周囲の異変
―――不気味な平穏が漂う夜の東京都。
晴れた夜の下、明かりがほとんどない暗闇の空間と化した首都圏は、異様なまでの静寂に包まれている。
光の届かない路地の裏など、誰の目にも入らないであろう場所を……
一人の人影が、素早い動きで去っていく……
[4日後 11月9日(土) PM23:41 東京都中央区外縁部 HZ情報収集部隊第3班]
今日も今日とて満天の星空だった。最近、若干雲はあるが晴れてはいる天気が続いている。一段と冷える夜の風さえなければ、もう少し楽しめたものをと、この季節を軽く呪うこともあった。寒い夜でも、星は綺麗に見えている。
相変わらず戦線は膠着していた。この時期なので、お互い下手に触れない様にするという方針がうまいこと合致しているのかもしれない。予想外の大地震という機会が、いつ崩れるかわからない不安定な“安寧”を作り出すという、なんとも皮肉めいたことが起きている。お互い、それをむやみやたらとぶち壊したくはないのかもしれない。
とはいえ、軍・警察の側としては、さっさと制圧してしまいたい衝動で駆られているようなものだった。事態の長期化は、政治的にも経済的にも、そして何より、国民の不安感増大を抑制する意味でも避けなければならない。既に政府に対する国民や経済界からの解決への圧力は日に日に高まっている。ネットじゃ「さっさとテロリスト共を潰せ」と非難轟々だ。マスコミも半ばそれを追従する形をとっている。
誰でもない、政府がそれを望んでいることであるというのは、当事者にしてみればすぐに察することに出来るものであるが、ここが、現場の人間と、液晶画面の前にいる人間の差であろう。責めるべくもない。
とはいえ、徐々にだがHZの情報も集まりだし、大体どうやって責めるべきか、もしくは、どうやって攻撃を受けたとき防衛するか、その検討が再度進められているらしい。いつまでも手をこまねいているわけにはいかない。
だが、一番不気味なのは、当の相手方があの大地震以降沈黙を保っていることである。いつもならSNSを使い政府に対し何かしらのメッセージを時たま送るのだが、あの大地震以降一切それらは途絶えてしまった。通信に使って居る媒体が地震によって壊れたのか、もしくは、意図的にそうしているのかは、一切判断できない。
「大地震を使って、何かやろうとしている可能性」。この不気味な沈黙は、日本の軍・警察の首脳部にそのような疑念を生ませる結果となっている……。
「ポジションチェック」
「チェック」
「タイム、2345。これより監視を開始する」
中央区の外縁部にある少し高い建物の屋上に来た特察5班、もとい、『HZ情報収集部隊第3班(チーム・ガンマ)』は、例によって例の如く交代制の監視任務に就いた。
部隊名も仮だが若干変わっている。ただし、所属が変わるなどということはなく、単に名義が仮の物になっただけである。コードネームも単にギリシャ文字の『γ』からとってきただけである。
今夜一杯の夜勤を任されたが、寒さ対策のために防寒着を持ってきて正解である。高い所なのでやはり寒い。今日ばかりはユイも少し厚着をしている。
最初任務に就くのは俺とユイである。ユイがスコープを覗きながら、俺は双眼鏡を覗きながら、中央区内部を見える範囲くまなく監視した。……尤も、案の定というべきかどうなのか、しばらく見張っていてもこれっぽっちも人どころか猫一匹の陰すらない。暗視モードからサーモモードにしても同じである。寝てるのか。
「(……少し入ってもバレないんじゃねえかってぐらいだな)」
もちろん、ここにいろと言われている以上何があっても移動はできないが、少々機会的にもったいない気がしないでもなかった。ゆえに、あまりに暇すぎるのだ。
「……うぇ、さむ」
風が出てきた。高い所な上、湾に近い所であるため、海風が結構吹く場所にある。季節が季節なのでこれがまた冷たい。なぜこの市街地迷彩の戦闘服は中にヒートテックな電熱線が入っていないのか。今時市販ですら売ってるものを。
……こういう時、
「……恨めしや」
隣の相棒がほんとに羨ましくなる。コイツにとっては寒さなんてさほど重要なことではない。人間ほど外気温に敏感ではないのだ。
確かに厚着はさせたが、同じく厚着をしている周りに溶け込むために念のため身につけさせたにすぎず、はっきり言ってコイツにはいらないのである。
……今だけコイツの来てる厚着分貸してくれんやろか。
「……どうかなさいました?」
「ん?」
目線だけ俺の方に移してそう聞いてくる。やはり視線ぐらいは察せられているらしい。
「いや、寒くなさそうだなって思っただけ」
「寒いですか?」
