2-2 ARK824.08/ビアホール対談
「何だそりゃあ?」
ざわめきの中でも、その高い声は妙に響いた。しまった、とケンネルは自分の口を塞いだ。一瞬彼等の方に向けられた視線も、すぐにざわめきの中に消えていく。夕刻のビアホールでは、ありふれたものに過ぎない。
柔らかな暖色系の灯りのもと、あちこちでジョッキやピルスナーがかちん、と合わされる音が聞こえる。笑い声とざわめき。ゆでたてのソーセージをかじるぱり、という音。リクエストがあった曲が、ピアノの即興演奏で流される。
そして彼等の前にも、そんな場所に似つかわしい暖かい食事があった。小振りなソーセージと、揚げたての長細く切ったジャガイモがそれぞれ皿に山を作る。それにカップ型の器に入った、茶色のシチュウ。
昇進祝いだ、とケンネルは元後輩の友人を久しぶりに夕食に誘った。
ところがこの友人ときたら、どうも様子が変なのだ。元々そう健康そうに見える訳ではないが、どうも何かそれ以上に疲れた顔をしていた。
よっぽど今度配置された部署は、性に合いそうにないのだろうか、とケンネルはメニュウから適当に選び出しながらも考える。
疑問は疑問としてお祝いの言葉を向けてみた。すると、ありがとう、と言いつつも、何かひどくテルミンは複雑な笑顔を浮かべたのだ。ふうん、とケンネルはそれを聞くと、うなづいた。
「で何、テルミン、何か嫌ぁな上官が居たんか?」
「ええ? いやいや、そんなことは無いよ!」
手を胸の前でばたばたと横に振る。
その間に、まずはビール、とジョッキが二つ運ばれてきた。ちん、と軽い音を響かせて二人の間でジョッキが合わされる。
そして一口飲むと、ケンネルはさりげなく、だがやはり同じ問いを角度を変え、容赦なくぶつける。
「いや、そんなことは無いんだって。今度の俺の上官のアンハルト大佐って人は、かなりいい人だよ。まだずいぶん若いんだ。すごく有能で」
「お前がその人の副官って訳だよね?」
「そう。一応大佐がそこの警備隊を仕切っている形になっているから。俺はだからその副官で」
「いい人で有能かあ。お前がそうやって言うの珍しいからなあ。いい人はいい人だし有能は有能って言うしなあ」
「先輩……」
「だってそうじゃん。お前結構そのあたり辛辣だからさあ」
「俺はいつも本当のことを言ってるだけだよ。だってそうじゃないか。無能は無能だし、有能は有能だよ。それと人がいいとは別の話」
「そりゃあそうだけどさ。だからお前が『有能で人がいい』ってのは珍しいと違うの?」
ケンネルは言いながら、ジャガイモを一つ二つ、と口の中へ放り込む。
「いや、だからいい人かどうかは本当は判らないだけどさ。少なくともいい人に見えるんだよ。それで満足?」
はいはい、とケンネルは肩をすくめた。
「じゃあ何が気になったのさ」
「気になんてなってないって」
「うっそぉ」
言葉は軽いが、一言のもとの否定。
「嘘なんてついてないって」
「だってほら」
ぴ、とケンネルはテルミンの指先をフォークで示す。はっとしてテルミンは自分の手を見る。
「あ」
気がつくと、自分の手が、近くのナブキンを依っていた。彼は口を歪め、一本の紐になってしまった紙を、スプーンの横に置く。
「……いいけどさ」
「だからさあ、隠したって出るんだから、愚痴があるんなら言えばいいじゃん。俺は別に関係無いんだから、聞くくらいはできるよ?」
「だけどなあ」
「だけど何?」
なおも言い渋る元後輩を、ケンネルは自分には珍しいと思う程に突き詰めていた。
