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BUDDY ―鋼鉄の相棒と結目―  作者: Sky Aviation
第1章 ~平穏~
20/181

動作試験:速力

[翌日 5月2日(木) AM8:50 日本国習志野演習場 陸上トラック外縁]





 『常識破り』


 ……そうだな。今この状況の感想を一言で述べるなら間違いなくこれだろう。常識破りだ。

 何をもって常識とするか。それは人によって様々だ。その人によって、どれが常識というものとして教わったのかが違ってくる。味は人それぞれとか、価値観は人によるとか、そういったものと同じ部類に当たる。

 自分の常識は他人の非常識、とはよくいうが、まさにそれが当たり前なのが現実という世界だ。自分の常識を常に一番に考えてはいけない。常に“認識が自分とは違う”ということを念頭に置かねばならない。でなければ、いらないトラブルを起こす原因となる。

 とはいえ、ある程度は大体の人が共通して持ってる常識ってのはある。だが、それはどちらかというと“マナー”とか“無意識な感覚”といった感じで、そもそも常識以前の問題だと解釈されるものが多い。

 尤も、それすらも“広義的な意味での”常識と言われれば返す言葉もないし、事実その通りでもある。


 しかし……、


 此ればっかりは……



「……うそやん……」



 そんな、俺たちの中での“広義的な常識”という辞書には記載されてないことであった……






 それが起きたのは、あの駐屯地祭兼結団式の翌日の演習場である。


 この日からさっそく新結成された部隊ごとに訓練が開始された。

 陸軍での訓練というのは昔の自衛隊時代から何ら変わっておらず、基本は各中隊単位で行うか連隊規模の部隊をおいている駐屯地なら全員まとめて同じ訓練をするか。しかし、どっちにしろ大人数でやるとなるととんでもない人数になるので、まとまってやるか、いくつかの班に分かれて訓練するか、必要に応じてどっちかを選択することが多い。


 その中で行われる訓練内容ももちろん様々。基礎体力錬成から射撃訓練、仲間の搬送などが行われる救護支援訓練に実戦訓練、など様々。


 もちろん、部隊が変わったからと言ってやることは別段変わらない。ただメンバーが変わるだけだ。

 今日は特察隊全員で演習場にて、午前中は基礎錬成中心だ。

 さっきまでも、まずマラソンでしばらく走ってから補強運動などなどをこなし、体を慣らした後、いくつかの班に分かれてそれぞれでさらに基礎体力錬成が行われていた。午前中は一応はずっとこれだ。


 俺たちもついさっきまで、他と混ざって基礎体力錬成もしたし、いつも通りのメニューをこなしていた。当然、ユイも参加した。

 ロボットにはスタミナとか身体能力の向上とか、そういったものの概念がない以上、体力錬成自体別段コイツにとっちゃあんまり意味ないものではあるだろうが、常に動かしてないと金属部分が錆び始めたり、電子機器がちゃんと動くか確認できないといったロボット特有の弱点があるため、これはそこの克服の意味が込められている。

 だから、今日も含め、今後もそういった訓練には俺たち同様に毎回参加することになる。俺たちに交じって、時には戦闘訓練もする。


 とはいえ、それはもう少し後になるだろう。今日と少しの間は、ただの基礎訓練に終始する予定だった。



 ……が、しかし、


「……そんで、祥樹」


「ん?」


 ……今回は、ちょっと違う。


 隣にいる和弥が、今にも欠伸をしそうなほど飽き飽きしたようなダルい様子で言った。


「……なんだってまた」




「―――こんなところで俺たちがユイさんの動作試験せにゃならねえんだ?」




 そういってベリーショートに固くまとまった頭の髪をガシガシとかいた。そして、今日の分の朝の眠気と混ざったように長いため息をつく。

 言い返すべくもない。俺だってほとんど同じような心境だ。むしろ仲間だよ。そう思いつつ軽く苦笑いで返した。


 ……そう。今日に限っては、俺たちはユイの動作試験に駆り出されているわけである。


 一応、前々から言ってるようにユイはすでに動作試験自体は済ませているのである。

 製造されてここに来るまでの1週間の期間が空いていたが、その間にすでにそういったものはあらかた済ませ、良好な結果もしっかり出ていた。これ以上する必要はなかったはずなのだが……


