこう言った。
「奴がしつこいんで、俺は寝不足なんだよ」
翻訳すると、夜が遅いので、朝も遅いのだという。
だったら、とテルミンは、まず出勤すると、アンハルト大佐の元に出向き、その場で必要なことを手際よく進めておくことにした。
彼は大佐の副官である以上、大佐の任務をスムーズに進める準備をしておかなくてはならない。必要な下調べや、準備を自分の部下に手分けして命じておくのだ。
下手に彼が一日中詰めているより、それは効率が良かった。任された方は、振り分け方の上手い若い上官に対し、それなりに真面目に仕事をこなしてくれる。彼は「警備員」の仕事が退けてからそれをとりまとめるだけで済んだ。
無論それはアンハルト大佐と、彼の元に居た元々の部下の質が良かったから、ということもある。テルミンは自分の力を過信することはなかったので、そのあたりはきちんと心得ていた。
そうこうしているうちに、陽も高くなり、一段落したところで、ようやく彼はヘラの元に出向く。
すると大体この本人は、最初出会った日の様に、ボタンを一つしかはめなかったり、髪は解いたままだったり、だらだらとした格好で「朝食」を摂っているのだ。時計の針は、どう見ても「昼食」の時間だったが。
しかし確かに、話し相手でもいないことには、何をすればいいのか判らない様な暮らしだ、とテルミンはヘラに一日ついてみてよく判った。
何をしているか、と言えば、何もしていないのだ。
朝起きて、食事をして、昼間何をするでもなく、広い部屋の中で、フォートの綺麗な雑誌を眺めたり、大きな画面のヴィジョンを眺めたり、この星系外で流行っているという音楽を聞いたり……
遊んでいる、というにも気力が足りない生活だった。そんな生活に縁が無いテルミンは、もしそんな生活を強いられたら、自分には耐えられないだろうな、と考える。
しかし不思議なことに、外出することはまず無い。
買い物やキネマや何やら、そう言ったことでもしていれば退屈は多少紛れると思うのに、ヘラは滅多にしなかった。
何かを強烈に欲しいと思うこともないらしく、部屋の中のクローゼットの中身も、皆似たような、シンプルな形のシャツとパンツばかりが数だけは多く並んでいた。
しかしそうやって考えると、この長く伸ばした巻き毛も、単に面倒だから切らないのではないか、とかんぐりたくもなってくる。恐ろしいほどそれは似合っていたのだが。
だが、ヘラは官邸の敷地内はよく動き回っていた。
この首相官邸自体が、ひどく広い敷地の中にあった。あちこちに作り込まれた庭もあった。放って置かれた荒れ野もあった。
その広い敷地の中を、ヘラはぼうっと歩き回ったり、時には池の中に足を突っ込んだり、自転車を乗り回しているらしい。専用の自転車が、窓の下に置かれているのをテルミンも目撃した。
だがそれでも、その敷地の外に行くことはまず無いのだという。雨が降ったら、それこそこの広い官邸の中をひたすら歩き回っているだけのこともあるという。
実際この官邸は広かった。入植当初から、この建物はこの地を統治する人間の持ち物であり、代替わりするごとに少しづつ増築していくものなのだ、とテルミンはアンハルト大佐から聞いた。
当初はひどくシンプルな建物だったらしい。だがそれは次第に入る人間や、増築を命じられた人間の趣味が入り交じり、現在ではひどく複雑怪奇な内部の建物になってしまっているのだ。
そしてヘラはそんなこの官邸の中を歩き回るのが好きらしく、よくこの中で行方知れずになっては、見つけようとする警備員をからかったりするのだという。
夕刻に、「昼食」を摂り、夜中に首相のゲオルギイが戻ってくる。来ない日もある。
また逆に、昼間に空き時間ができた、ということで首相が戻ってくることもある。
いずれにせよ、そんな時間に、テルミンはその場を離れなくてはならない。無言で、一礼して、ヘラの細い肩を抱いて部屋の中に入っていくのを見て見なかったことにしなくてはならない。
彼は小さな胸の端末が自分を呼び出すまで、何処かで待機していなくてはならない。
あまり遠くてはいけない。予想はつくのだ。あの首相が、あの愛人と逢っている間、だけなのだから。ただそれはどれだけの時間なのか判らない。三十分なのか、一時間なのか…… それとももっと長いのか。
テルミンはその中途半端な時間を持て余した。もともと根が真面目なので、その時間を何やら他の暇な兵士や士官と共に遊んで過ごそう、と思うことはできなかったのだ。
そんな時に、彼の目に飛び込んできたのが、最寄りの首府中央図書館だった。そうだここなら、と彼も思った。
この程度の距離なら、呼ばれても十分小走りに駆ければ、元の場所に戻ることができる。
そして、数日その場所に通ううち、彼は書庫の存在に思い当たった。自分の勤務先を司書に述べたら、あっさりと彼はフリーパスを手にすることができた。
そして、地下の書庫に、彼は足を踏み入れたのである。
一度足を踏み入れると、そこは彼にとって興味深いものが多いことに気がついた。例えば、入植当時の資料。例えば、長い戦争の間の人々の生活の記録。
彼は士官学校では、どちらかというと社会科学系のものが得意だった。友人で先輩のケンネルが自然科学系のものが得意だったのに対し、彼の興味はあくまで人間と、それが作り出す社会にあったのだ。
実際その学んだ知識が現実のこの職務の上に役立つことが無くとも、それはそれで面白いものだ、と考えていたのだ。
だがさすがにこんな資料が目の前にあると、自分の気持ちが晴れやかになっていくのを彼は感じていた。何せ、そう一般人には見られるものではないのだ。一般兵士であったとしても。
そんな心地よい、夕刻近い時間を彼はこの場で過ごすことが多くなっていた。上階のオートショップでパックの飲み物を買うと、この「休憩所」で、あまり無理しない程度の資料に読みふけることが多くなっていた。
そしてその日も、そんな風に一日が過ぎていくはずだったのだ。
だったが……
「熱心だね」
と、声がしたのでテルミンは顔を上げた。あれ、と彼は思った。先刻通路ですれ違った男がテーブルの脇に立っていた。
「ええまあ」
彼は曖昧に答える。そしてもしかしたら、自分は実は前に会っていた人物なのだろうか、と記憶の中をまさぐる。いや、やはり見覚えはない。
「最近、よく見かけるけど、君はこの近くに赴任しているのかい?」
「……ええ。すぐ近くの邸宅に」
それで通じたのだろう。男はにっこりと笑った。
「それは奇遇だな。僕も近くに赴任しているんだよ」
テルミンは首を微かに傾げた。すると男はそんな彼の様子に気付いたのか、こう付け加えた。
「僕は帝都からの派遣員なんだよ」