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BUDDY ―鋼鉄の相棒と結目―  作者: Sky Aviation
第8章 ~変動~
138/181

10年前 2

 本能に従い、ただただ走る。何も不要なことは考えない。時には叫びながら、時には泣きながら。そして、怯えながら。


「うわぁぁああああああ!!!」


 だが、その刹那。一瞬、大きな爆発音とともに崩れてきたコンクリートの破片の落下の衝撃に耐えきれず、その場に転倒した。

 近くに落ちてきただけで、直撃を免れたのは幸いだった。しかし、当時の俺の精神をこれでもかと揺さぶり、恐怖のどん底に陥れるのには十分すぎるものだった。その破片の大きさを見るや、完全に怖気づいて足がすくんでしまった。


 死にたくない。こんなのに当たって死ぬのだけは嫌だ。絶対に嫌だ。そればっかりが、脳裏の思考を完全に支配していた。


 しかし、意図するものとは違い、体は言うことを聞くことはなかった。今になって、散々走ってきたことによる足の痛みと、右足に重なるコンクリートが視界に入ったのだ。直撃は免れたにせよ、倒れてきた小さなコンクリートの破片が、俺の右足にまで転がってきたのである。

 うまく足に力が入らない。俺は大いに焦った。


「(う、動け! 動けよォ!)」


 冷静さなんてもうどこにもない。俺は折れていないようだが、衝撃の大きさに足のほうがビビったのか、一時的に完全に硬直してしまった。こういう時は、不用意に動かず、誰かが支えてくれるのを待つべきでもあったのかもしれない。だが、そんなことを考える余裕は、あの時の俺にはなかった。

 とにかく、動かねば死ぬ。そんなイメージが先行し、「動け!」と必死に心の中で念じながら足を何度も叩いた。それですぐに動くはずもないが、もちろん、その時の俺にそれがわかるわけもない。


 10秒と経たない短い時間で合った。だが、その間に恐怖感を大きく積もらせていく。


 ……さらに、それだけでは終わらなかった。


「―――ッ!?」


 再び起きる大きな爆発音。響き渡った音響を耳にしながら、その音源である真上に視線を向けた。そこにあったのは、爆発時の炎とともに崩れてくる建物の、コンクリートの破片。大きい。


 マズい、潰される! そんな絶望感が一瞬にして俺の思考を支配した時……



「お兄ちゃん危ない!」



 そんな声が響いた数瞬後誰かに強く突き飛ばされる感覚を感じた。一瞬、宙に浮いたと思うと、素軍また地面のアスファルトにたたきつけられた。右足は、事前に守っていたため痛みは最小限で済んだ。


「……え?」


 仰向けに倒れた体を引き起こしながら、俺を突き飛ばした張本人を見た。そいつは、先ほど堕ちてきたコンクリートの破片の直撃を受けたのか、その場にぐったりと倒れていた。それも、自分のすぐ近くだった。

 突き飛ばした距離はそんなに長くはなかったらしい。とにかく、破片から逃がすためだけにやったようであった。


 全体が潰されているわけではない。だが、頭部にピンポイントで直撃したらしく、そこからは多量の出血が起きていた。起きようとするそぶりも見せない。


 ……同時に、その張本人の正体に、俺は目を疑った。


「愛奈……?」


 名前を呼んだ。いつもそばにいた妹の名。普段なら元気に答えるその声は、今は全然響いてこない。指がピクリと動くことはあっても、それが限界だった。


 間違いない。突き飛ばしたのは“妹”だ。


「愛奈! 大丈夫か、愛奈ァ!」


 必死に名前を呼んだが、すぐに返事が返ってくることはない。中々動こうとしない右足を無理やり近寄っても、結果が変わることはない。

 しかし、それでも妹は、声を振り絞って言葉を発していた。


「はやく……逃げて……」


「バカ野郎! お前捨てて逃げれるわけないだろうが!」


「で、でも……」


「待ってろ、今どかしてやるからな」


 幸運なことに、両腕は十分に生きていた。力を振り絞り、妹の上にのっているコンクリートをどかそうと試みるも、小さく非力な人間であった自分に、それをどかすほどの腕力なんてあるわけがない。

