17-1 スノウの帰還予告とテルミンの当惑
何だって、とテルミンはその時胸の中で叫んだ。
「それは本当なのか?」
そして、総統ヘラ・ヒドゥンは、その日執務室にやってきた、帝都の派遣員に対して、そう問い返した。
デスクに手をついて立ち上がったヘラと、その斜め前に居たテルミン宣伝相に対して、交互に穏やかな笑みを振りまきながら、少し着崩したらくだ色のスーツを身に付けた男は、こう繰り返した。
「ええ。しばらく留守に致します。その間のことは、私の部下のウインドに任せておきます。少しばかり今回は長くなりますので」
「それではあなたがそのまま帝都に戻ってしまう、ということではないのだな?」
はい、とスノウはうなづいた。ふう、と息をついてヘラは再び椅子に身体を任せた。
「あなたがそう言うのなら、それは既に決定事項なのだろう。だが、来月の、新年の祝賀祭には戻ってきてくれないだろうか」
「新年、ですか」
「今年のこの星系の新年は、春期だ。一番いい季節に、この首府改造計画の目玉であるスタジアムが完成披露される。その時にあなたにも居てもらえると嬉しいのだが」
「努力しましょう。ですが、それは向こうでの事態次第ですので…」
スノウは言葉を濁した。テルミンは後ろに組んだ自分の手が、じっとりと汗ばむのを感じていた。
「ああ。できるだけ頼む」
そんなテルミンの動揺に気付いたか気付かずか、ヘラはそう締めくくって、一礼して扉から出ていくスノウを見送った。
「…どう思う?」
デスクに両肘をつきながら、ヘラは自分の腹心に訊ねた。
「どうって…」
「本当に、あの男は戻ってくるかな」
「戻って来ない、と考えているのですか?」
「そんな気がする」
ぽつり、と言葉少なにヘラは言う。短い言葉だけに、その中には確信めいたものがテルミンには感じられた。
「しかし、彼の下であるウインド副派遣員は、我々とさして面識がある訳ではありません」
「そうだな。確かに。俺達は、あの派遣員と違って、副には公的な場以外での面識は殆ど無い。そうだな? テルミン」
「スノウ派遣員にしたところで、公式の場以外ではそうある訳ではないでしょう」
「ふうん?」
ヘラは首をふらり、と回し、テルミンを見上げた。ぎくり、と彼は心臓が飛び上がるのをその時感じた。しばらく無言でヘラは彼の顔を見上げていたが、やがてにやり、とその口元を上げた。
「確かにな。俺達がプライヴェートであの人物とそうそう面識がある訳が無い。そうだな、テルミン」
念を押す様に、ヘラは言う。テルミンは表情を動かすことはなく、そうですね、と答えた。
「それにしても、新年の祝賀祭に来られないかもしれない、というのはな」
「何か不都合でもありますか?」
「不都合は、無い。とりあえず、式典にあの男が居なくてはならない必然性は無い。お前の書いた筋書きでは、確かそうじゃなかったか?」
「…はい」
「そう言えば、ケンネル科学技術庁長官…」
「彼が、どうしましたか?」
テルミンはヘラの口からその名が出ると、未だにあの夜の光景が自分の記憶に浮かび上がり、体温が上昇するのを感じていた。だが、きっちりと着込まれた服は、そんな彼の細い身体に一瞬にして吹き出す冷や汗を隠してしまう。顔にそう汗はかかない体質なのだ。
「いや、最近顔を見せないな、と思って」
「研究に忙しい、と聞いていますが」
「研究の内容は、確か、例の鉱石の件、だったよな。それだけでずいぶんと忙しいことだ」
そうですか、とテルミンはおざなりに返す。
「たまには顔を見せるように、と言ってくれ」
「はい」
「もういい。ああ、時間だ。外でスペールンに会ったら、来る様に言ってくれ」
それは暗に、今は出て行ってくれ、という言葉を含んでいた。はい、とテルミンはそれに対しても、無表情に言葉を返す。自分は、それに対して反論する言葉を持たないのだ。そういう地位につけたのは、自分なのだから。
そして失礼します、と一礼して、テルミンもまた、執務室の外に出た。入り組んだ、赤いジュータンの敷かれた廊下を歩いていると、確かに見覚えのある姿が前からやってくるのに気付いた。
「やあ、テルミン宣伝相」
