11-1 ゾフィーは気付いてしまう
がちゃがちゃ、と何かが落ちる音がした。彼女は眉をひそめた。続いてどーん、と何かが倒れる音。彼女は手にしていたリモコンを床に置いた。
「どうしたの!」
廊下で機材のチェックをしていたゾフィーは、音のしたビデオルームの中へと飛び込んだ。入ってみて彼女は呆れた。スタッフの青年が、どうやら棚を倒してしまったらしい。
「あ、す、すいません…」
「すいませんじゃなくて、あなた、ケガしなかった?」
「や、ケガは… あ、そー言えば、あらら」
持ち上げた左の腕の裏側がひどく擦れていた。
「そう言えば、痛いです…」
「そう言えばじゃないわよ! こっちいらっしゃいこっち」
「だけどビデオが…」
「あなたのケガ手当している間に壊れる様なものだったら、とっくの昔に壊れているわよ! ほら!」
そう言ってゾフィーは、ぐずぐずしている青年の手を引っ張って、そのまま最寄りの事務所へと入って行った。
格別医務室などある訳ではないこの放送局では、事務所ごとに救急箱が備え付けてある。スダジオによっては、突然昏倒する俳優や素人のために、担架が置いてある場合もある。もっとも、この中央放送局の隣は病院なのだから、いちいちそんなものを作らないともいい、とも言えた。
しかし擦り傷切り傷くらいは自分で手当したほうが早い。
「はい腕を出して」
「大丈夫ですってば…」
「あなたは良くても、見てるほうが痛いのよ! それに、あちこちに血がつくってのも見られたもんじゃないでしょ!」
「は、はあ…」
素直にその青年はうなづく。ゾフィーはその様子を見ながらふう、とため息をつく。
「…別に取って食おうっていう訳じゃないから、そんな顔しないでよ」
「あ、すいません…でも、ほら、レベカさんはやっぱり、何か…」
「何かって何よ」
「だから、あの… 才能あるひとだから…」
彼女は消毒薬をガーゼに取ると、傷の上を撫でる。青年の顔が大きく歪み、ひ、と声が上がった。
「才能じゃないわよ」
「でも」
「才能だけで人間やっていけたら苦労は無いわよ」
彼女はそう言って言葉を止めた。政府対応の役についてから三年。その間、決して平坦な道を歩んできた訳ではない。その役についてからも、常にそこを追われる危険はあったのだ。
ただ、追う側が疲れた、ということはあっただろう。そのくらい、この三年間に政府関係で起きた物事は多かった。何度か起きたテロの時には、彼女自身、軽いカメラをかついで奥の奥まで出かけたものだった。放送用端末では大した映像にはならない。
結果、彼女の印象は、最近この放送局に入ってきた者にとっては、「怖い」ものになる。女だてらに、成り上がってきた、と。
「…でも、俺、レベカさんの特番『砂のゆくえ』見ました」
「え?」
それは、二年前に彼女が政府絡みではなく製作を指揮した数少ない作品の一つだった。現在の西の辺境に住む独特の文化を持った種族をテーマに作られたそれは、彼女の作品の中では、決して目立つものではない。
忙しい政府関係の仕事の合間を縫って製作されたその作品は、決して評判が高いものではなかった。
「あと『残光』と」
「…マニアックねえ」
「でも、俺、あの作品が凄く好きだったんです」
彼女は手と、言葉を止めた。そして目を丸くして目の前の青年の顔を見る。何やら赤くなっている様にも見える。
「ああいうのは、もう作らないんすか? 俺、あれ見てこの放送局に入ろうって思ったんすけど」
「口が上手いね、青年」
「青年じゃないですよ、レベカさん。俺、ちゃんと、名前あるんすから」
「ふうん? 何って?」
彼女はやや上目づかいに訊ねた。
「ヘルシュル・リルです」
ふうん、とゾフィーは言いながら、リルの腕に包帯を巻いた。
*
「あの、レベカさん、忙しいんではないんすか?」
「忙しいわよ」
そう言いながらゾフィーは手を動かしていた。このリル青年の落として散らしてしまったビデオ・ブロックの山を、その背に書かれている日付ごとに分類するのである。
「だけどこういうものが、いきなり必要になる場合だってあるのよ。今は時間あるから、無駄口叩く前にさっさとやった方が早いわ」
「はあ…」
うなづくと、リルも黙って手を動かし始めた。だがさすがにお互いに黙って作業をするというのは、どちらの性にも合わなかったらしい。耐えきれなくなったのは、ゾフィーが先だった。
「ねえ、あなた一体何でこんなに落としてしまったのよ」
「捜し物、してたんす」
「捜し物?」
「トッパーさんから、今度の特番用の『材料』探してこいって言われてるんすよ」
「トッパーが? ああ…じゃ、あれね。『前首相の功績』みたいの。何って言ったかしら? タイトルは」
「さあ、俺はそこまでは」
「何、マニアックじゃあなかったの?」
「別に、キョーミあるものならともかく」
そう言いながら、リルは見つけた年代ごとにブロックを積み上げていく。ビデオ・ブロックは3センチ立方の黒いプラスチックでできている。ゾフィーはリルに背を向ける形で、同じ年代のブロックを手に盛り上げて、元あった棚の、その年代の書かれている場所に積んでいった。
「この管理の方法にも問題があるわ。せめて色違いを買えって言うのよ!」
「御言葉ですが、レベカさん、このブロックは、黒しかないんです」
「じゃメーカーが悪いわ」
彼女はきっぱりと言う。
「で、見つかったの? その過去の映像」
「それ自体は、見つけるのは簡単すよ? 特に、現在の総統閣下が側近としてつかれるようになってからのはすごく多いし。だけど、昔の映像ってのが少なくて」
「昔の。首相になってから、じゃなくて?」
「や、首相になってからでも、なんすが、ある時期のがすっぽり抜けてるんすよね」
「抜けて?」
「だから、その部分をちゃんと調べようってこと言われたんすが…」
それはゾフィーにとっても初耳だった。
「いつ? 具体的に言うと」
「えーと。前の首相が亡くなったのが、今から三年前すよね。その五年前ってとこっすか。その一年間くらいの映像が極端に少ないんすよ。まあその時期、政府も落ち着いていた、ってこともあるわけっしょーが」
「…すると今から、八年前ってとこ?」
「ひいふう… そうすね、八年前」
「その出なくなる前と、後で何か違いがある?」
「違い?」
リルはふい、とゾフィーの方を向いた。そしてああ、と大きく首を前に振る。
「…あることはあるんすが… 何っぇばいいんでしょ?」
「そんな、微妙?」
「微妙… じゃないんすが、何っか俺にはイマイチ言葉には」
そしてんー、と腕を組む。
「ボキャブラリイの貧困! 頭使わないと馬鹿になるわよ!」
「あ、もう俺とっくにそーっすから」
は、とゾフィーは肩をすくめた。するとリルはざっくりと切っただけの様な耳よりやや下の髪を揺らせて笑った。
「…じゃあもっとスピードアップして。あたしも見たいわ。それ」
「レベカさんが?」
「これはただの興味よ」
あ、と小さく声を立てて、リルは笑った。
だがそれから、整頓が一段落つくまで、約一時間半を要した。ゾフィーは時計を見ると、いけない、とつぶやいた。
「あたしちょっと打ち合わせがあるから、あなたここで待ってなさい、いいわね?」
「ちょ、あの、レベカさん」
「いいわね!」
はあ、と残されたリルはうなづくしかなかった。そしてふう、と息をつくと、ピックアップしておいたブロックを更に年代別に積み上げた。
積み上げられたブロックは、露骨に年代によって高さが違う。前首相がその地位に居た18年間。じゅうはちねんか、とリルはそのブロックを眺めながらつぶやく。そして暗殺されてから三年。合わせて21年。それはちょうどこの青年の生きてきた年数と同じだった。