 ……実は昨日、こんな『命令』が『国防省』から届いたらしい。

 昨日といえばちょうど式典で、新海国防大臣が訪問していた。おそらく、訪問ついでに彼から直接伝えられたものなのかもしれない。


 まあ、中身は簡単に言えば、


「わり、こっちでデータ取ったのはいいけど、もっと多くのデータ取りたいんでそっちでも試験期間中は定期的に動作試験しといてくれ。あ、もちろんこっちに報告はしといてね」


 ―――てことらしい。まあ、妥当な理由ではある。

 たった1回データをとっただけでも信憑性は薄いので何回か繰り返す、ということはよくあることだ。おそらく、ユイはそれでなくてもデータ採取材料としてはとても重要なので、そういった面の意味もより多く含まれているのだろう。それはまあいい。

 それくらいなら、別段俺たちだって文句はない。勝手にしてればいい話だ。その間も、担当の幹部が勝手にやってくれるから俺たちの出番もない。


 ……が、じゃあなぜ俺たちがここに駆り出されているのか? 俺たちが、特に和弥がこうもダルそうにしている原因はこれである。


 その、ユイの動作試験を担当することになった幹部が……


「済まない。一人が体調不良で欠席してしまって、他のメンバーも急用ができてしまって予備がいないんだ。だから、代わりに君たちがやっておいてくれ」


 ―――そう言ったのは、伝令に来たとある幹部である。彼も彼で、またその急用とやらに呼ばれたらしく、そう言い残すとそそくさとその場を立ち去った。これが、朝早く、国旗掲揚後さっそく訓練に向かおうとした時に俺たちに言い残した言葉である。


「……はぁ?」


 当然、俺たちはこうなった。ユイも、まさかの事態に「え?」と目を見開かせていた。動作試験に関する事情は知っていたようだが、こればっかりはユイ自身も予想外だったらしい。……できるわけないか。


 一体何があったのか知ったこっちゃないが、まあそんなわけで、俺たちは午前のこの時間をつぶして、こうして動作試験場所である演習場陸上トラックのほうに出向いているわけだ。

 この陸上トラックは、習志野駐屯地部隊が訓練などで使うことを考慮し、なおかつラグビー部のほかにも有志が募って陸上部を立ち上げてたことに答えて、つい数年前に旧ラグビー場を改装したものだ。

 一周400mで、レーンは9つ。豪華にもレンガ色の最新の複合合成ゴムを使っており、短距離走者スプリンター長距離走者ディスタンスランナーにとってはとても走りやすい。

 また、その内側のフィールドは人工芝で、サッカーやラグビーができる程度の広さがあり、最近はラグビー部がここを拠点にしつつある。まんま、そこら近所にある陸上競技場だった。ただし、観客席はない。周りは観客席代わりの土手となっている。


 今俺たちは、そのトラックの外縁に居座っていた。そこで、各種記録をとるためにスタンバイしている。


「担当がいないんなら動作試験くらい後日に回してもいいだろ……。なんで今日でないといけないんだ?」


「まあ、上も上で期限を設けてるんじゃないか? そこら辺はよくわからん」


「でも、この指令来たのってつい昨日だろ? それで期限が今日中って……、それほど急な決定なのか?」


「さあな。だが、いずれにしろ俺ら下っ端の知ったこっちゃねえよ。さっさと終わらせるしかあるまいて」


「はぁ……めんどくせえなぁおい……」


 そういってまた頭をかき回す。和弥がここまで嫌がるというのもあまり見ない光景だ。少し新鮮さを感じてしまう。

 とはいえ、あんまりこのムードを維持されてもはっきり言ってウザったいのでなだめる。


「まあそういうなよ。その代わり俺たちはこれが終わるまでの午前の訓練は免除だからよ」


「それはわかるんだけどさ……」


「なんだ、いやなのか?」


「いや、そうでなくてな……。やるのは別にいいんだが、よりにもよって今日なのは……」


「今日? 何かあったか?」


「射撃訓練だよ、射撃訓練」


「……あー」


 言われて思い出した。そうか、今日が午後から射撃訓練が予定されていたか。

 演習場内の一角に設けられている、最大200mの距離で実弾射撃が可能な屋内射撃訓練場。そこで、その訓練は行われる。今日は狙撃と通常の自動小銃の射撃訓練だが、和弥は担当が担当なのでもっぱら狙撃に勤しむことになる。本人大好き狙撃タイムだ。そんな午後が待っている。