「元気そうだ、スペールン建設相。予定通り、スタジアムは年始に間に合いそうかい?」
「現場に見に来れば判るさ、テルミン」
そう言ってにやり、とスペールンは口元を上げる。相も変わらず、この男は、スーツだというのに腕まくりをし、脇には大きな図面を数本抱えている。とてもこの男が建設相だとは、思えないだろう。
これだけ大きな顔をして、官邸を歩いているにも関わらず――― この敷地に新しく作られた別館を設計したのにも関わらず、この男は若手の建築家、という印象から決して抜けない。
なのに、ただの若手の建築家だったら萎縮してしまう様な、この官邸の中をするすると自由に動ける様な、大胆さをも同時に持ち合わせていた。テルミンはそんなこの男を見るたびに、自分に無い部分を突き付けられている様で、羨ましさと、興味が半々に湧くのを感じるのだ。
「総統閣下が、君を見つけたら来る様に、とのことだ」
「ああ、そうそう、俺が少し時間が遅れているからだな。急がなくてはな」
そしてあはは、と明るく笑いながら、それじゃ、とスペールンは空いている方の手を上げた。この男は、スタジアムやら駅やら様々な都市改造計画の真ん中に居るくせに、どんどんと次のプランを作り上げては、「総統閣下」ヘラにこれはどうか、と伺いを立てている。
ヘラはテルミンやスペールン程に都市改造に継続した熱心さは持たなかったので、今のところ、「スタジアムの建造が終わってからにしてくれ」と繰り返し断ってはいるらしい。
だがその熱意にほだされるのもそう遠くはないだろう、とテルミンは感じていた。何せもう一ヶ月も無いのだ。
街にはクリスマスの飾りが揺れている。今年の年末年始は「春期」だった。共通歴の新年だから、ずれが起こる。「新年は冬」という年もあれば、「真夏」の年もあるのだ。「真冬」や「真夏」に当たった年の式典は散々なものである。ゲオルギイ前首相は、その長い任期から、「真夏」の時には演説中に貧血を起こし、「真冬」の時には、当時の側近達が揃って後で膀胱炎を引き起こした、という話が飛んでいる。
それに比べれば、今度の新年はずいぶんとましだった。
今時分はまだ、外に出れば肌寒さを感じるが、一ヶ月後の新年には、ちょうど昼間、外に出ると心地よい季節になっているはずだった。この官邸の庭の花々にもいい季節になるはずだった。
―――だとしたら、ケンネルが戻ってきてから、結構経つ訳だ。
テルミンは改めて、あの友人のことを思う。
ケンネルに新しい「宿舎」を提供して、この官邸から外に出したのは、表向き、「研究のため」だった。実際、ケンネルがライから持ち帰った物は多かったし、普通の官舎ではそれはクローゼットの中にしまわれて、活用されもしないだろう、と考えられた。だったら広い家を、とヘラに言ったのは、もう三ヶ月がところ前になる。
―――つまりは、あの光景を目撃してしまってから、もうそのくらい経つということだ。
ケンネルはその知らせを受け取った時、ありがたくちょうだいするよ、とは言ったが、それ以上のことは言わなかった。言ったのは、反対にテルミンの方だった。
こう言ったのだ、と彼は思い返す。
「俺は君を信じてるから」
嘘ばかりだ、とテルミンは思う。ケンネルはふうん、と煙草に火を付けながら、そういう訳ね、とつぶやいた。それ以上のことは何も言わなかった。ただその時、ケンネルはその煙草を最後まで吸い尽くした。
そしてその時、もう一つの研究をも政府の名で命じた。それをケンネルがあまり好いてはいないことをも知っての上だった。知っては居る。だが、必要なのだ。
だが。
テルミンはそこで時々思考を立ち止まらせる。
そんなものが、必要なことが起きると、俺は思うのだろうか。
自分のすることに間違いは無い、と思いたかった。完全では無いだろう。そんなものはこの世にはない。ただ、ある条件の中で、最も良い選択をすること。それが必要だとテルミンは思っていたし、その時々で、自分としては最良の選択をしてきたつもりだった。
頭を横に振る。考えるべきじゃない。一度選んだからには。「それ」は必要なのだ。何かが起こるから、じゃない。起こった時に、あくまで「備えて」だ。使わないで済むなら、それに越したことはないのだ。
ああ!
