20-1 BP達官邸突入、そしてたぶん再会
はっ、と彼は飛び起きた。
耳障りな音が、強く長く、連続して鳴っている。非常ベルの音だった。
何ごとだ、とテルミンはすぐにベッドから降りると、椅子に掛けた、脱いだばかりの服を再び身に付ける。脱いだばかりだった。眠りについたばかりだった。
一人で眠る夜は、短い方がいい。
彼は目覚めたばかりで痛む目の裏を我慢しながら、慌ててボタンをはめ、ベルトを締めると、自室から飛び出た。そして廊下を挟んで斜め向かいのヘラの扉を叩く。中からはすぐに、返事があった。
「総統閣下」
扉を開けてテルミンは安心する。ベッドサイドのスタンドの明かりの中の彼の上司は、無事だった。
「どうした。何があった?」
ヘラもまた、目を覚ましたばかりらしく、その格好は、決してきっちりとしたものではなかった。だがテルミンと違い、ヘラは濃い灰色の寝間着の上下の上に、アイボリーのカーディガンだけに腕を通し、足にはスポーツ用の靴を履いていた。
動くための格好だ、とテルミンは思った。見栄えではなく、動くための。
「まだ判りません。ですが、このベルが鳴るということは、おそらく、侵入者かと」
「侵入者」
ヘラは表情を厳しくする。
「閣下はここに居て下さい」
「何処に居たって同じだろう?」
そしてヘラは耳に手をやる。その仕草にテルミンは声をひそめ、ゼスチュア通りに耳を澄ます。ばりばり、と音が遠くから聞こえてくる。
「テルミンお前、銃を持ってるな。二つは無いか? 使えるな」
「無論です。あの時御覧になったでしょう?」
「そうだな。そして俺もだ」
くす、とヘラは笑う。その表情が、ひどくテルミンには楽しげに見えた。
「でも一つしかありません。…それに、あなたにはこんなものでは軽すぎるはずです」
「ああそうだな。だがこの部屋には武器らしい武器は無いな。―――いずれにせよ一度出なくてはならないな」
「しっ!」
テルミンは口に指を当てる。音が急に近づいてくる。ヘラはうなづくと、扉の内側に身体を隠し、目についたものを手に取る。テルミンはテルミンで観音開きのその扉の反対側に身を寄せる。
耳を澄ます。向こう側でもこちら側を伺っている様子が判る。テルミンは銃を握る手に力を込める。
乾いた音が、扉の外に響く。厚いこの扉は、一発二発でどうということは無い。
気付いたのだろう。続いて、ばりばりと連射する音が、二人の耳に届く。ヘラはにやりと口元を上げた。
ばん。
音を立てて扉は開かれた。飛び込んで来たのは、四名。
テルミンは後ろ向きに入ってきた一人の銃口を避けながら、その胸を狙った。乾いた、鈍い音が響いて、胸から血が飛んだ。
う、と飛び込んだ仲間の急な死を目のあたりにした一人の顔に、花瓶が空を飛び、直撃する。入っていた花が、水ごと飛び散る。
ヘラはそれに頭から体当たりする。うわ、という声と共に、総統閣下より頭一つ大きな男は、その場に倒れた。
緩んだ手から容赦なく、ヘラは銃をつかみ取る。そして踏みつけたその胸に、迷うことなく、弾丸を撃ち込んだ。
カーディガンが、赤く染まる。
「…!」
叫ぶ間も無かった。鋭く回したその手から打ち出される弾丸に、二人目は、喉を打ち抜かれる。ひゅう、と音を立てながら、まだ若い侵入者は、その場に倒れた。
残る一人は、既にテルミンが後ろ手に捕らえていた。ヘラはその生き残りの喉元に、ぐい、と銃口を押し付けた。目を大きく開き、開けられた口は、あわわ、と言葉にならない言葉を吐く。
こんなに唐突に、この自分達の目的の対象が、あっさりと自分の仲間を片付けてしまうことに衝撃を受けているのは確かだった。
確かに警備については、万全の体勢を整えてきたに違いない。だが、それ以上の危険が、そこにあったとは知らずに。
「ここに侵入したのは、お前達四人だけか?」
ヘラはひどく静かに問いかける。その顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。捕らえられた男は自分の顔から脂汗が滴り落ちているのに気付いているだろうか。
「言わないのか?」
くす、とその笑みの度合いが大きくなる。うう、と男はうめく。慌てて首を横に振る。
「誰か、まだ居るんだな。何人だ?」