「狙撃訓練に向けて体整えときたいってのに……」


「でも、今回の狙撃訓練は伏せ撃ちだろ? それほど問題にはならないと思うが……」


「モチベーションってやつだよ、モチベーション。体があったまったところでやるに越したことはあるまい?」


「ふむ……、なるほどね」


 狙撃に特化した人間が言うとなんとなく説得力はある。

 まあ、狙撃屋は狙撃屋なりにこだわりがあるということか。俺は担当上あんまり狙撃はすることはないだろうが、そこいら辺に関してはとりあえずは本職に任せるとしよう。

 ……とはいっても、状況次第では俺がやることも出てくるかもしれないから他人事ではないのだが。


「そういえばさ」


「ん?」


 和弥がそう思い出したように唐突に言った。


「例のうちらの部隊のコールサイン、決めたのか?」


「あぁ……、あれか」


 コールサイン。つまり、無線内での部隊などの呼び名だ。

 今回新設された特察隊の各実動班にも、識別のためにコールサインが当てられることになった。

 最終的に上層部の認可は必要だが、どういう名前にするかはこっちで勝手に提案していいということで、どうせなら自分たちの部隊名くらい自分たちでつけてやってもいいだろうという話らしい。

 戦闘機パイロットが無線内で自分たちの識別をするためにTACネームを自分たちでつけれるのと似たようなものだ。


 なので、一応俺たちの間でもとりあえずは隊長が決めれば?という話になっていて、そういうわけで俺が一応どうするか考えているのだが……。


「まあ……、一応、案はもう考えてる」


「ほう。どんなのだ」


「うん……。俺たちの部隊や任務の特徴から考えて一番それっぽいのでな……」




「……シノビ、ってどうだ?」




「シノビ? ……ってーと、あの忍者の忍のほうか?」


「そう、それ。カタカナではあるけど」


「ふむ……」


 和弥は顎に手を当てまんざらでもない様子で何度もうなづいていた。


『シノビ』という名前は、当然『忍者』から来ているのは言うまでもない。

 よく勘違いされるんだが、忍者というのはあくまで“大昔版のスパイ”のようなものであって、外国人がいろいろ勘違いした日本映画でよくあるような、敵の大集団の前に躍り出て手裏剣をバンバン投げて敵をバッタバッタと倒してしまうような、そんな目立った存在ではない。

 あくまで、大名や領主さんにつかえて、諜報活動や暗殺活動など、ほんとに今のスパイの日本版ともいえることをする存在だった。

 目立った行動は起こさないが、しかし裏でコソコソと工作したりする。まさに、そんな“ちょっと影の薄い”存在だったのだ。


 そんな忍者と、この特察隊。なんとなく、俺は性質的にはちょっと似ていると考えた。


 スパイみたいなことはしないが、でもひとたび戦場にでればそれと似たような裏工作などをする。時には要人警護まで、任務の幅は広い。そういった多用途に動ける点は、忍者と共通している。


 スパイかそうでないかでいえば根本的に違うが、でもそこそこ共通点はある。なので、名前としてはこれを採用しても差し支えないんじゃないかと俺は考えた。……一番合うのはJSAとかの諜報組織だろうが。

 だが、残念ながら忍者の名前は『ニンジャ』という形ですでにOH-1ヘリの愛称に採用されてしまっていて被ってしまう。今の陸軍では、こうした愛称も場合によっては無線内で使われており、混同が発生して無線内が混乱してしまいかねない。

 なので、じゃあその別称としてよく使われる『シノビ』でいいんではないかと考えた。これなら混同はないし、コールサインとしてもあながち悪くはないだろう。それに、俺たちの部隊の性質にも合っている。


 そういった経緯も簡単に説明すると、和弥も納得の反応を示した。


「まあ、いいんじゃないか? 俺は別にそれで構わないが」


「でもまぁ、あの二人がオーケーしてくれるかどうか……」


「大丈夫だろ。あの二人も最終的にはお前に任せるって言ってたし、それに名前としても悪くないセンスだ。受け入れてくれるよ」


「だといいんだけど……」


 まあ、向こうでも何か案が上がったらそっちでも検討を入れればいい話だ。とりあえずは、和弥の同意も得られたことだし、一応一先ずはこれで採用の形で羽鳥さんに報告する方向で考えておこう。