*
ああ遅くなった、とばたばたと音を立てながらゾフィーがその部屋に戻ってきたのは、もう深夜に掛かっていた。夜食のローストビーフのサンドイッチと、パッケージドリンクを紙袋に入れて彼女は扉を開けた。
廊下の暗さに慣れた目に、中の灯りはひどく明るかった。そしてその明るい部屋の真ん中で、青年はデスクに突っ伏して眠っていた。モニターからは波の音が延々流れていた。
彼女はその安らかな眠りを貪っている青年に近づき、夜食をデスクの上に置くと、平手で後頭部をはたいた。青年は弾かれた様に飛び起きた。
「は」
リルは何ごとが起きたか、と慌ててあちこちにと首と目を動かす。そしてようやく事態を把握すると、そおっと後ろを向いた。
「実に良く寝てたね、青年」
「俺、だから、リルって名前が」
「そういうのは、ちゃんと起きて待ってた時に言うんだよ? ま、でもお腹空いたでしょ。食べない?」
「あ、これ」
「無論あたしのも入ってるからね」
「あ、じゃ、一緒に食べようと」
彼女は首をひねる。
「そう言えばそういうことになるのかな?」
「そう言えばじゃなくても、そういうことじゃないすかあ」
「そこに意志があるのかどうかは、ずいぶんな違いなのだよ? 青年」
「リルですよお」
彼女はにやり、と笑いながら紙袋の中からパックとサンドイッチのつつみを取り出した。
「角の店のですね? 俺好き」
「全部食わないでよ。あたしもお腹空いてるんだから」
「今までずっと仕事だったんすか?」
「そーよ仕事。明日の政見放送の打ち合わせ」
「って言うと、テルミン宣伝相じきじきに」
「まあね」
凄いなあ、と彼は大きくうなづく。
「あなたね、そうは言うけど」
ゾフィーは言いかけて言葉を切った。そしてパックのコーヒーに穴を空ける。
「それより、さっきの話の続きをしましょ。とりあえずあたしも映像、見たいわ。出してくれない?」
はい、と素直にうなづくと、リルは年代ごとに積み上げたビデオ・ブロックを指して、いつからにしますか、と訊ねた。
「最近のはいいわ。古いのから適当に見せてちょうだい」
「はい」
そしてリルはブロックを再生装置に入れた。
「これが最初ですね」
「まだ若いわね」
「そりゃあ、20年も昔ですから」
実際、画面の中のゲオルギイ首相は、それまでの政治家の中でもその座についたのは若い方だった。当時まだ三十代だったと彼女は記憶している。
現在の「総統」は別だ。正当な手段でその地位を手に入れた「政治家」として、確かにゲオルギイ氏は相当優れた人物であったということらしい。
「それでも最初は、ごくごく普通の、政見演説であったり、ニュースにおける議会の様子とかそんなものばかりです」
「ふうん。それだけではなくなったっていうの?」
「氏の任期が長くなるにつれて、ゲオルギイ氏自身に関する報道も多くなりました。これなんかいい例すよね」
「あら」
ゾフィーは思わず声を立てた。
「可愛いじゃない」
そこには、ゲオルギイ氏がまだほんの少女である娘と一緒にピアノを弾いている映像があった。広い、光がいっぱいに入る様な邸宅の中で、二人は明るく笑っている。
「あら、娘さんは首相とは髪の色が違うのね」
画面の中の少女は、赤みがきついブラウンの髪をしていた。大きなウェーブがついた髪に、オリーブ色の大きなリボンをして、同じ色のワンピースを着ている。ゾフィーはそれを見ながらサンドイッチを大きく噛みしめた。みずみずしいレタスのしゃく、という音と共に、こくのあるローストビーフの味が口いっぱいに広がった。
「前首相のお嬢さんは、奥さん似なんすよ」
「へえ。…あれ、ゲオルギイ氏って、お嬢さんだけだったっけ?」
「や、そうではないんでしょうが…」
えーと、と言いながら彼は別のブロックを取り出す。
「息子も居たらしいんすが」
「らしい?」
「何っか資料調べても、そのへん曖昧で」
「曖昧? 何それ」
「いや、途中までは、確実に『居る』んす。だけど、途中から急に『居ない』ように見えるんすよ」
そう言いながら、リルは一つのブロックを入れる。やはり先程と同じ様な、邸宅が映る。
「えーと。やっぱり基本的には、お嬢さんのほうがよく映し出されてますよね」
「そうよね」
彼女はうなづきながら、パックのコーヒーをすする。
「ですがこの時は、後ろにそれ以外の家族も映っているんですよ。ほら、これっす」
そう言って、彼は画面の右の隅をクローズアップさせる。
「これは、夫人? …と…」
やや粒子の荒くなった画像の中で、赤毛の女性と、そのそばで何やら居心地悪そうに、しょうもなく付き合わされている、という様子でふてくされて歩いている金髪の少年が、そこには居た。
「どうもこれが息子らしいんすよね。ただし、こっちのほうが、お嬢さんよりは上っす」
「あら、なのに息子はこうなの?」
「そうなんすよね…」
リルは画像を元に戻す。そしてフェイドアウト。
「どうも首相は、この息子をあまり我々のよーなマスコミ屋の前には出したくなかった様なんす。…ってまあ、俺もこれ見たり、資料見て思ったんすが… どーもこの息子、素行があまり良くなかったようす」
「あらら」
ゾフィーは思わず声を立てる。
「ぜーたくなガキね! 食うに困らない生活なのにグレてたった訳?」
「や、それはちょっと… 結構食うに困るガキのほうがグレなかったりしませんか? …って言うとまたこれもか。つーか、何か性に合わないウチに生まれたら、ちょっとかわいそっすね」
「あら、優しいのね?」
「や、無責任なんすよ」
あっさりとリルは言う。
「ま、色々なとこがありますからねえ。頭はいいガキだったよーですが」
「そうなの?」
「ちゃあんと、中央大学にはパスしてるんすよ。それも正規の試験で」
「…そりゃすごいわ。あたしの兄貴もそこに行ってたんだけど、結構頭いい兄貴だったんだけど、それでも一回落ちてるのよ」
「あ、お兄さんがいらしたんすか?」
「もう死んだけどね」
あ、とリルは声を立てて、すぐにごめんなさい、と付け足した。
「いーのよ別に。もうずっと昔のことだから。…で、その素行が悪いけど頭はいい息子が中央大学にパスしたっていうのはニュースにはなっていないの?」
「残念ながら、その辺りはもう、出て来ないんすよ、家族は」
「そうなの?」
「ちょうど、そのちょっと前あたりすか? えーと…」
あったあった、とラベルの日付を見ながらリルはつぶやく。
「お嬢さんの中等学校入学、くらいですかね。『楽しい我が家』な図は」
「見せて」
ごくん、と彼女はサンドイッチの最後の一片を飲み込んだ。
画面には、再び邸宅が映し出される。今度は庭だった。それはあの官邸とよく似ていたが、違った。
「そう言えば、結局家族の人達は、官邸には住まなかったんだわね」
ゾフィーはつぶやく。そしてようやく手が空き、サンドイッチを口に頬張ったリルは、それに対してうなづく。
「首府の近くの市に住んでたとか。今でもそこには夫人は住んでるんではないすかねえ」
「お嬢さんは?」
「とっくの昔に結婚して出てったんじゃないすか? 今二十代半ば? くらいじゃないすかね」
「そう… え?」
止めて、と不意にゾフィーは言った。その声があまりにも鋭かったので、リルは思わずサンドイッチを落とす所だった。
「どうしたんすか?」
「いいから、も一度、今のとこ、戻して。スローにして」
「え? ええ…」
ゾフィーは胸の前で両手を握りしめると、じっと画面を見据える。
ゆっくり、ゆっくり、その映像が、彼女の目の前で動いていく。
「止めて!」
ぴた、と画像が停止する。思わず彼女は口を押さえた。
「嘘…」




