16-1 「オマエなんか失敗すればいいんだ」
工場のサイレンが鳴る。
くすんだ青の帽子を取って、おさまりの悪い金髪をかき回しながら、リタリットは凝った肩を煩そうに上下させる。
「あれ何、今日もお前の相棒休み?」
油やほこりにまみれた手を、洗い場で流している男がその様子を見て言う。
「ああ」
「いー加減来ないと、上の連中もうるさいぜ? そりゃまあ、休暇届は出てるだろうが…」
「判ってるよ。ゆっとく」
そう言って、リタリットは腰のポケットに入れたタオルを首に掛けて、洗い場で顔を流す。そばにあった安物の石鹸で泡を思い切り立てて、一気に顔につけ、それをまた、勢いよく出した水で流す。髪から水が滴り落ちる。ぶるん、と首を振る。水滴が跳ねる。
だらだらと起こした顔の上を流れる水の感触は、何かを思い起こさせる。
呑まないか、という同僚の誘いを止めとくよ、と軽くかわし、彼はタオルで顔を拭くと、それを首に掛けたまま、部屋へと足を進めた。まだ水滴はその髪の端からぽたぽたと流れている。
町の中を縦横に走るトロリーに乗り込んで、コインを入り口の代金箱に放り込む。ことん、と音がしてコインが吸い込まれていく。
疲れているから空いた席に座り込んでいたら、二つか三つの停車場を過ぎたところで、荷物と子供を抱きかかえた華奢な女性が入ってきた。
既に車中は混み合っていた。どう見てもこの時間帯、工場にしろ何処にしろ、帰路につく労働者ばかりで、自分が疲れているというのにそんな女性に席を空ける者はいなかった。
彼は困ったな、と聞こえない程度の声でつぶやいた。母親らしい女は子供を右手に抱えたまま、左手に荷物をぶら下げて、細い脚で、ぐらぐらと揺れる車内で必死でバランスを崩さないようにしていた。
と。
「あ」
思わず彼は両手を出していた。重みが、次の瞬間、その上にかかり、反射的に目を細める。結構食料品というものが重いのだ。
女の下げていた袋の持ち手が、重みに耐えかねて、切れたのだ。女ははっと気付いて、リタリットの方を見る。その視線はひどく複雑なものだった。
どうしましょう、と何するの、が入り交じっている。
しかし、何するの、ではまずい。
とっさに彼は荷物を抱えたまま、立ち上がった。そして女の抱いている子供の頭を撫でて、ば~と顔を歪めてみせる。子供はきゃはははは、と笑う。母親はあっけに取られてそっちに視線を寄せる。
そしてその時を狙った様に、彼は母親を自分の座っていた席に座らせ、その膝に荷物を置いた。切れた持ち手をきゅ、と鮮やかな手つきで結ぶ。
「あ、あの…」
母親は何かを言おうとする。だがリタリットは聞かないふりをする。そしてさっさと出口の方へ向かうと、次の停車場で降りた。
念のために言っておくが、そこが目的の停車場ではない。
またやっちまったなあ、と降りたあとで彼はふう、とため息をつく。どうしてこうも、ああいうものに弱いのか、自分自身でも説明がつかないのだ。
次のトロリーを意味も無く彼は待つ。オレ一体何やってるんだろーな、と小さくつぶやく。
BPはまだ戻って来ない。
*
「帰る?」
とその時BPは言った。正直言って、彼には相棒の言葉の意味がよく判らなかった。
「そ。オレ帰る。オマエ一人で計画に参加でも何でもして」
泊めてもらっていたヘッド達の部屋で、計画についてのミーティングから戻ってきた時、目の前の相棒は、確かに荷をまとめていた。荷と言ったところで決して多くは無い。リュックサック一つにまとまる程度だ。
「いー加減帰らないと、仕事無くなるしさあ」
「それはそうだけど…」
BPは扉の前で、次にどう動いたらいいのか迷った。明らかに、この相棒は、何かに怒っているのだ。だがその怒りが何に向けられているのか、彼にはよく判らなかった。
確かに自分は、「赤」の設定した「総統暗殺計画」に参加することを口にした。その成功するかどうか、が問われない計画への参加に、この相棒がひどく反対していることも知っていた。だが、かと言って、いきなりこういう行動に出るとは思ってもみなかった。
「ちょっと待てよ」
「どけよ」
扉の前で、BPは出口を塞ぐ。リタリットはぐい、と彼の目の前に迫る。
「オレは帰るんだからな? オマエにぐだぐだ言われたく無い」
「帰るのはお前の自由だよ? だけど何で今いきなり」
「言ったじゃんか。仕事がフイになる」
「それはでも、あそこに居るための方便ということで」
「そんなコトは判ってるよ」
じゃあ何故、とBPは問い返したかった。だが問い返す前に、相棒の手が、彼の胸ぐらを掴んでいた。そして、それをいきなり前に突き飛ばした。
ばん、と不意の行動に、BPは背中を扉にしたたかぶつけてしまい、思わずせき込んだ。
「ったく… 何怒ってるんだよ」
「オレは怒ってない」
「その行動の何処が怒ってないって言うんだよ?!」
BPは激しい口調で問い返した。
「言いたいことがあるならちゃんと言えよ!」
「気にくわないんだよ!」
「何がだよ!」
「あいつらが、だよ!」
気にくわない。それはリタリットが動く時のひどく簡単で、そして、大事な基準だということは、BPも良く知っていた。それはあくまで直感的なものである時もあるし、単純に虫が好かない、とか言うものであることも多かった。だけど大概は、それはいい方に転んだのだ。
だが。
BPは内心つぶやく。だったらどうして、お前、目を逸らすんだよ、と。
いつだって、この相棒の真っ直ぐで単純な言葉は、自分の方を見て吐かれたはずだった。
「…だけど、それだけじゃ、今回は」
「今回もクソもあるかよ? オマエあっちからもこっちからもいい様に使われるだけってことじゃねえの? オマエが失敗して捕まっても、無謀な計画に参加したバカが悪いってことにされておしまいだぜえ?」
「だから何だって、俺が失敗する、って決めつけるんだよ」
「お前が失敗するからだよ」
「俺は失敗しない」
「だったらお前、あのヘラを、偉大なる総統閣下さまさまを殺せる、って言うのかよ? オマエの中にずっと居るあの顔を。あの顔したオマエの元相棒を、その手で、殺せるって言うのかよ? オレは認めないね。オマエは奴を殺せない。殺さないよ。そして失敗するんだ。失敗しちまえ」
「お前それは…」
「オマエなんか、失敗すればいいんだ」
そう言って、リタリットは彼を突き飛ばして、部屋から出て行った。
ああ、そうだよな。
BPは思う。
失敗するということは、彼が自分の相棒を殺せないということだった。それが記憶を無くしても、それが自分自身にとって、大切な者だったとしたら、それは絶対に。
そしてそれが、自分だったらどうするんだ、とリタリットは彼に問いかけていたのだ。あれから、ずっと。話す訳でもなく、触れる訳でもなく。だけどずっと、その行動で、瞳で、彼にずっと訴えていたのだ。
ヘラを殺すな、という意味ではない。相棒という名を付けた相手を殺さないでくれ、と。
自分を、見捨てないでくれ、と。
判ってはいるのだ。彼もまた。だが、何らかの形で、自分の中で、どうしても確かめたいことがあるのだ。それは誰かに言われたからどうする、という類のものではないのだ。身勝手だとは思う。だが、その身勝手を、どうしてもこの件についてだけは、通したかった。
相棒は馬鹿に見せることはあっても、馬鹿ではない。BPは長いつきあいの中で知っていた。リタリットは、相手が自分を馬鹿扱いしたい時には、そうさせてやるためにそんな態度を取るのだ。素顔は、その下にいつも隠れている。