 ……尤も、人間考えることは同じってやつで、他の部隊でもこの名前使おうとしてたらマズイから何個か候補は考えておかないといけないが。


 そう考えつつ視線を少し遠くに移す。

 首を若干左に向けると、そこでは俺たち以外無人のトラック上で準備中の女性陣2名。

 誰でもない、ユイと新澤さんである。


「そろそろ準備終わりそうだな。そっちはいいか?」


「大丈夫だ。ストップウォッチも準備できてる」


 そういって手元にあるストップウォッチの設定をし終えた。


 今からやるのはただの短距離走だ。200mを使い、今のコンディションでどれくらい速度が出せるかを試験する。

 まあ、単純に走るだけ。そして、俺たちはその時の速度とタイムを記録する。

 和弥は物体検知センサーと連動した液晶パネルのストップウォッチを持っていた。タイムを計り始め、目の前を何かが通った瞬間にタイマーは止まる仕組みだ。


 俺はそれを記録する担当として、手にはタブレットとタッチペンを持っていた。暇なので右手に持っているタッチペンで軽くペン回し中である。

 タブレットには記録するための記録表データが表示されており、そこに必要事項を入力して、あとはまとめて本部に送るだけ。もちろん、その際もユイのデータ送信のプロセスと同じ手順を踏む。


 また、新澤さんは今から走るユイのそばについて、レーンの地盤の確認をしたり、俺から仕入れた知識を応用して人間アスリートがやってる体解しを個人的に試したりなど、いろいろ補助をしてくれている。

 元々新澤さんは高校時代は陸上部出身だったらしい。しかも全国大会常連のトップ集団。そのコーチも元陸自教官の人で部活もとんでもなく厳しかったとか。それゆえ、新澤さんは部内では「うちらの萌え担当」呼ばわりされるわ、元々よかった運動神経に磨きがかかったりとか、もういろんな意味で散々だったようだ。

 ……だから女性なのにこのクソ厳しい空挺団の訓練についていけるともいえる。


 なので、今回もそれのチェック等に名乗り出てくれたが、その準備ももう間もなく終わりそうだ。

 今はユイのもとに戻って速度の出しやすい走り方のレクチャーをしている。陸上部出身だからこそできることだ。ちなみに、新澤さんは根っからのスプリンター女である。長距離もいけるクチではあるらしいが。


 ……しかし、それを見つつちょっと疑問に思う。


「しかし、なんだって200mも取るんだかね? 普通に50か100くらいでいいと思うもんだが」


 そう言ったのは和弥だった。俺もすぐに同意した。


「ほんとな。ちょっと距離が余分にありすぎないか? しかも、なぜかレーンが3番だぜ?」


「どこを走っても同じってのはわかるが、でもやっぱランナーの心境としては内側走ったほうがやりやすそうなんだがなぁ……」


 そんな会話をし始める。

 さっきも言ったように、今から走る短距離は200mだ。だが、速度の記録をとるうえではちょっと長いともいえる。

 人間基準ではあるが、人間の体力テストなら、普通は50mだ。手ごろな距離で、しかも全力を出す上ではこれは適切な距離だ。100mだと途中でばて始めて、これだと理想のタイムを出しにくい。200mもいるのかこれ?


 しかも、わざわざ中途半端にも真ん中よりちょい内側のの第3レーンで走る。別にどこのレーンを使っても同じなのだが、あえてほぼ真ん中のレーンを選んだ。

 そこらへんの理由がわからない。レーンを極端に外側にしないとなると、速度を出しすぎたことによるコースアウトを危惧したものだろうか? だが、まさかそれほどの速度を出す気のか?


 和弥も同じだった。訝しげに首をかしげている。


「解せねえなぁ……。なんだってこんな中途半端なレーンを使うんだ。それほど速度出すのか?」


「おいおい、こんなよくわからん中途半端なレーン使うほどの速度って、あいつ一体どんだけ出す気だよ」


「そこら近所の一般道の法定速度並だったりしてな」


「そうなるとあれか、大体60km/h前後か?」


「大体そんくらいだな」


「ハハハ、んなバカな。歩くことすら高い技術が必要だってのに、走るってなるととんでもない高度な姿勢制御技術が必要なのはさすがにお前でも知ってるだろ?」


「ハハハ、まあな」


 そういって互いに半笑いした。

 確かに、機密の関係上あいつの最高速度に関しては事前に知らされてはいないが、そうはいってもさすがにこんなのはありえないことだ。




 ☆ロボットにとっての『歩く』と『走る』


 『歩く』と『走る』、という行為は、実はロボットにとってはとても高度な制御演算が必要な行動なのだ。


 ロボットの安定した歩行・力走を実現する主な要因として、『床反力制御』『目標ZMPゼロモーメントポイント制御』『着地位置制御』という3つの機能の安定した統合的制御にある。