「今何度だと思う?」
「さあ?」
「10度だよ10度。しかもここの場合は海風がバンバン吹いてくるから実際はもっと寒いはずだぞ」
「10度ぐらい耐えなさい男の子でしょ」
「男性って言われるぐらいにはもう年取ったよ」
母親みたいなセリフだなおい。そう話しているうちにまた海風が吹いてくる。しかも少し強めだ。無防備な顔面に海からの冷風を受け、再び体を震えさせた。当然だが、ユイはびくともしない。
「……そんなに寒いんでしたら私と引っ付きます?」
「バカ言え。カップルじゃあるまいし」
「まあまあ。人肌は暖かいらしいですよ?」
「お前は正確には人肌じゃないだろ。あとそこまであったかいか?」
「……あれ、冷たい」
「だろうね」
軽く腕とかを触って確かめるユイ。一応内部に電機は通ってるが、人間ほどではない。内部の熱はすべて呼吸を通じた排熱で処理される構造のため、そもそもそのほかの部分に熱が溜まること自体設計段階から除外されていたのだ。
……ゆえに、人間みたいに人肌が暖かいなんてことはコイツにはない。
「ちぇ~、今なら引っ付くチャンスだったのに」
「単に触りたいだけだろ変態」
「触りたいだけとは失礼な。私は純粋に人肌をあっためようとしてですね」
「服越しにどうやってやるんだよ」
純粋にあっためようとした割には引っ付くチャンスとか抜かしてた数秒前の自分を忘れてるんだろうか。
「寒ければ少し奥の方にいてもいいですよ。どうせこの時間帯は動きないでしょうし。あそこなら風あたらないでしょ」
「まぁ……でも一人でできるんか?」
「むしろ一人でもできるようになってるのが私なんですけどね。ほれ、さっさといきなはれ」
「へいへい……」
今日に関しては別に疲れちゃいないんだが……まあいい。どうせそろそろ交代の時間である。少し早めに抜けてもユイなら俺の分もカバーできるだろう。
そう考えつつ、少し周りを見渡して双眼鏡を下ろそうとした時である。
「……ん?」
一瞬、ビル陰に誰か人の姿が見えた気がした。結構早い。銃を構えたりしている様子ではなかった。
……が、次の瞬間にはその影っぽい何かは見えなくなった。
「なあ、今あそこ誰かいなかったか?」
「え? どこですか?」
「ほれ、あのビルの間。木あるだろ」
ユイに影が見えた場所を教え、そこの場所をX線走査やらUAVデータリンクやらで確認する。高高度を飛んでいる無人UAVの位置からして、一応この俺がしめした場所は見えなくはないはずだが……。
「……見えませんよ? 確認できる敵の位置と照合してもちょっとおかしいというか……一人?」
「一人」
「じゃあ余計わかりませんね。少なくとも見えないんで、たぶん気のせいでしょう。いたら反応ありますし」
「そうか……」
機械の目でも見えないとなると、まあ動作がしてもムリだろう。人間の目なら時々ありもしないものを映すことがあるし、もしかしたら本当に気のせいだったのかもしれない。どっちにしろ、今はもういないので確かめようがない。
「……まあ、居ても手は出せないしな。すまん。じゃああとは頼む」
「了解」
一先ず、ここは気のせいだったということにした。信ずるは機械の目である。
残り少ない交代までの時間はユイに任せ、少し早めに上がった。隣のもう少し高いビルのおかげで風が入りにくい場所に移ると、交代待ちの和弥と新澤さんが地面に座って待っていた。
「……また謎解きですか?」
小型ライトを地面に照らしてるため、てっきりそうだと思った。事実、そのライトの先には前々から持っていたメモがあった。しかも、これまた手持ちの水筒でメモが飛ばない様に抑えている。
……しかし、二人の注目はそっちではなかった。
「ああ、祥樹。交代の時間か?」
「いや、ちょっと早く上がっただけ。んで……そのタブレットはなんだ?」
二人はタブレットの方を見ていた。いつも和弥が持ち歩いている支給された小型の奴である。そこには、つい先ほど速報で入ったらしいデータが映っていたが……。
「見てみろよ、これ。明らかに変だろ」
「ぁん~……?」
その画面を見てみると、確かに和弥がそういうのも納得であった。
市ヶ谷にある国防省直轄の情報保全隊が、敵のスパイ容疑で捉えた敵とその内約が、一部の部隊に対して公開された。このスパイとされる人物と同様の条件を持つ誰かがいたら、すぐに報告できるようにするためだという。あくまで一部の部隊なのは、情報保全の観点から、信頼できる部隊に対してしか渡さなかったからだという。ゆえに、タイトル部分に『機密事項』とデカデカと書かれている。
……が、その内約を見て不審に思った。
「……層が幅広いな。下っ端から高官までいるