2-1 ARK824.08/たぶん特別な邂逅
「わっ!」
両頬に衝撃。
思わずテルミンは目を覚ました。
痛いという程ではない。ただ、ひどい衝撃だった。耳にまでそれは響いた。
何ごと?! はっと目を開けると、そこには、ひどく大きな瞳があった。
見たことの無い少年が、そこには居た。少なくとも彼には少年に見えた。
それが自分の両頬に手を触れている。
「あ、生きてる」
「は?」
「こんなとこで寝たら駄目だよ」
ひどくのんびりとした声だった。あまりにものんびりとしていたので、テルミンは自分が一瞬何処に居るのか判らなくなった。
こんなとこ…… こんな所って。
彼はまだぼんやりしている頭を軽く振ると、必死で記憶をたどる。こんな事態は予測の外だ。
ああそうだ。
彼はようやく一つのことに思い当たる。そして思い当たったから、何となく恥ずかしくなって、ちっと舌打ちをした。
時間を間違えたのだ。
確かそうだったよな、とテルミンは自分自身に内心つぶやく。彼はその日、この場所に朝一番に来る様に、と新しい上官から命令を受けていた。
転属命令を受けたのは、三日前だった。それは同時に、昇官を意味していた。
前年に予想した通り、彼は首府警備隊での日々の勤務態度、また前年に起きた都市ゲリラの割り出しと清掃を兼ねた作戦における働きによって、大尉から少佐へと昇官することになっていた。
そしてこの八月の恒例の配置変更時期に、それまでの警備隊勤務から、少佐として正式に、今度の場所へと転属を命じられた。
栄転だった。だからいつもより早起きをしたのだ。そこに行くには、敬意を払う必要があるだろう。何せ今度の配属先は、首相官邸なのだから。
彼は格別、現在の首相に好意を抱いてはいない。だがある程度の敬意はある。
現在のレーゲンボーゲンの首府政府の首相、エーリヒ・ゲオルギイが政権を取ってから十五年。権力は奪取することより、維持することの方が難しい。この維持できる能力に対する敬意である。
十五年。まだ若い彼には、長い年月だ。首相がその座についた時、テルミンはまだ初等学校のガキに過ぎなかった。子供時代、そして青春。人生で一番長く感じる時期を、首相はずっとその座についていたのだ。
……長い。
つらつらとそんなことを思いながら、彼は石造りの、重厚だが、それ以外の何ものでもない首相官邸に足を踏み入れた。
天井が高い。入った瞬間感じた。そして廊下が長い。
命じられた部屋の前にたどり着くまでに、彼はひどく自分が長い距離を歩いた様な気がした。
だが時間になっても、上官は現れない。扉には鍵が掛かっていて、入ることもできない。
変だな、とさすがに彼も思った。そして改めて時計を見てみると、一時間早く自分が来ていることにやっと気付くことができた。
心配症の彼は、普段なら目覚ましが無くとも起きられる。それは良いが、どうやら時計の針を一時間間違えて読んでしまっていたらしい。
しまったとは思ったが仕方がない。とにかく彼は上官を待つことにした。
人気は無かった。あちこちに当直の兵士が居ても良いはずなのに、その一角には、不思議なくらいに気配がまるで無かった。
音一つしないその静けさに、彼はついつい眠気をもよおした。……その瞬間まで。
……慌てて彼は少年の手を外し、伸ばした腕の分だけ、距離を置いた。
と同時に視界に入ったものに、心臓がぽん、と飛び跳ねるのを感じた。
「き、君、何って格好……」
「あぁん?」
彼の動揺に気付いているのかいないのか、大きな焦げ茶の目を細め、ひどく気だるそうに、少年は長い前髪をかき分ける。
「何あんた…… どうかしたの?」
どうかしたもこうしたも。頭の中に蜂が一気に飛び交う様な感触。大混乱。
何せこの目の前の少年の格好は、およそこの首相官邸という場所には似つかわしくなかった。
長く伸ばした髪はゆらゆらと揺れ、上半身には無造作に素肌に羽織っただけのシャツ。ボタンは真ん中の一つしかはめられていない。すき間から白い肌と乳首が見え隠れする。
通しただけの袖は無論ボタンなど何処へやら、無造作に引き上げているだけだから、逆にその細い腕の細さが際立つ。
下にしても。一応履いてはいるが、落ちない理由が判らないくらい、黒い細身のズボンはボタンもジッパーも開けられていた。
目のやり場に困って、テルミンは視線を逸らしながら、少年のシャツのボタンを一つ二つとはめてやる。
「何してんの」
「……ここでこんな格好してるなんて、良くないよ」
少年はその彼の態度に、軽く肩をすくめた。むすっと不機嫌そうに閉じていた唇が、一瞬おかしそうにぐっと突き出された。
「……ああ、もしかして、あんた俺のこと、知らないの?」
「知らない? って何が」
「はあ。そうなんだ」
直されたボタンの前で腕を組んで、少年は納得した様にうなづいた。一体何だというのか。さっぱりテルミンには判らなかった。
そんな彼の様子を目を細めて面白そうに見つつ、少年は「じゃあまたね」と手を上げ、官邸の奥へと入って行った。
「ちょっと待てよ、君、そこは……」
「いいのいいの」
そして少年は振り向きもせず、ひらひらと手を振った。
何なんだあれは。その時彼テルミンは思った。
と同時に、奇妙に心臓の鼓動が早くなっていることに、その時ようやく気付いた。
再度思い返す。何だったんだあれは。
少年だよな、ととりあえず事実を頭の中で繰り返す。少年だったはずだ。だって、胸が無かった。
だが彼は、その直後、その自分の考え方に驚いた。
「胸が無い」から少年、ということは、一体自分の目にはあれは何に見えたのだろう?