 もし歩行中、ないし力走中に転びそうになった場合は、これらの制御を使って様々な状況にうまく適応させなければ、人間のような歩行や力走はできない。これは昔からあった概念ではあるが、それは今も変わっていない。


 『床反力制御』は、床にある凹凸をうまく吸収し、足でそれらによって転ばないように踏ん張る制御。

 簡単に言えば、ちょっとの段差でもある程度は力任せに踏ん張ることだ。これは人間もよくやる制御である。


 『目標ZMP制御』は、転びそうになったりして足の裏で踏ん張り切れないとき、上体を倒れそうな向きに加速させて姿勢を保つ制御。


 これを説明するには、そもそも“目標ZMPゼロモーメントポイント”が何なのかを説明する必要があるが、これがまたとてつもなく長くなるので割愛すると、早い話が大体自分自身が動いている時の重心の真下に位置する点がこれである。

 それを制御するのがこの目標ZMP制御だ。ではいったいどういうものか?


 例えば歩いている時、何かしらにつまずいて前に倒れそうになったときを考えてみよう。

 人間は当然足を前に出して転倒を防ぐが、しかし勢いが強すぎて足をついてもそのまま倒れてしまうことがないだろうか?

 これでは安定した歩行ができない。ではどうすればいいか?


 ……ここで、逆転の発想である。あえて止まろうとせず“むしろ前に向かって思いっきり走ればいい”のである。人によっては大体感覚でわかるかもしれない。


 これに関しても人間もよくやる。例えば、走っている時と歩いている時で、体を前にしたとき倒れやすいのはどっちかと言われれば、当然歩いているほうだろう。

 では、なぜそうなるのか? 実は、人間も無意識にこの制御をやっているからだ。


 考えてみよう。上半身と下半身を二つのブロックに分けると、転倒するということは、要は“上半身ブロックだけ速度的に異常に突出した状態”なのだ。だから、下半身ブロックから上半身ブロックが落ちて、そして人間で言う転倒を起こすのである

 じゃあ、この二つのブロックが上にちゃんと重なっている状態、つまりちゃんと転ばずに立つことができる状態を保つにはどうすればいいかといえば、もうお分かりだろう。下半身ブロックも上半身ブロックの速度に合わせればいいのである。

 走っている時なら、体をある程度前に傾けたとしても、上半身ブロックの落下地点に下半身ブロックが常に下から割り込むという形で保つことができる。

 しかし、歩いている時はそれが間に合わないから転びやすい。こう考えればわかりやすいだろう。


 こういった感じで、状況に応じて臨機応変に自身の重心制御を行うのが、所謂『目標ZMP制御』というものなのである。


 そして最後に『着地位置制御』だが、これは先に言った目標ZMP制御によって、足の地面につく位置がより外側に大きくずれてしまった時に起こす制御である。

 もちろん、この状態で今だけ足の歩幅が伸びたのに、次に出す足もそのまま今までやってきた歩幅で歩こうものなら、歩幅が合わなくなって歩きにくくなるわ余計転びやすくなるわで、今までの努力がすべて無駄になる。

 こうなった時に適切に歩幅を調整して、すぐに歩きやすい歩幅になるように調整し、足と上体の理想的な位置関係を取り戻すのがこの制御の役割なのである。


 ……長くなったが、これらの制御を常にこなすことによって、人間のような安定した歩行・力走が実現される。実際見てみると、途方もない制御技術だ。

 これを、すべて数学的に処理し、そして胴体内各種機器やアクチュエータ系に指令を出して実現させる。こう見るだけでもとんでもない技術だということがありありと伺えるだろう。実際、途方もない高度な技術が必要だ。


 特に、人間のような足を使うとなるとまた難しいという現実がある。人間の二足歩行は常に安定しないというが、これは人間の足裏の面積が、胴体全体の大きさと比較すると異常に小さいことから来ている。