実際、テルミンがこれだけ言いにくそうにしていることは珍しい。それだけ、自分には士官学校時代――― いや、もっと前から、言いたいことは言い合ってきた仲なのだ。
ふう、とテルミンは脇のナプキンさしから一枚引き抜くと、胸ポケットのペンを出して、さらさらとその上に何かしら書き付けた。
何、とケンネルはぐっとその上に視線を寄せ――― 眉を寄せた。
「ホントかよ? それ」
「守秘義務はあるけどさ。でも…… なあ」
確かにな、とケンネルもうなづく。誰かに言いたい気持ちは山々なのだろう、と。
テルミンは、その書き付けたナプキンに、水を染ませて握りつぶしてから丸めた。
ああこれもいつものクセだよな、とケンネルはそんな友人の動作を見ながら思う。言ってはならないこと、だけど誰かにどうしても聞いてもらいたいことがある時、テルミンはこんな回りくどいやり方をする。
しかしさすがに今回はそれでも言いたくなかった訳だろう、とケンネルは納得した。あの首相に、少年めいた青年の愛人が居るなんて。
「で、どんな奴?」
肝心なところさえ暗黙の了解ができてしまえば、その事についての会話はそう難しくない。
「その様子だと、会ったんじゃないの? その当の本人に」
「先輩にはかなわないよ。うん、出会ったんだよ」
しかも眠り込んだ時を見られた。だがそのことをどうしてもテルミンは今ここで口に出せなかった。
「何かさあ、だから、『少年』だなあって」
「何さ、それ」
食事を再開させながらケンネルは訊ねた。
テルミンの視線が天井に向いてしまっている。このままでは食事が冷める、とばかりにケンネルの手の中のフォークは、ソーセージやらジャガイモやらに刺さっていた。
「だからさ、俺達が日々見慣れた同じ男、とは思えないってこと」
「そんなガキに見えたのか?」
「というよりは、胸の無い女の子に見えた」
テルミンの脳裏に、あのはだけたシャツの間から見えた白い肌がよぎる。うす茶色の乳首が、浮かび上がる。
彼は慌てて頭を横に振った。何で俺はこんなに克明に覚えているんだ、と自分で自分にため息をつきたくなる気分だった。
「そんな綺麗だったのかあ?」
さすがにケンネルもフォークの手を止めた。テルミンは迷わずにうなづく。
「だって先輩、あれを俺達と同じ年代の男って言ったら十人が十人、冗談、って言うよ? 髪だって巻き毛で長いし、目はでかいし、くっきりはっきりしてるし」
「お前だってでかいだろう? でもお前がそこまで言うんだから、何か並外れてそうなんだろうなあ。あ、俺ちょっと興味出てきちゃった」
ケンネルはそう言って、両手を胸の前で組み合わせる。するとテルミンは手をひらひらと振った。
「やめてやめて。俺、出来れば二度と会いたくない」
ぶる、と思わずテルミンは肩をすくめた。
「へ? 何で?」
何故だろう、と自分で口にしてしまってから、テルミンは思う。だけど確かに、そんな気持ちだったのだ。二度と会いたくはない。
奇妙な気分が、背中を押していた。あの時の姿を思い出せば思い出すだけ。
「ま、いいよ。でも勤務先だろ? 会ってしまったら?」
「一応彼には構うな、って言われたけど」
「だったらそれにしっかり従うことだよな。上の命令はちゃんと聞くもんだよ」
「先輩がそういうこと言う?」
「俺はちゃんとやってるよ? 何せ優秀な庁員だからねえ」
だがしかし、その言葉が自分の中で、別の意味にすり替えられることになるとは、テルミンはまだ気付いていなかった。
*
「あ、すみません」
書庫の通路は狭い。だから人とすれ違うと肩が触れ合うことがある。相手は無言で首を縦に振る。
あれ?