「…」
口が横に広がる。
「言え」
ぐい、と喉に押し付ける力は強くなる。
「…ぃ、いとり…」
引きつる声。それだけを、ようやく口にする。
「そうか。ではもう用は無い」
そしてそのまま、喉から銃口をずらし、鎖骨の上から、下に向けて引き金を引いた。
ゆっくりと、その場に身体が崩れ落ちる。ヘラは頬についた血を指でぬぐうと、顔色一つ変えずに、テルミンの方を向いた。
「始末しておく様に指示しておけ。それと、もう一人の探索を」
「はい。すぐに…」
「最後の一人は、殺すな。捕らえろ」
「いいのですか?」
「殺す方が、簡単だ。おそらく残りは単独行動を取ることを許されている。今のこの集団は、ダミーだ。本命の方が、より情報を握っているんじゃないか? 宣伝相」
「嫌味ですか」
「いいや本気だ。命令だ。生かして捕らえろ」
判りました、とテルミンは一礼して、その場を離れる。
ヘラはその後ろ姿を見ながら、銃の弾丸の残量を確認すると、倒れている、元々の銃の持ち主の懐を探った。
案の定、その銃に相当する弾丸のカートリッジの換えが見つかる。しゃ、と音をさせて、カートリッジを取り替える。それは慣れた手つきだった。この銃の形式に、慣れた手つきだった。
ヘラは血に染まったカーディガンを脱ぐと、ふらふらと揺れる寝間着の袖をも引きちぎった。むき出しになった腕は、夜の窓から入る衛星光のぎらりとした光に白く浮かび上がる。しなやかなその線は、その手にやや大きめとも思える程の銃を握りしめた瞬間、筋肉の在処をあらわにした。
そしてヘラは、壁の一部分に手をかけた。
*
かび臭い、とBPは階段の裏手の隠し扉を開けた瞬間に思った。
一方が集団で陽動作戦を取っている間に、隠し通路に忍び込んで、総統の私室を狙う。
それが今回の作戦の単純な形だった。無論、陽動が四人で済むとは思っては、BPも思ってはいない。何はともあれ、ここは「官邸」である。警備の量も半端ではない。
侵入する時にも、ラルゲン調理長の情報をもとに、調理資材関係の搬入路と倉庫の抜け道をたどった。さすがにそこは、警備の対象外だったらしく、…簡単とは言わないが、巡回する兵士の目を軽く逸らさせただけで、何とか入り込むことに成功はした。
BPはそこから単独行動に入った。
だが元々彼は、一人で侵入することを主張していた。その方が、動きが取りやすいし、なおかつ被害も少ない、と考えていたのだ。確かに彼らは裏活動を何かとして居たことはあるらしいが、実戦経験の量が、自分とは違う。…と、彼は感じた。
記憶では無い。「知識」が、銃を手にした途端、自分のすべき行動を、決定するのだ。その「知識」が、こんな作戦には、少人数であればある程いい、と主張する。
だが「赤」も「緑」も、それは駄目だ、と主張した。
自分の行動は、試されている。BPはそれに気付いた時、渋々ながらも了承した。
だが。
嫌な予感がした。
先程から、何の音もしていない。少し前、この通路に入り込むまでは、何かしらの音がしていた。足音。騒ぐ声。銃声。号令。
なのに、この通路に一歩入った瞬間、それが、まるで無かったことの様に、ひっそりと辺りは静まりかえる。空気の色も違う。明かり一つ無いその通路の壁に、彼はそっと手を当てる。ひんやりと、冷たい。
目をそっと伏せて、耳を澄ませる。
こんなことが、以前にもあっただろうか?
彼は自分の中の細い細い糸をたぐる。蜘蛛の糸の様に、細いそれを、切らさない様に、そっと、ゆっくりたぐっていく。
冷たい壁。湿った空気。かび臭い通路。
ライから戻ってから、実戦に数度出たことはある。だがそれは、大概が街路やビルの中だった。陽の光の中ではないが、決して暗い中で行う戦闘では無かった。
だが確かに、こんな暗闇の中で、自分は息を殺して、敵の気配をたどっていたことがあった、と彼は思う。
敵。
そう、気配が、この大気の中にはあった。それは、彼のむき出した腕の上をぴりぴりとかすめていく。
…何処だ?
彼は内心つぶやきながら、ゆっくりと足を進めていく。
広い通路ではない。だが足元が見えないくらいに暗い通路だから、彼は側の壁に手を当てて、ゆっくりと進んでいく。
ふと、やがてその視線の先に、ぼんやりと光の様なものが見えた。
何だろう?