 それでも、火事場の馬鹿力を純粋に信じた俺は、必死にそれをどかそうとした。だが、無慈悲な爆発音が、再び大きく響き渡る。


「うわぁァ!」


 その衝撃波と轟音に、思わずしりもちをついた。コンクリートはこれっぽっちも動いていない。再びどかそうとした時だった。


「もういいから、お兄ちゃんだけでも逃げて」


「ちょっと黙ってろ! すぐにこれをどかすから―――」


「いいから聞いて!」


「ッ……」


 突然放たれた叫声は、俺を一瞬にして黙らせた。しかし、妹は頭を痛そうに必死に抑えていた。自身の発した大音声は、既にダメージが入っている頭部にも痛覚として響き渡っていたのだ。これ以上の叫声は外にしかならないことの表れであった。

 それでも、妹は必死に声を絞り出した。


「もういいから……私はいいから、お兄ちゃんだけでも……」


「で、でも……ッ!」


「このままじゃお兄ちゃんまで死んじゃう……お願い、お願いだから先に逃げて……ッ」


「……」


「お願いだから……ッ!!」


 その目に浮かぶ涙を、俺は直視することはできなかった。かすれ歪んでいく意識の中、精一杯出したその言葉。

 他者の命より、自分の命。災害にあったとき、学校で嫌というほど言われた言葉である。最後、守らなければならないのは、自分の命であると。そうだ、確かに正しい。

 だが、その他者が、誰でもない自分のただ一人の妹であったら? そこまで学校は教えてくれなかった。いざやるとなると躊躇してしまう。その間にも、周りではしきりに爆発音と轟音が鳴り響き、建物が崩れ始めていた。まるで、自分の今の精神のようである。

 助けに使えそうな大人は誰一人としていない。皆、さっきの弾道ミサイルの弾着による衝撃波などにやられてしまったらしい。呼びに行く時間も余裕もどこまであるか。


 ……だが、二人そろって下敷きになるリスクを、取るわけにはいかなかった。


「……クソッ!」


 やっと動けるようになった足を使って立ち上がった。見捨てることはできない。だからこそ、俺は動かねばならぬと思った。


「いいか、絶対死ぬなよ! すぐに大人の人呼んでくるから! たぶん近くに陸軍の人がいたはずだから!」


 ホテルであった民法のニュース内容を瞬時に思い出す。陸軍の断片的な守備陣地の情報。この近くに、陸軍が展開し始めるかもしれないという情報を思い出した俺は、それが真実であることを願い、そして、それがその通りに動いてくれていることを願い、足を必死に動かした。