 コップを立てるのと鉛筆を立てるのとではどっちが安定してたつかと言われれば、満場一致でコップに軍配が上がるようなものだ。理由は簡単。地面に接している面積がコップのほうが広いからだ。

 これくらいは誰でも大体感覚的に分かる。そう考えると、2本使ってうまく重心制御しているとはいえ、人間というのはとても不安定な足を持つ生き物だとも思える。

 だからこそ、生まれたばかりの赤ん坊が、生まれてすぐに二足歩行できないのも、歩行するうえでの不安定さに耐える高い身体能力を持っていないからという説明もできる。

 それほど、人間サイズの足での二足歩行というのはとても難しいもので、今までのロボットも人間ほど足裏は小さくない。安定させるために、ある程度は広めにとっている。


 ……しかし、ユイの場合はそこもまた人間だ。

 言い換えれば、そういった人間並みの歩行・力走制御を数学的にやってのけているということになる。ここにも、爺さんをはじめとする日本のロボット工学の技術の高さがうかがえる。

 尤も、日本の場合そういった姿勢制御技術は昔から世界的に見ても突出していたのだが。2010年代の時点でロボットがランニングしたり片足ケンケンしてしまうくらいだ。


 ☆



 そして、今回の場合は本気で走る状態でやるのである。どれほどの速度が出るんだろうか。


 人間の場合、走る速度は100m走っている人だと最高で37km/h前後で、瞬間的には40km/h前後出てるとも、理論上は人間は足は限界まで出せば大体64km/hくらい出せることになっているらしい。

 だが、今現在そんな速度を出した人間はいない。


 人間でさえせいぜいこんなもんだ。いくらユイとはいえ結局はロボットだ。一体どこまで出せるのだろうか。

 一応、ユイも通常の歩行からも歩行制御や躓いたときなどの処理などは人間並みにできていた。だが、本気で走るのはまだ見たことない。


「(……まあ、どうせ人間の出せる最高速力に合わせるのが精々だろうな)」


 仮にも戦闘用ではあるし、ある程度は速力は早めに設定されてはいるだろう。大体、成人男性の200mタイムが、インターハイ出場レベルで21秒前後、さらに飛んで世界記録でも19秒くらいだったし、まあ頑張って本気出してもそんくらいで収まるかな。

 これ以上はさすがに出せないだろう。結局はロボットであるユイに、こんな人間の限界を超えるなんてことはそうそう簡単にはできないはずだ。


 ……まあ、精々20秒台出せたら御の字というのが現実だろうか。


 そう考えていると、耳にかけている無線から音声が鳴り響いた。


『そっちいい? こっち準備できたからもう走るわよ?』


 新澤さんの声である。向こうもスタンバイ完了のようだ。

 見ると、新澤さんはこっちを顔だけこっちに向けてゴール地点にいる俺たちを確認し、ユイも腰を屈めていた。あの体勢はクラウチングスタートだろう。

 すでに手を地につけて腰を下ろしたまま待機。もうすでに走る気満々であるのがここからでもうかがえた。


「こっちもオーケーです。いつでもどうぞ」


『りょうかーい。じゃあ行くわよ』


 新澤さんの無線が一瞬途切れる。その間に、重ねて確認をする。


「タイムちゃんと測れよ。ユイの胴体が動いてからだからな?」


「はいはい、わかってらって。どれ、どんくらい走るか、お手並み拝見と行こうじゃないか」


「んだな」


 そう言って俺たちは互いに視線をユイのほうに向けた。

 腰を下ろしてこれっぽっちも動かず。スタートの合図である傍の振り上げのタイミングを待っている。


 ……あ、いや、訂正。


「……ん?」


 ユイがちょっと動いた。

 上半身だけ起こして、不意にこっちを見たと思ったら俺のほうに向けて手を振っている。これまた唐突である。

 小さくてよく見えないが、あの手の振り様、顔は笑ってるんじゃないかとも思えた。例えるなら、遠くで好きな人を見つけて「おーい!」と叫んでるあれみたいな。

 俺もとりあえず手を振って返した。すると、向こうも満足したらしくまた上半身を下してスタンバイ。


 隣にいる和弥がそれを見て、少しニヤつきつつ言った。


「……可愛らしいアスリートっすな」


「はは、ほんとな」


 確かに、今のユイはまんまアスリート選手だ。

 今は動きやすいように、女性陸上選手が着るようなユニフォームを着用している。

 これは陸上部から借りたものだが、少し前まで新澤さんしか女性がいないうえ新澤さん自身は陸上部に所属していないというのに、なぜ女性のユニフォームがあったのかは理由は聞かされなかった、というか、聞く前に届けた人がそそくさと退散してしまった。