青白い光が、ぼんやりと壁の灰色を浮かび上がらせつつあった。道が曲がっている。腕に感じる違和感にも似た感覚が、次第に強くなってくる。
光の在る方へ。彼は近づいていく。
そして突然、目の前が開けた。
「…なるほどね」
声がその空間に響いた。
乾いた声だった。
誰かが居る、と彼は思った。確かに居る、と。
だがその「誰か」の姿は、逆光で見えない。
大きな高い窓が、その突き当たりにはあった。その窓から差し込む衛星の冷たい青白い光が空間を満たしていた。だが窓を背にして、その聞き覚えのある声の持ち主の顔は、見えない。
聞き覚え。政見放送で。聞こえてくるラジオで。
その姿がそこにあった。たった一人で。
そのつと伸ばされた手には、銃が。
彼もまた反射的に銃に手を伸ばした。
だが、撃つのではなく、まず身を伏せた。
頭上を鋭い風が過ぎる。音はその後に続く。伏せたまま彼は、引き金を引いた。素早い動きで相手は避ける。かしゃん、と軽い音を引いて、窓ガラスの端が割れた。
立ち上がると彼は、数回引き金を引いた。その度に、相手は素早く身をかわす。光の具合で彼にとって死角になる部分に入り込んでくる。
確かにこんなことがあった。
彼は頭の半分で思った。
そして、こんなことが得意な奴が。
その一瞬のスキが、彼の動きを鈍らせた。
すっ、と死角の闇の中から、相手は伸び上がってきた。
BPは銃を向けようと思ったが、相手の方が一瞬早かった。
両手が、彼の手の中の銃を突き上げていた。弾丸が、窓ガラスの真ん中に命中した。派手な音を立てて、ガラスが弾けた。
落ちる―――
何が、という訳でない。ただ、落ちる、と思った。
だが、落ちたのは、自分の身体であることにBPが気付くにのは、やや時間がかかった。
何が起こっているのか、彼にはすぐには判らなかった。
自分が相手の銃で撃ち殺されるだろうことは予想できた。だがその気配は無い。
相手の両手は塞がっている。
自分の両肩を押さえ込んでいるから、塞がっているのだ。
何でこんな力が。
華奢そうな腕。あり得ない。
そしてその時、相手の顔が、はっきりと見えた。衛星光に半分照らされた、その顔の輪郭が、くっきりと判った。
「…お前は」
総統ヘラ・ヒドゥン。
まず彼は思った。あの並んだポスターの中で、一枚、くっきりと鮮やかなその顔を浮かび上がられたその顔。
何度も繰り返される中央放送局の政見放送の中、政府公報のCFの中、どんな俳優も歌い手も顔色を無くしたというその整った顔が、目の前にある。
だが一方、彼の中で奇妙な映像が、オーヴァラップする。
「誰だ」
彼はつぶやく。
「お前は、誰だ?」
それは、長い髪だったはずだ。ゆらゆらと、長い髪を揺らせて、上目づかいに自分を見上げた。ひどく悔しそうな顔で、ひどく悲しそうな顔で。
どうして、と彼は再びつぶやく。
だって。
ぼとん、と水滴が、自分の頬に落ちるのを、彼は感じていた。
一滴ではない。ぼたぼたぼたぼたと、幾つも、幾つも、水滴は、自分の上に落ちてくる。
一体これは何処から落ちてくるのか、と彼は不思議に思う。確かに目の前の相手から、流れているものなのだけど。
相手の大きな目から、流れて落ちてくるものなのだけど。
じゃあこれはあの映像の続きなのか、と彼は、ふと考える。
だから、彼は、その時に聞いてみたかった言葉を投げた。
「何で泣いているんだ?」
「お前が馬鹿だからだ」
「そうなのか?」
「そうだ。大馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。救いようも無い馬鹿だ」
そして相手は自分の上にのし掛かったまま、首を抱え込む。
やはりあの映像の続きに違いない、と彼は感じる。でもそれはおかしい。一体今はいつで、ここは何処だ。
「…や… めろ…」
「止めない。お前にあの時、何で何もできなかったんだ。俺は一体何をしてたっていうんだ、ザクセン」
その名前は、と聞こうとした。
だが出来なかった。
呼吸が塞がれる。これは相棒のものではない。柔らかい感触が、口を被い、柔らかな舌が、その間から侵入してくる。これは違う、相棒とは。
「…や… めろ!」
彼は思い切り背中に力を入れて、起きあがった。手に力を入れて、相手の身体を押し戻した。
がちゃん。
金属が床に落ちる音がした。それが銃だということに気付くのに、少しばかり時間がかかった。
手に取ろうとする。だが相手の足がそれを蹴り飛ばす方が早かった。
どちらの手にも銃は無い。そしてどちらも、体勢が崩れている。ある意味互角。
だが相手からは、殺気が感じられない。
BPは戸惑った。一体こいつは何を考えている?
「なるほどやっぱりお前はライへ送られたんだな」
「何?」
乾いた声は彼に対して、会話を求めていた。少なくとも、BPにはそう聞こえた。
「そして全く忘れてしまったんだな?」
「だから何を」
「全てを。お前がお前である全てを。そして俺のことも」
「お前のことも?」
「忘れてしまったんだろう?」
くくく、とヘラは笑う。
一体誰だと。
相手は自分のことをザクセンだと呼んだ。では本当に、この「総統閣下」は、あの「赤」のメンバーが言った、「アルンヘルム」だというのだろうか。
だがその名前を口にするのは、彼にはためらわれた。
違う。俺はそう呼んでいたのではない。
「何で…」
そして無意識に、そんな言葉が彼の口から流れ出していた。一度顔を両手で被い、息を詰め、ゆっくりとその手を顔から引き剥がす。
どうしてそう言おうとしているのか、自分でも訳が判らない。だが。
「何で、お前…」
相手は自分の目の前で、くくく、と笑い続けている。何だよ、とヘラは笑いながら問いかける。
「何でお前、泣いてるんだよ、―――ヘル」