 俺の叫び声に対する返事はない。だが、聞こえてはいるはずだ。返事を伝える余裕がないだけなのだ。

 俺自身も、別にそこまで期待しているわけではなかった。返事を待つ前に、まだ痛む足に鞭を撃って走り出した。


 ……その瞬間だった。


「……うぁッ!」


 また近くで轟音が響く。結構近い。

 その衝撃で一時的に足元をすくわれ、その場に倒れた。再び足が痛むが、それでも、痛みに耐えまた立ち上がり走ろうとした。


 ……その時である。


「―――え?」


 すぐ隣に影ができた。刹那、首を右に振り向けるまでもなく、今度は大小の破片になったコンクリート群が雨の如く降り注ぐ。その衝撃に、足が一時的に動きを止めてしまった。


 今となっては、これが一番の後悔であろう。


「ッ!」


 上を見た瞬間。視界に入ってきたのは、俺に向かって高速で落下してくる小さなコンクリートの破片であった。


「ッうわぁぁぁあああああああ!!!」


 せめてもの恐怖心の発散だろうか。その叫びが一瞬発せられたのち、左胸部に金属バットで殴られたような激痛を伴ったと同時に……



 俺は、そのまま倒れて目の前を真っ暗にさせた……。




 ……そんで、こっから途中までは“聞いた話”な。


 その後、沖縄での地上戦が勃発すると、とにかく日本国防陸軍の地上部隊は残された市街地地形を使ってのゲリラ戦を展開。そして、途中通り過ぎた国防軍人の有志数人が、女性や子供などの重軽傷者をできる限り後方に連れていくべく輸送作戦を展開していたんだけど、幸いなことに、それに俺と妹も連れていかれたのだそうだ。

 沖縄県のとにかく北側にある安全区域にたどり着いた俺らは、そのまま陸軍の輸送ヘリを使って、九州の方に飛んで行ったそうだ。沖縄周辺の支配権が完全に中国側に移る寸前であったため、本当にギリギリの脱出だったことになる。


 結局俺と妹は佐世保の海軍病院に搬送された。沖縄方面での負傷者の手当てを行うため、とにかくいろんな病院に負傷者を受け入れてもらっていたのだが、この佐世保の海軍病院も、そのうちの一つだった。

 中亜戦争始まって以降、日本国内で発生した大量の死傷者を扱うために、全国の医療機関が総動員されたのだが、それでも足りなかったらしい。それほど、沖縄方面で発生した死傷者の数が悲惨的だったといえるのだろう。

 そのために、政府は他国から医者を招いたり、他国の医療機関に頼んで政府負担で患者をづけたりなど、とにかく患者を診る医者をどうにかかき集めてきた。日本に友好的な一部の国は、医療体制の完全無償支援も行ったりしたようで、頭が上がらたないというものだ。


 俺たちが行った佐世保では、俺たちが佐世保の海軍病院に付いた数日後に、キューバの医療団が駆けつけることとなった。世界トップレベルの医療体制と医者数を誇るキューバは、白衣外交の名の下に、日本に専門の医療団を派遣し、医療支援を実施した。幾つかに散らばった医療団のうちの一団が、佐世保海軍病院に来たのである。


 俺らは、そのキューバの医療団に診てもらったのだが、症状はその時点で既に深刻なレベルに達していたらしい。

 まず、妹は海軍病院に搬送されてから暫くして、本当に僅かながら意識は取り戻したらしい。だが、脳に深刻なダメージを負っており、所謂『脳挫傷』の症状を起こしていたそうであった。

 外部からの強い衝撃により、脳本体が損傷してしまう病態であるが、妹の場合結構深刻で、損傷した範囲が広く治療が難しい状況であった。それでも、わずかではあれど意識を取り戻したのは、本当に奇跡としか言いようがなかった。

 少しでも症状を軽くするべく治療しようにも、端的に言うところの“順番待ち”状態で、しかも脳神経外科の対応ができる医者や医療体制も限られているため、本当はもっと都心の方にある病院に運びたかったのだが、同じような事情で都心方面の医療機関を頼る人らでごった返しており、これもまた順番待ち状態であった上、そんなの待ってる時間もほとんどないほど緊迫した状態だった。


 とにかく、現状はこの場で少しでも延命措置を施し、然るべき場所で治療できるようになるまで耐えてもらうしかないとされていた。


 ……だが、それ以上に深刻だったのが、どうも俺らしい。


 その時の俺の症状といえば、肺が片方軽くつぶれている状態だったのだそうだ。肋骨は骨折し、その骨が右の肺に刺さって、しかも若干つぶれてしまっているため、ほとんど機能を停止してしまっているのだという。所謂、『外傷性気胸』というやつで、右肺はまともに空気を取り込めない状態であるのだという。