ふとテルミンは立ち去って行くその人物の色合いに違和感を覚えて立ち止まった。両手に積まれた資料が急に重みを増す。
少なくともあの色は、レーゲンボーゲン星域の軍服ではなかった。濃青では、ない。
この時代、帝都直轄の正規軍の軍服はカーキに赤のライン、と決められていたが、星系によっては、独自のデザインを採用する所もある。特に辺境の星系になればなるほど、その傾向は大きい。
この星域の軍服は、濃青だった。しかも詰襟の正規軍対し、ここでは開襟である。その上に階級章は華々しく存在を主張する。大きなダブルのボタンも、ラインをきっちり見せつけるようなポケットも同様である。
膝の曲げ伸ばしが容易であるように、と緩やかなズボンは膝より少し下まであるブーツで裾はきっちりと束ねられている。ブーツの底は固く、廊下を歩くと硬い、乾いた音が響くのが通常だ。
だがこの場でその音を立てることは何かしらテルミンにはためらわれた。
この時彼が居た首府中央図書館の地下一階にある書庫は、その日もひどく静かだった。官邸から程近いそこは、テルミンの憩いの場所となっていた。
地下と言っても、中庭から直接入ることもできることから、圧迫感は無い。そこでは午後から夕刻にかけて、その小庭に面した窓から光が入り込む。
本や資料の保管庫という場所には、湿気も決して良いものではないが、直射日光はもっと良くない。書庫の何処へ行っても、まず直接光が入り込む所は無い。他の窓は殆ど恒星光の一日中入らない方角に向いている。
その場所がかろうじて夕刻の光が差し込む様になっているのは、そこが「休憩所」だったからだろう。少なくともテルミンには、そう見えた。
別段そこが「休憩所」と書かれた看板を下げている訳ではない。ただ、彼にはそう見えたのだ。
客観的に見れば、そこは「廊下」である。決して広くはない。ただ、その「廊下」の片隅には、何故か少し大きめのテーブルと、椅子が何セットか置かれていた。
おそらくは、その資料をその場で見る者のために置かれているのだろう。だが書庫を使用する者が少ないのに比例して、その場所を使う者も少ない。
さすがに中央だけあって、椅子やテーブルのほこりは毎日綺麗に拭われていたが、最初に彼がその椅子に座ろうとした時、ぼん、と椅子のクッションに一度強く手を置いたら、内側に溜まっていたほこりが一気に舞い上がった。
すると、そのほこりは、きらきらと窓から入り込む夕刻の光に輝きながら、ゆっくりと降りてきた。ほこりにむせながらも、テルミンは苦笑し、妙にその場所が愛しくなった。
そして彼はそこの常連になった。
そもそもは、彼に「空き時間」ができてしまったことが始まりだった。
転属したばかりの新しい配属場所である首相官邸で、彼は最初の日にとんでもない相手と出会ってしまった。そして出会っても構うな、と上官に忠告された。会いたくないな、と彼も思ったのだが。
なのに、だ。
友人と飲み明かし、二日酔いとまでは行かないにせよ、いつもより酷使してしまった胃の重さを感じながら職場へ出向くと、ひどく複雑な表情の上司にこう言われた。
「早速だが…… テルミン少佐、君に一つ、特別な職務が与えられた」
はあ、と曖昧な返事をすると、彼は次の言葉を待った。何かひどく嫌な予感がした。
そしてその予感は当たった。
「実は、昨日君と出会ったという…… その、あの人物が、君を…… 専用の警備員に欲しい、と言うんだよ」
「……専用の、警備員…… ですか?」
そうなんだよ、とアンハルト大佐は答えた。
「あの人物って…… あの人物、ですよね?」
自分で聞いていても間抜けだ、とテルミンは思った。だが「あの人物」としか言い様もないような気もしていた。「首相の愛人」という生々しい言葉を使うには、「あの人物」は自分の記憶の中では、ひどく浮き世離れしていた。
「けど、昨日の今日ですが…… そんなことを一存で決められるのですか?」
「どうだろうな? とにかく昨日、君が帰った後に閣下も戻って来られたから…… その時にでも」
言いかけて、アンハルト大佐は失言だ、とでも言うように首を横に振った。
「とにかくその辺りは大丈夫だ、ということなのだろう。だから君には済まないが、僕の副官と平行して、その任務についてくれ。君はよく気がつくという報告が、前の部署からも来ているから、僕としても非常に惜しいのだが」
「判りました」
命令は、命令である。テルミンに逆らう気はなかった。
「警備員、というのは他にも居るのですか?」
「いや、今までは居なかったらしい。閣下が付けろ、というのに、何故か『そんなものは要らない』とばかりにふらふらとしていたらしい」
テルミンはさすがに眉を寄せた。