テルミンは再び自分の中で堂々巡りが始まったのに気付く。こんなことを、気付くといつの間にか考えてるのだ。それは止めようとして止まるものではない。そして、それまでだったら、それは一晩眠れば、とりあえずは意識の下に引っ込むはずだった。
テルミンは、ふと辺りを見渡すと、あの階段下へと足を進めていた。そこは、最初にスノウが自分をこの官邸の裏側に連れ込んだ時の入り口だった。
官邸の表側からそこに入るには、その階段下が一番判り易いところだった。
自分が何処に行こうとしているか、テルミンは気付いていた。壁を回し、薄暗い通路に足を進ませる。そしてその間には、自分が何故ここに居るのか、自分自身に説明していた。
「だって…」
テルミンはつぶやく。それがいつの間にか声になっていたことに、彼はなかなか気付かなかった。
「こんな急では… 次の手を打つための方策も… 考えなくちゃ…」
ひたひたと足音が、耳に届く。
「最近は… テロリストが… この首府に近づいてるんだ… その時の手だてを…」
ふらふら、と手にしていた明かりが、からん、と足元に落ちる。
足が止まる。
「違う」
からから、と口紅くらいの大きさの明かりが、足元を転がっていく。
「違うんだ」
テルミンははっきりとそう口に出すと、それまで足元をずっと見ていた顔を、不意に上げた。
「…俺は…」
彼は明かりもそのままに、見覚えのある場所の壁に手を掛けた。がたがた、と音を立てて、慣れた場所が目の前に現れる。昼間の光が、目に飛び込む。
痛、とつぶやくと、彼は手で目を隠す。急に飛び込んだ光が、目を刺激したのだ。
そっとサイドボードを元に戻すと、テルミンはふと、外側の部屋で声がするのに気付いた。彼がいつも出入りしていたここは、ベッドルームだった。彼はこの場所にしか用は無かった。毎晩の様に通って、眠りを貪るための場所だった。
しかし彼はそのまま、そっと足を忍ばせて次の間との戸口にと立ち、耳をそばだてる。聞き覚えのある声が、彼の耳に飛び込む。そしてもう一人、誰かが喋っている。誰だろう。それは彼には聞き覚えの無い声だった。
「…場所は」
それはスノウの声だった。誰かに何かを問いかけている。
「現在は、主立った所が、西のエンゲイから場所を移し、ハルゲウに集結しています。そこに中心たる組織『赤』、そして首府をはさんで、対称的な位置に、同盟組織『緑』と『藍』の共同戦線が近づいています」
「ふむ」
何のことだろう、とテルミンは眉を寄せる。色の名前のついた組織のことなら彼も聞いていた。しかし、そのことに関してスノウと話をしたことは無い。公的にも、私的にも。
「『朱』が見つかったということだが」
「はい。『赤』からの連絡で。しかし、記憶を失っております。如何致しましょう」
「記憶は能力とそう関わりはしないだろう」
「使えるものは使え、と」
「私はそこまでは言ってはいないよ」
くく、とスノウは喉で笑う。
「よし。とにかくそれはしばらくその位置でじっとさせておくがいい。理由は何でもいい。本番までは、役者はきちんと舞台裏で待っているべきだよ」
「判りました」
そして、正体の判らない声の男がその部屋から出ていく気配があった。
代わってテルミンの耳に飛び込んだのは、ぱたぱた、というトランクや引き出しを開閉する音だった。
テルミンはその音に混じって扉を開けた。スノウはその音に気付いて顔を上げた。
「君」
「あんた… 帰るのか?」
何から聞けばいいのか、彼には判らなかった。
「ああ」
「戻って来ない、つもりじゃないのか?」
ぱたん、とトランクを閉める音が、部屋に響く。
「何故そう思う? テルミン」
「…別に…」
ようやく彼はそんな言葉を絞り出す。唇がからからに乾いている。上手く言葉が出て来ない。
おいで、と相手は手招きをする。
彼はその手の示すままに、近づいていく。
あの時からそうだった。自分はこの手には逆らえない。正面に立った相手は、手を伸ばし、彼の顔を上げさせると、正面から見据えた。
「向こうの状況如何だ。それは先程総統閣下の前でも言ったはずだよ」
「向こう?」
「時々、我々にも召集がかかる。それは帝都政府の命だから、仕方が無いことだろう? その命がいつまで続くのか、は私が決めることではない」
「だけど、働き次第で早く戻ってくることも、できるんじゃないか?」
「君は、私が早く戻ってきた方がいいのかい?」
途端、かっ、と血が顔に上がるのをテルミンは感じていた。慌てて相手の手を振り解く。
この男の手の中に居たことは数え切れない。この男に囁かれたことも、数え切れない。だが、こんな風に、身体がそれだけで熱くなることは、無かった。