 今は左の肺と、人工呼吸器を使って呼吸をさせているが、これでどこまで持つかはわからない。早目に肺を取るか、交換させなければ、肺は徐々に機能を停止させ、片肺での呼吸を余儀なくされてしまう。もう片方の肺も、少なくないダメージを受けており、すぐに処置をしないとマズいが、そんな大々的な処置はできない状況だった。


 そんな時、一番手っ取り早い解決法が……“肺移植”である。


 これもこれで確かに大がかりではあるが、どでかい機械を持ってきたりでかい施設があるところにぶち込んだりする前段階としては一応選択肢としてある。このままでは、まだ生きている左の肺も負担超過でへたばってしまうと思われる以上、もう片方の肺を取って、健康な肺を突っ込むしか延命の手段はなかった。


 ……だが、誰のを持ってくる?


 同じように肺がやられて臓器移植を求める患者は大量だったそうだ。そっちにドナーの肺をもっていってばかりで、俺の方に回ってくる時間は直ぐにはない。今から申請しても、どれだけの時間でやってくるかは未知数。それまでに、俺が生きていられる確率はもっと絶望的。


 ……医師団は迷ったらしい。


「彼の肺をどっか空持ってくるにしても、誰から持ってくればいいんだ?」


「親族に問い合わせてみたか? 誰かドナーになりそうな奴心当たりがあったりとか」


「いや、全然連絡がつかない。確認のしようがないぞ」


 確認できないのも無理はなかった。後から知った話だが、この時点で、母は案の定死亡。父も、どうも沖縄中心地での戦闘中にMIA(戦闘中行方不明)になり、その後、死体が確認されたのだ。連絡がついたら、そいつはたぶん偽物かお化けのどちらかだろう。

 誰もドナーがいない。今から見つけるにしたって時間がかかる。見つかったとしても、移植した時の拒絶反応の対処も考えないといけないし、そもそも10歳前半なんつー小さい子供の肺のドナーなんてそうそういるわけではない。


「ドナーがいないのでは何にも……」


 キューバの医者らは完全に頭を抱えてしまったそうだ。


 ……だが、


「……?」


 一人だけ、ぴったりの奴がいたんだよ。俺の体のサイズに合って、拒絶反応も少なくて、なおかつ、今すぐにでもやろうと思えばやれる“ドナー”。


 ……そいつは、人工呼吸器を口にしながら、わずかに動かした指で、キューバの医者を手招きした。


「……彼女は?」


「まさか、彼の妹?」


 ……そう、俺の“妹”だった。

 目の前にいた、“最適の”ドナー。一つ下であるので、身体的なサイズもそこまで極端な差はないし、肺を移植するうえでの物理的な問題点は少ない。また、元々同じ血統なので拒絶反応もそこまで起こらないだろうし、すぐに手術を行えば、肺を即行で交換することだってできる。どのみち、彼女の肺を移植するとなれば、そのお相手は今のところ、俺しかいないのだ。


 妹の口が動いている。医者は、何か話そうとしているのだと察し、すぐに日本語が堪能な助手に通訳をさせた。

 ……すると、


「……自分の肺を使えって……彼女が……」


 医者らは驚愕した。あのような身体状態で、先ほどの俺の病態に関する会話を聞くことができていたうえ、しかも、自分の“命”を長男に与える決断までした。大きなリスクがあるのは承知のはずなのに。

 一応、親族優先提供という条件を用いて、妹の臓器を俺に優先的に与えることはできる。だが、妹は未成年なのでこれを行うには親の同意が必要なのだが、その親が二人ともこの時点で死んでしまい、連絡が取れない。同じ親族に当たる海部田の爺さんらといった親戚にも、臓器移植とは別件で事前に連絡を試みていたのだが、そっちもそっちで繋がらない。同じようなことを考えているほかの人たちが電話などをしまくったことで、回線がパンクしているらしかった。