触れる服の下の体温、泣き出しそうな顔、抱きしめる手の強さ、強烈な欲望、そんなものを自分一人にだけ向けて、他のものには用が無い。
端から見れば重荷になりそうな性格だが、どうも自分にとってはそうではないことを彼は知っていた。そのくらいされた方が自分のぼんやりとした性格に向いていることを。
あの総統ヘラが、自分の相棒だったとしたなら。BPは思う。やっぱりそういう性格だったというのだろうか? 彼は首を横に振る。
ああそうだ。彼はつぶやく。
違うことを証明したくて行くのだ、と。そう言えば良かった、と彼はつぶやいた。
*
結局なかなか次のトロリーが来ないことに苛立って、リタリットは次の次の停車場が一番近い自分の部屋まで歩いてしまった。無論その横を、やがてトロリーが追い越してしまったのは言うまでもない。
こんなことは幾度かあった。だけどそのたびに、横には相棒が居たから、家路はそう長いものには感じなかった。疲れて話すことも無い時でも、何となく、居るだけで良かったのだ。
しかし、何故自分がBPに対してそう思ってしまうのか、判らない様な所が彼にはあった。直感だと言ってしまえば、それで終わる。直感だった。直感に過ぎない。
最初にあの房で、マーチ・ラビットとやり合っているのを見た時に、何も考えること無く、欲しいと思った。その自分の感情には、従うべきだ、とリタリットはその時思った。間違っていなかった、と後になってからはずっと思っている。
何が自分をそうさせるのかは判らない。だが、背中を押すのだ。何か、が。
それが自分の失った記憶から来るものなのかも判らない。おそらくはそうだろう、ということは認めている。
ではその失った記憶は、どうして。
あの「赤」の代表ウトホフトは、失った過去がBPの背中を押すのだ、という意味のことを言っていた。そうだとしたら、自分が自分の直感でBPを欲しいと思ったと同じ様に、自分は相棒が総統ヘラと対峙したい、と思ったということは認めなくてはならない。認めるべきなのだ。
だが、嫌なのだ。それだけなのだ。
BPが、自分の手の中から居なくなるのが、どうしても、嫌なのだ。
ふう、とため息をつきながら、リタリットはアパートに入る。
疲れと、堂々巡りの考えが、ずっと身体から離れなかった。そんな時には、さっさと食事をしてさっさと眠ってしまうしかない。眠れば、それでも朝が来る。次の朝が来て、また工場にでも出向けば、何も考えずに仕事をしていられる。
そんなことを考えながら、自分達の部屋のある三階の廊下にたどり着いた時だった。あれ、と彼は思わずつぶやいた。誰かが自分達の部屋の前に座り込んでいる。ポケットに手を突っ込む。その中には相変わらず何かしら入っている。敵だとしたら、すぐに攻撃ができる様に。
「アンタ… うちに何の用?」
座り込んでいるのは、何やら大きな荷物を横に置いた男だった。しかし反応が無い。おい、とリタリットは大声を出した。よく通る声が、廊下中に響く。はっ、と男は顔を上げた。そして次の瞬間、ひどくびっくりした様に、目を大きく開けた。
「…何だよ寝てたんかよ… 人騒がせな。何の様だよ。オレ眠いのよ。ウチに用件あるならさっさと言いやがれなんだよ」
「あ、あんた、リタリットさんだよね」
慌てて男は立ち上がる。その拍子に、荷物がバランスを崩して倒れる。妙にぼこぼこした袋だなあ、と見ていた彼はその中身が金属系のものであることに気付いた。
「そうだけど?」
「俺、ヘルシュル・リルって言います。あんたの友達から、伝言を預かってきたから」
「友達?」
そう聞くと、彼は扉を開けた。それ一つで信用した訳ではない。だが、廊下でする話ではない。ただでさえ自分の声は大気を震わすのだ。雨が近い日など、耳が敏感な仲間の一人はお前の声は響きすぎるんだちょっと黙れ、とよく言われたものだった。