「君―――」
「…見るなよ…」
彼はばっと顔を覆った。だが相手はそんな彼の言い分など無視して、その手をすばやく捕らえた。止めてくれ、と彼はもがく。だが、振り続けるその顔は、力強い相手の手に、その色も引かぬままに、掴まえられた。
「君が、どうしてそう思うことがある?」
「離してくれよ! あんたが知ることじゃない! そんなことは俺の勝手だ!」
「君だけのことじゃあない」
あくまで冷静な、その声に、テルミンは急に腹が立つ自分を感じていた。相手が冷静になればなる程、自分の持つ理性は失われていく様に思われた。
「…君は、テルミン、私のことを好いている?」
う、と彼は自分の喉の奥からそんな音が出るのを感じた。とうとう聞かれた、と彼は思った。それは聞かれたくない問いだった。聞かれるはずが無い、と彼がずっと思っていた、そして思いたかった問いだった。
「そんな訳無いじゃないか…」
殊更に、声を軽くしよう、と努力する。
だけど、揺れている。それが自分でも判る。
自分が判るくらいなら、相手には、当然だろう。
「こっちを、ちゃんと見て」
スノウは少しでも視線を逸らそう逸らそうとするテルミンの顔を、く、と自分の方へ向ける。視界に、相手の顔が一杯に入る。
「私のことが、好きか?」
再び訊ねられる。胸が痛くなる。喉が詰まって、声が出ない。
駄目だ。
声が出ない。
そして彼は、真っ直ぐ腕を伸ばしていた。
「…君」
伸ばされた手が、相手の首に回る。テルミンはその腕に力を強く込める。声が出ない。でも。
判って、ほしい。
何でこんなことを、感じるのか、さっぱり判らない。だけど、どう仕様も無く、彼は今この瞬間、そうしたかった。この目の前の相手を、自分の腕できつくきつく、抱きしめていたかった。
相手の腕もまた、自分の背に回される。その力が強い。そして暖かい。
この相手の体温が、自分のそばから消えてしまうのが、たまらなく嫌だった。
ずっと、そばに、居て、ほしいのだ。
「…戻ってきて…」
きしむ喉の奥から、そんな言葉を、テルミンは吐き出す。
「お願いだから、戻ってきて。レーゲンボーゲンへ。…俺のとこへ」
そんな言葉が、自分の中から出るとは一度たりと思ったことが無かった。誰に対しても、そんなことは、無かった。あの総統閣下に自分が付けた男にしても、そんなことは、考えたことが無かった。
こんな、女々しいとも言える言葉を、誰かにすがる様な、弱い言葉を、自分が吐くなんて。
信じられない。だけど事実だ。目の前の事実には、目も耳もごまかせない。そう言っているのは、確かに自分なのだ。
心が、幾らごまかそうとしたところで、身体は正直なのだ。そうやって抱きしめ、抱きしめられる手の強さに、体温に、どうしようも無い心地よさを感じてしまっているのだ。
それはおそらく、権力よりも、とろける程に甘く。
口にしてしまうと、ずっと何か重く、自分の胸を圧迫していた何かがソーダ水の泡の様に、微かなしびれを喉元に残しながら溶けて消えていくのを彼は感じた。
ずっと、そう思っていたのだ。どうしてこの男の腕の中だと眠りにつくことができたのか。眠りは、疲れ果てる程の行為がもたらすものではないのだ。そんな風に自分自身を投げ出してしまった時に、無防備になった自分を放置しておいてもいい場所だったから、訪れるのだ。
最初からこの男の手は、その思惑がどうあれ、自分から余分な考えを起こすことから解放してくれていた。
思惑はあったろう。それがこの男の仕事なのだから。だが、自分にも、それを受け入れるだけの何かがあったのは確かなのだ。スノウはただそんな自分の背を押しただけに過ぎない。スノウが居なくても、テルミンはいつかそうしたかもしれない。そしてその時、彼は自滅していただろう。
戻るところまで彼の足取りを進めさせてしまったのは、確かにこの男だ。しかしテルミン自身、そこまで行く自分が見えていたのだ。
この男を呼び寄せたのは、結局は自分自身なのだ。
「戻ってくるよ」
スノウは彼の耳元で囁く。
「君が待っている以上、私は必ず」
「嘘」
「嘘じゃない。前から言っているだろう? 私は君に嘘をつく理由は無い」
「…」
「君が言うなら、スタジアムの新年の祝賀祭に間に合う様に努力しよう」
「俺が言うなら?」
「そう、君が言うなら」
「何で、俺なの?」
それはずっと聞きたかったことだった。この男は、自分よりずっと長い時間、この政治の真ん中において、駒の様に誰彼と動かしてきたはずだ。今だってそうだ。誰とこの男は話していた?