 ……一体何をたくらんでたのか。あとで聞き出さねばならない。


 しかし、運のいいことにサイズはピッタリだった。緑下地に白のラインが入ったレディースショートタイツに、白下地に緑の縦ラインが入ったレディースランニングシャツを身にまとっている。また、なぜか手には陸軍がよく使う迷彩柄のエムテック手袋をしていた。

 本来は短距離を走る上では正規のユニフォームではないらしいのだが、今用意できるものの中で一番適当なのがこれしかなかったらしい。短距離走で使うユニフォームは今洗濯中だとか。


「もし用意でき来たら彼女のエロ……じゃなかった、可愛らしいユニフォーム姿が見れたのに」


「おいこら」


 という会話はそのユニフォームを持ってきた男性とのものである。俺も男だからある程度はわからんこともないが、ロボット相手にまでそんな下心出すなと思った。

 ……とはいえ、元々体格がそこそこほっそりしていることもあり、身長それほどないはずなのにスラリと伸びたトップアスリートに見える。髪もショートカットなので、これまた体育会系女子アスリートの雰囲気に拍車をかけている。

 俺としたことが、とんでもない錯覚である。


「……あれからあふれ出るエロスな」


「おいこら」


 案の定和弥からも出た、そんな下心満載な発言を抑えはするも、でも正直、女性陸上選手のユニフォームを考えると確かにエロス要素満載だなとも思えてしまう。

 ……ただし、今のユイはそれほどないが。むしろ、短距離を走る女性陸上選手のユニフォームが過激なだけだろうが。空気抵抗押さえた結果がアレなのはわかるが、もう少しほかになかったのだろうか。


 ……そんな、一般の若い健全男性ならよく考えるであろうことを想像していると、


『はい、じゃいきまーす』


 無線がまた声を発した。

 続いて『よーい』という合図が聞こえ、俺たちは改めてユイのほうを注視してスタンバイする。ユイも腰を上げた。


「(さて、どんくらいでるかな……)」


 そういった興味関心の視線も送っていた。和弥も右に同じ。……俺の右にいるから左なんだが。


 そして、新澤さんの手に持った旗が……


『……ドンっ!』


 その合図とともに思いっきり振り上げられた。

 それとほぼ同タイミングでユイが足を蹴り上げスタートダッシュをかけた。ユイの体が動くと同時に隣にいた和弥もストップウォッチのタイマーをスタートさせる。

 スタートの反応速度は抜群だった。

 人間のように、脳から神経を通じて胴体内筋肉に動作信号が行くまでのコンマ数秒の時間差はほとんどない。聞こえたらすぐに動く。ロボットにとってはそれだけのことだった。

 ユイにとっては、半ば条件反射のようなものに近いだろう。


「スタートダッシュはいい感じだな」


「ああ。でも、やっぱり人間並みだな」


「だな」


 スタートダッシュは確かによかったが、やはり人間型ゆえの制約なのだろうか。見た感じの速度は人間と大差なかった。

 確かに早いが、これくらいならオリンピックとか世界陸上とかで、トップアスリートがこれくらい出してるのをよく見たことがある。大体それくらいだった。


 やはり、姿勢制御がそこまで追いついていないのだろう。まあ、やはり案の定、といったところだ。


「まあ、やっぱこんくらいがげんか……」


 そう高をくくっていた。


 ……そう、



 正直、そんなもんだと思っていた。



「……え?」


 ユイの走りに変化が起きたのを俺は見逃さなかった。

 隣にいた和弥も気づいた。隣で「え?」と声を漏らしていた。


 スタートしてまだ3、4秒しか経っていない時だった。


 ユイがパッと見さっきより思いっきり足を後ろに蹴り上げたように見えた瞬間だった。


「……は? は??」


 速度が徐々に上がっていた。いや、徐々に、という言葉で言い表す程度ではない。“どんどんと”であろうか。

 速度が異常なペースで上がってきていた。たった1、2秒で人間が出せる速度を思いっきり超えたのを、俺は自分の人間的な感覚で理解した。

 走っている体勢は人間とほぼ同じはずだった。若干前傾姿勢ではあったが、アスリートが短距離を走るときのような、速度を出すために前かがみになった状態からすぐに体を上にほぼ垂直に立て、足と腕を思いっきり振ってとにかく速度を出しやすい体勢で走っていることには違いはなかった。