 そういうこともあり、事実上妹の肺をどうするか決定づけることができるのは妹本人の身なのだが、その妹が、使えを言ったのだ。

 確かに、完璧ともいえる適正はある。今すぐ手術を行うならば、俺を臓器受容者レシピエントとして、何とかギリギリ身体状態を維持させることぐらいはできるはずだろう。


 しかし、それは、自身の回復の見込みを捨てることにもなった。


「まだ死ぬとは確定していないのに……本気なのか?」


 妹に問いかけた。脳死ギリギリで、意識もほぼ失う数秒前のような状態ではあったが、うまくいけば、奇跡的な確率ではあれど回復の見込みはないことはなかったのである。だが、ここで自身の臓器をドナーとして提供するということは、自分が今後回復するかもしれないという可能性を、自ら捨てることにもなる。

 一縷の望みに掛ける……そんな手段だってとれるはずなのである。


 しかし、妹はかぶりを振った。


「……もう、長くありません……ですから……、せめて……兄だけは……」


 途切れ途切れながらも言ったその一言に、妹の全ての思いが込められていたといえるんだろう。

 妹は知っていたんだ。もう、自分の命は長くないということを。

 妹は、自室で交わされる自分の兄の様態を聞いて、すぐにでも処置をしないといけないと気づいたのかもしれない。あれでもアイツは医者志望だった。そこそこの医学知識もあの時から蓄え始めてるぐらいには本気だった奴なんだ。

 妹だからこそ察することができたのだろう。そして、自分から危険な“賭け”を打って出たのだ。


「早く……い……いしょく………を……」


 意識が消えかけてきていた。もはや、時間がない。通訳を通じ、医者は一言だけ聞いた。


「意思確認をさせてほしい。君の同意さえあれば、君の右肺を、君のお兄さんに移すことにする。それでいいか?」


 素早く通訳は日本語に訳し伝えた。妹の答えは即答だった。


「……はい」


 それ以降の返事はなかった。脳の様態が悪化したのだ。これ以上の好転は無理だと悟った医者らだったが、同時に、一つの目的も生まれた。


「……脳死肺移植を行おう」


「いいのですか?」


「彼女の脳はもう長くは持つまい。だからこそ、最後の最後にあのメッセージを出したのだ。すぐに準備をしろ」


 ここからの彼らの動きは素早かった。


 本来、脳死肺移植をするには、まず日本臓器移植ネットワークに登録される必要があり、二回のインフォームドコンセント、各地域内、施設内での倫理委員会での審査を終え、中央肺移植適応検討委員会で審査を受けた後、ようやっとそのネットワークに登録される。本来なら約3~6ヵ月はかかるところだが、今回の戦争を受け、こんなこともあろうかと関係機関の対応を異常に素早くしていたのか、即行で登録が終わった。

 インフォームドコンセントも考えたのだが、親族らとの連絡が取れない中で、しかも一刻を争う状況ということにもなってしまうと、一々説明している暇もない。そんなわけで、今回は特例中の特例として、妹の意思表示を確認したという段階で、もう登録完了ということになった。


 その数日後である。



 妹は、やはりキューバ医療団の判定により“脳死”が確認された。



 手元には小さな紙が残されていたらしい。実は、その紙が何なのかは俺わからんのだが、たぶん、遺書艦何かだろう。

 確かに、最愛の妹は死んでしまった。しかし、肺はいたって健康そのものだった。幸いなことに、そっちにダメージはほとんど行っていなかったのだ。

 医者らは直ちに行動に出た。この時点で、俺は右肺の機能はほぼ損失し、左肺の負担が大きくなり始めていた。直ちに健康な右肺を移植し、左肺の機能を復元させなければ、もう命の保証はない。

 妹の体から右肺を取り出すと、すぐさま俺の右肺と交換された。肋骨が刺さっていたため、その肋骨ごと切り取る羽目になったが、肋骨部分は後に右肺から完全に分離され、もう一度元々あった部分に骨をくっつけて、あとは自然に接合されるのを待つことになった。



 ……まあ、俺が今こうして生きている時点で既にわかってると思うが、手術自体は無事成功した。



 懸念されていた拒絶反応も、やはり血統が同じであることや、血液型も同じO型であったことから、大きな問題にはならなかった。大きさもそこまで極端な差はなく、無事接合が終わったのち、通常通りの呼吸をし始めたらしい。

 肋骨部分も、接合をうまくやってくれたからか、自然とくっつき始めていたらしい。数か月もすれば、重いものを持ち運んだりもできるようになるだろう。

 脳関連の損傷も比較的少なめですんだことが、生存の要員となったといえる。肺がやられ、しかも脳もダメとなればもう諦めるしかなかったのだが、兄妹揃って、片や肺、片や脳がやられたという形で分かれていたことは、幸運と呼べばいいのか不幸と呼べばいいのか。もしかしたら、立場が逆でもあったかもしれない。


 手術は成功したが、暫くは意識が戻らない状態が続いた。肺がうまく呼吸を安定させ、脳にも血液を安定して供給するようになるまでは、暫くの間は安静にされていた。また、肋骨部分の自然整合も待たねばならないため、ある意味こうして暫く動かないでいるのは都合がいいともいえるだろう。


 ……その後、俺は確かに目を覚ました。


 実は、沖縄で最後に胸部に強い衝撃を受けて以降、その次の記憶はここから始まっていてな。気が付けば、白い天井。どうも病院らしいことを悟った俺は、すぐ隣にいる人物を見た。


 海部田の爺さんだった。


「……爺さん?」


 その一声に敏感に反応した爺さんの行動は素早かった。即行で医者を呼び、これほどにもないほどのお祈りをかましていた。神様仏さまと連呼しまくりだった。あそこまで神様仏さまを呼びまくる爺さんなんて初めてだが、たぶんそんなんで呼ばれた神様仏さまもびっくらこいたことだろう。


 その後、医者らが来て「もう大きな症状になることはない」と言われると、一応一安心の俺。どうやら助かったらしい。


 ……、あれ? 妹はどこだ?


 最後の最後、ほとんど瀕死の状態だった妹。あの後どうなったのか。話を聞くに、俺は陸軍の人に保護されてここまで来たようだが、妹は? 妹はどこだ?

 それと問われた爺さんのあの顔は今でも忘れない。言うのを躊躇うどころか、頭を抱えて悶々としてすらいた。


 ……だが、俺に対して言った一言。これは、ある意味秀逸だったろう。


「……生きているぞ。そこにな」


 そう言って指をさしたのは、俺の右肺部分だった。

 自分で触ってみてもわかったが、妙に違和感がある。手術をしたらしいということまでは聞いたが、何の手術か? 肺を直したのか?


 爺さんは、静かに、そして、くやしさをにじませながら……


「……右肺にじゃよ」


「右肺?」


「そうじゃ……お前が受けた手術は、脳死肺移植手術じゃ」


「……………え?」


 言葉の直接の意味を最初から知っていたわけではない。だが、文面からして、この後何が言いたいのか、大体察することはできた。

 だが、理解はしても、すぐに受け入れられるというわけではない。冗談だと思った。


「……待ってくれ、どういうことだよ?」


「そのまんまの意味じゃ」


 本当は聞きたくなかった。知ってはいたくせに、受け入れたくはないがために、そこから耳をふさごうとすらした。だが、爺さんはそれを知ってか知らずか、間髪入れずに、こういった。




「……妹は、愛奈は死んだんじゃ。脳死で、そして、その本人の意思で、自分の右肺をお前に託したのじゃ」




 そこからだった。さっきまでの、俺と妹の症状、妹の脳死、そして、肺移植手術から、俺の回復までの経緯を知らされたのは。その時、俺はすべてを理解するに至った。


 ……だが、全然実感がなかった。


 体感でつい数時間前までは、俺も、妹も、両親も。何事もなく普通に家族旅行していたのだ。だが、いきなり父がホテルを飛び出し、アナウンスされるがままにバスで逃げたら、他国からの侵略にさらされ、そして、煽られるように逃げ惑ったと思ったら、母を亡くし、それでも逃げようと思ったら、今度は、気が付いたら、妹がこの世から消えていた。

 最後に残ったのは、俺だけだった。

 しかも、妹に、命を救われる形で。


 ……妹の亡骸を見て、それを初めて実感するに至った。


「……愛奈?」


 返事なんてあるわけがないのに。それは、さすがに理解していた。


 だが、納得しようとしなかったのだ。受け入れようとしなかったのだ。だからこそ、ついつい問いかけてしまったのだ。


「愛奈? どうした、おい、愛奈? 聞こえるか? おい、おい?」


 まるで夢遊病患者の如く、車いすをゆっくりと、ベットに横たわる妹の元へと近づけさせていった。顔には、白い布が置かれている。

 俺はそれをめくった。そこには、ただただ、能面の如く何の表情もなしに、目を閉じ静かに眠っている、妹がいた。

 確かだった。口は健康的な赤色ではなく、青ざめている。肌も冷たい。脳死状態だと、暫くの間は心臓などの器官も動いているのだが、肺を片方取ったこともあり、数日もしないうちに全ての機能を停止させてしまった。俺の目が覚めるまで、こうしてしっかりとした保存状態を保っていたのだ。


 ……語りかけるまでもなかった。この“画”は、ドラマやアニメなどでも幾らでも見たことがある。それが意味することを、わざわざ深く考えることはない。


「……爺さん」


「ん?」


「こいつの右肺……今、俺の右の胸の中にあるのか?」


「……そうじゃ」


「脳死寸前だったけど、もしかしたら助かるか持って可能性はあったのに?」


「そうじゃ」


「結果的に脳死にはなったけど、それでも、そのあとの処置によっては改善の余地も一応はあったのに?」


「そうじゃ」


「……つまり」




「……俺は、やっぱり“助けられた”のか?」




 爺さんは答えなかった。答えることによって、俺がどう感じるかをすぐに悟ったのだろう。


 だが、答えなくても、無駄にこういう時は頭をまわしてしまう俺は、理解してしまったのだ。

 いや、理解はしていたのかもしれない。だが、“受け入れてはいなかった”のだろうか。


「……」



 しばらくの間言葉を失った。いまこうして呼吸しているのも、全て、妹が自分の肺を俺に譲ってくれたからであるという事実は、当時の俺にとっては、大きな衝撃であった。

 自分の命を、自分の兄に預けたようなものですらあったのだ。その責任の重さを実感した瞬間……、


「……あ……」

 

 俺は、その“一瞬にして様変わりした現実”を、ようやく受け入れた。


「あ……ああ……ッ」



 そして、ほとんど、悲鳴にしか聞こえない泣叫を、妹から譲り受けた肺を使って発した。


 あんなでかい声が出せるのも、妹が肺を譲ってくれたからと考えると、それだけでも胸が張り裂けそうであった。その声は、部屋中に、いや、その隣にあった廊下にすら響き渡っていた。当時、そこに誰もいなかったと聞いているが、おそらく、こうなることを見越して、爺さんか、医者らのほうが配慮したのだろう。遺体安置所などではなく、なぜか個室だったりした時点で、誰かが手を加えたのに違いない。



 あっという間にひっくり返った現実。それを、簡単に理解することはできない。


 しかし、幸か不幸か、俺は比較的早い段階で理解し、受け入れた。余りにも受け入れがたいものだったとしても、それが、どうあがこうとも変わらない現実であると悟った瞬間、自分の非力さを感じたのだ。





 ……この時、まだ2020年。



 中亜戦争が終結した翌月の、10月のことである…………

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