第4話 恐怖の渦に
「……」
再び言葉の意識が戻った時、言葉は自分が今どこに居るのか認識する事ができなかった。
視界はほぼ真っ暗だ。
だがよく目を凝らせば、机や、タンスのようなシルエットが確認できる。
そこで試しに身体を動かすと、ふわふわとした布団の感触が伝わってきた。
そして、少し遠い位置に、細い光の筋が見える。
どうやらドアから漏れる光のようだ。
そこまで考え、ようやく自分が誰かの部屋で布団に寝かされているということを理解した。
「私は、一体何をして……?」
しかし、どうしてこんな状況になってしまったのかは全く思い出す事ができない。
なぜだろう。
思い出さなくてはならないのに、何故だか思い出してはいけないような気がしてしまう。
思い出せば、きっと後戻りできなくなるような。
そんな気さえしてしまう。
しばらく虚ろなままでいると、ドアの向こう側からトントントン……と、小刻みなリズムが聞こえてきた。
恐らく包丁を使って何かを調理しているのだろう。
これはいつも聞き慣れた音なので、すぐに理解する事ができた。
料理は嗜む方だ。
その音をしばらく聞いていると、
また新たな音が聞こえてきた。
ガシャガシャと重なり合うような大きい金属音と、何かが軋む音が共に響き、
「なんだ、もう……の……か。……、自分が……何……のか、……………だな」
という声の後、再び大きな金属音と軋む音。
片方は人の声のようだったが、部屋を隔てているおかげでほとんど聞き取ることができなかった。
何だ?
何をしている?
妙な悪寒を感じる。
金属音と何者かとの会話が繰り返されて行くたび、その悪寒は次第に、恐怖感へと変わっていった。
理由はわからない。
わからぬままにただ震えるしかなかった。
しばらくするとそれらの音は鳴り止んだが、未だに謎の恐怖感は身を支配したままだ。
と、そこで突然、
ガチャッ、と、ドアに手が掛けられた。
「………!!」
緊張が膨れ上がる。
震える体を必死に抑え、次第に開けられていくドアの方を見る。
するとそこでは、
「……店長!?」
「お、起きたか。良かった」
赤井あおりが、安心したような顔でこちらを見ていた。
「なんで、店長が……?あ、じゃあここは……」
「ああ、私の家だ」
どうやら、自分はこの人に運びこまれたらしい。
知っている人の顔を見る事ができ、とりあえず一安心した。
だが、身体を包む恐怖感が抜ける事はない。
「……おい、大丈夫か?すごい汗だぞ」
「…………っ」
何なのだ。
何なのだこれは。
絶叫マシンや肝試しのようなそんな恐怖とは違う、もっと本能的な何かを感じる。
こんな事は今までで初めてだ。
「まだ寝てた方がいいんじゃないか?顔色も悪いぞ」
「いえ……大丈夫、です。すこし気分が悪いだけで……」
これ以上あおりに迷惑をかけたくは無かった。
何度も大丈夫です、と繰り返すと、ようやく納得してくれた。
「あ、腹減ってないか?一応お粥作ったんだけど……」
「えっと、あ、はい、頂きます」
なるほど、さっきはお粥を作っていたのか、と1人で納得した。
本当は食事が喉を通るような状態では無かったが、せっかくの好意を無駄にしてはいけないと思い、無理矢理にでも食べる事にした。
「どうだ?」
「すごく美味しいですよ」
そう言うとあおりは嬉しそうにそうか、と笑った。
あのあおりが作る料理と言う事で少しばかり警戒していたが、味は想像以上に良かった。
今度はちゃんとお腹が減った時に食べたいものだ。
そこでふと、思い出した。
お粥を床に置き、問いかける。
「そういえば、店長。どうして私はここに運ばれたのでしょうか。実は私、ほとんど覚えていなくて。すみません」
「…………」
そこで、あおりの顔から笑みが消えた。
「……なぁ、1つ、聞いてもいいか」
「は、はい」
「さっき気分が悪いって言ってたが、それ
はどんな感じだ?」
「え?」
「私に気なんて使わなくていい。感じた事を誤魔化さずに言ってくれ」
「……わかりました」
質問の意図はいまいち掴めないが、とりあえず思った事を口に出す。
「その、気持ちが悪いとかそういうのでは無くて、なんて言うんでしょうか…………よく分からないんですが」
「たとえば恐怖、とかか?」
「……え?」
自分の言おうとした事を言い当てられ、驚きを隠せなくなる。
「答えてくれ」
「あ、はい。そんな感じだと……思います」
「……そうか」
あおりはその返事を聞くと、ふぅ、と大きく息をついた。
そうしてしばらく間を置き、突然スッと立ち上がり、
「立てるか?」
と言って、言葉に向けて手を差し伸べてきた。
言葉はその手を掴むと、黙って立ち上がる。
「ついてきてくれ。すべての理由を話してやるから」
するとあおりは、ドアへ向けて歩き出した。
それをしばらく呆然と眺めていたが、はっと我に帰り、慌ててあおりの後を追いかける。
部屋の外は廊下になっており、あおりはその一番奥の部屋の前に立っていた。
どうやら居間のようだ。
「一体何をするんですか?話をするなら、さっき部屋でもよかったのでは……」
「いや、全てを説明するには、ここじゃなきゃダメだ」
「……」
「行くぞ」
腑に落ちないまま、あおりの後に続いて、部屋の中へと入った。
瞬間、凄まじい恐怖感が再び身体を包み込んだ。
「………………っ!!」
先程の比では無い。
まるで全方向から身体を押しつぶされているような、そんな感覚がした。
思わず膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。
「落ち着け、大丈夫だ」
あおりの声が聞こえる。
「よく見るんだ」
あおりを見ると、あおりは部屋の奥へと指を指していた。
それがこの恐怖の源泉だと言うことは、何故だかすぐに理解した。
その指に従い、部屋の奥へと目線を向ける。
そこにあったのは、
鎖でがんじがらめにされ、柱へと括り付けられている、花宮の姿だった。
思考が、停止した。
何も考えられない。
言葉も出てこない。
息をする事さえ忘れてしまう。
だが、ただ一つ、目の前に浮かんできた光景があった。
それは、
血まみれの人間と、赤く染まった手でそれを見下ろす、花宮の姿であった。
「思い出したか?」
「これがお前がここに運ばれる羽目になり、言い知れぬ恐怖を味わうことになったすべての原因、
……殺人鬼、花宮透だ」
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あの時、先輩の携帯を見つけていなければ。
先輩を追いかけずに、明日届けていれば。
先輩の姿を、万が一見失っていれば。
もしも、先輩に、出会っていなければ。
私の残りの人生は、とても幸福だったのかもしれない。