おそらくは、この星系全土に内乱を起こさせる種をあちこちに蒔き散らして。そしてそこにどんな目的があるのか。目を塞いだふりをしてきた。
「あんたには、もっとたくさん、そんな奴が居たはずだろう? 何で俺なの?」
「さあ」
スノウは、この男にしては、ひどく珍しく、曖昧な口調で答えた。
「それは、私にも判らない」
「珍しいね、あんたにしては」
「私とて人間だ。君とは種族が違う。だが人間だ。人間の心を持っているはずなのだ」
スノウ、と彼はつぶやいた。
「我々は、時々自分達が人間であることを疑う。気の遠くなる程の時間の中で、本当にそれを時々忘れそうになるのだ」
ああそうだ、とテルミンは思い出す。この男は、帝都の人間なのだ。
「天使種…」
「君達のそう呼ぶ種族は、そんな種族なのだよ。生きている時間の長さに、時々押し潰されそうになる。それを超越した世代でも無い限り、それはずっと、我々の心の中に、重くのし掛かる。君がこの手の中に居る。だけど、それは、私にとっては過ぎ去っていく時間のひとコマに過ぎない。いつか過ぎ去って行ってしまうのは、私ではない。君の方なのだ」
「あんたは…」
ふと身体を逸らす様にして、テルミンは相手の顔を見つめる。穏やかな表情。それは、どれだけ多くの人間が過ぎていくのを見つめてきたのだろう。
「だからそう思うべきでは、なかったというのに」
「…」
「君がいつか、過ぎ去っていくのは判っているというのに」
腰の辺りにずらされた手に力が籠もる。う、とその強い力に逸らされた背骨が音を立ててきしんだ。
「…だったら、連れて行って」
テルミンは思わずつぶやいていた。
「俺を、あんたの行く所へ連れていって」
「テルミン? …だが君は、総統閣下を置いていくことはできないだろう?」
テルミンは激しく首を横に振った。
「もういい。もういいんだ。彼には、ヘラさんにはケンネルが、俺の親友が居る。彼が総統閣下なんて役をもうしたくないというなら、俺はどんな画策をしたっていい。彼をその座から下ろしてやる。俺はただ、彼が、幸せになってくれたら、それだけで良かったんだ…」
「好きな訳ではなかった?」
「好きだった。どうしようもなく、好きだった。だけど、別に抱きしめたいとか抱きしめられたいと思った訳じゃない。ただ、その姿が、その姿にふさわしい所にあって欲しいと、そう思っただけなんだ。俺は触れたいと思ったことはない。触れられたいと思ったこともない。ただ、彼を」
言葉が途中で止められる。テルミンは目を伏せた。
「…彼が、誰かを求める瞳のまま、遠くを見ているのが、嫌だったんだ…」
「もしも、その誰か、が現れたら?」
「それで幸せになるなら、俺は、もういい。ここでもいい。ここが嫌なら、何処へでも、行けばいい。それで本当に、幸せになってくれるのなら。彼が誰に抱かれようが、それで幸せなら、俺は、いいんだ」
「私は、君のそういうところが、とても好きだよ」
「そんなところが?」
「…ああ、そうなんだ。私も、今気が付いたよ」
そういう自分を、そうだというのか。
だったら、迷うことは、無いのだ。
「お願いだ。俺を、連れて行って。あんたの行く場所へ」
テルミンは繰り返した。そしてスノウは。
「連れて行こう。ここでの仕事が、全て終わったら、君を、私の行く場所へ。必ず」