目の裏に、白い肌と、服のすき間から見えたうす茶色の小さな乳首が焼き付いている。
だが何故そんなものがちらつくのか、彼にはよく判らなかった。
確かに綺麗だった、とは、思う。
大きな焦げ茶の瞳は、くっきりと二重で、彫りも深い。高い天井から落ちる弱い光のせいで、陰影も濃く帯びていた。
そう、綺麗だったよな。彼は改めて考える。
だけど、何でそんなものが、ここに居るんだろう?
そうこう考えているうちに、足音を響かせて、手を上げる佐官の姿を彼は認めた。途端に彼は直立不動の体勢になる。
「やあ、早いな。君がテルミン少佐か」
「お初にお目に掛かります、アンハルト大佐」
「僕も早く来たつもりだったが…… 君はもっと早かったようだな?」
アンハルト大佐は、扉の鍵を開けながらテルミンに訊ねた。
「……お恥ずかしい話ですが、時間を間違えまして……」
「へ?」
鳩が豆鉄砲を食らった様な顔で大佐は振り向いた。
「何、君…… もしかして、一時間も早く来たのか?」
「……はい」
その途端、アンハルト大佐はぷっ、と吹き出した。しかもそれに留まらず、大佐はそのまましばらく笑い続けていた。テルミンはさすがにむっとする自分を感じていた。
「や、済まない済まない。いや実は、今度来る少佐はずいぶんと真面目だ、とは聞いていたんだが」
「……お誉めに預かって恐縮です」
「そんな悪く取るなよ、テルミン少佐。僕は誉めてるんだよ? お、またやってしまった」
ばり、と何やら耳慣れない音がテルミンの耳に届いた。何だろう、と彼が思っていると、大佐は振り向き、黒い手袋に包まれた手を開いた。
は? と彼はそれを見て目をむいた。
「た、大佐…… これは…… 」
「だから、これ」
肩をすくめながら、アンハルト大佐は開けようとした扉を指した。ノブの分だけ、穴が開いていた。
「いや、義手の調子が時々狂うんだ。なのに僕はかなりの粗忽者でね」
「義手…… なんですか」
「ちょっとばかり昔、無茶をしてしまってね」
そしてくす、と笑ってみせる。
ああそうだ。時々こういう者が居るのだ。自分と五、六歳違うか違わないか、という年齢で大佐という地位に居るなら、それなりの功績を上げているはずで、それにはある程度の代償が必要だったのだろう。
それはそう珍しいことではない。任務の中で何らかの理由で身体の一部を欠損した者は、義手義足義眼といったメカニクルで補助する。時には、全身が義体化されている者も居る。外見年齢がいつまでも変わらないらしい。そう、まるで帝都政府に鎮座まします皇族や血族のように。
「すみません」
だがとりあえず彼は、素直に頭を下げる。
「いやいいよ。別にもう長いつき合いだし。だけど君、まあだから僕がこんな粗忽者だから、よく補佐してくれないと困るよ。ドアだったらいいけど、これが…… ね」
いい人だ、と彼は思う。もしくは、いい人を恒常的に演じることができる。
いずれにせよ、この今度の上官は実に有能であるだろうことは、テルミンには容易に想像ができた。だから彼は、期待されている答えを返した。
「判りました。私にできることでしたら。とりあえずは、その扉の修理は如何致しましょう?」
「君、できるのか?」
「一応」
それは便利だ、と大佐は声を上げて笑った。そしてその笑いがあまりにも自然だったので、彼もまた、気が緩んだのかもしれなかった。
「ところで大佐、お聞きしたいのですが……」
「何だ」
「ここには首相閣下のご家族がお住まいなのですか?」
「いや? 何だそんなことも予習していないのか?」
「いえ、そうではないのですが、先程、一人の少年をここで見かけまして」
するとそれまで晴れやかな笑いを顔中に浮かべていた大佐の表情が凍り付いた。
「そのことは、誰かに言ったか?」
「いいえ、その少年を見た直後です。大佐がいらしたのは」
ならいい、と言いながら、アンハルト大佐はかなり大げさに眉を寄せた。そして壊れたノブを手に持ったまま、胸の前で腕を組んだ。
「いいか、少佐、彼には構うなよ。もしこの先出会うことがあったとしても。……いや、出会うとは思う」
「は? ではご家族なのですか?」
「家族、と言うには語弊がある。まあいい。我々は任務だからな」
「はあ」
言い渋る様なことなのか、とテルミンは曖昧な返事を口にしながら思う。
「あれは、閣下の愛人だ」
「あいじん?」
ちょっと待て、と彼は目を瞬かせる。だってあれは少年じゃないか。
彼の記憶の中では、首相には確か妻子が居たはずだった。ただ、その家族は、首府には住んでいないはずだった。
いや住んでいるいないはどうでもいい。妻子が居る男が、少年を囲っているというのか?
確かに綺麗だったけど。
「それに少年、ではない。テルミン少佐、君とそう変わらない歳だと聞いている」
「まさか」
「まさかと君が思うのも無理は無い。だが閣下がそう言われた。名はヘラ。少なくとも閣下はそう呼ばれる。姓は我々も知らない。何処の出身なのか、どんな経緯で閣下のお側に居るのかは我々もさっぱり判らない」
「は…… あ」
「閣下も聞かれることを好まない。だが警備は必要だ、ということだ」
「……はあ……」
テルミンは、そんな気の抜けた声しか出せない自分に驚いていた。