 ……だが、そこから出されている速度は明らかに人間が出せるものではない。


 どう見ても、それ以上一回りも二回りも出ていた。


「え? な、なな、なんだこの速度?」


 和弥も隣でそんなことを言うが、噛み噛みだった。焦りの様子がありありとうかがえた。

 和弥だけではない。


『……はぁ……?』


 無線越しに新澤さんもそんな声を漏らした。これに関しては元本職の彼女でも、この速度は想定外だったらしい。いくらなんでも出しすぎだ、という雰囲気が無線越しにいやというほど感じ取れた。


 だが、俺たちのそういった動揺も完全において行かれた。その速度で完全に俺たちを置いてけぼりにした。

 あっという間にゴールに差し掛かり、そして、俺たちの目の前を自らが起こした風と共にとんでもないスピードで走り去った。F1のフォーミュラカーのあの爆走したときの「ビューン!」という効果音がリアルで聞こえてきそうなほどだった。

 俺たちはそのユイを呆然とした顔で、顔だけ追いかけていた。


 ゴールインした後はすぐに止まろうとしたが、あまりに速度が出すぎていたため慣性がとんでもなくなったために、ゴールインしたと同時にすぐに右足を前に出し、左足をその体の前で曲げてそのままブレーキをかけるとともに、左手を後ろに伸ばして地面に手のひらをつけつつ、摩擦を起こしてブレーキの足しにした。

 よく見えないが、あの体勢なら右手も体の前で同じく地面に置いて摩擦を起こしているだろう。あの手袋は、その摩擦から手を守るためだったのだと今更ながら察した。


 ここからでも、そのブレーキをかけた時の「ガガァー!」といった音がよく聞こえた。まさかただの短距離走の計測でこの音を聞くことになるとは思わなかったが、それほどとんでもない速度を出したことの裏返しなのだろうとすぐに悟った。


 それらを見つつ、俺はすぐに感じた。


 ……おかしい。こんなこと、人間の形をしたやつが出していい状況じゃない。


 俺たちは呆然とユイを見ていた。俺に限ってはそのまま右手に持っていたタッチペンを地面にポロっと落としてしまったが、そんなことには全然意にも留めなかった。

 少しの時間をおいて、俺は和弥におもむろに聞いた。


「……おい、タイムは?」


「……」


 だが、和弥もすぐには答えなかった。俺と同じだ。完全に放心状態だった。

 目線をユイに向けたまま、ただただ呆然としていた。全然動かないあたり、立ったまま気絶してるんじゃないかと本気で思ってしまったが、何度か呼びかけるうちに何とか返答も得る。


「おい……、タイム……」


「え、あ、あぁ……、えっと……」





「……10.35……」




「…………は?」


 俺は本気で和弥がミスって変なタイム出したんじゃないかと思った。

 ストップウォッチ押すの遅れたのか? そう確認したが、和弥は即座に否定する。


「いや、間違いなくスタートしたと同時にこれもスタートさせた……。というか、その時以外タイマー押してねぇ……」


「は……?」


 和弥の言ってることに嘘はないように見えた。いや、こんなところで嘘など言ってられる場合じゃない。


 ……じゃあ、ちょっとまて。


 ということは、つまり……


「……となると、速度は?」


「えっと……、200mで、タイムが10.35だから……単純計算で……」





「……大体、約70km/h……」





「…………はぁ?」


 俺は思いっきり顔をひきつらせて和弥の顔を見た。和弥は「なに言ってるんだおれは?」とでも言わんばかりに信じられないといった表情で、そのタイムが表示されているストップウォッチの液晶パネルを凝視していた。


 ……200mを、70km/h?

 ただの人間型のロボットが? この、普通ならたとえ全力で走っても20秒前後かかる距離を、その半分の10秒弱……?



 ……はあ……?




「……うそやん……」




 俺は思わずそんな一言を漏らした…………


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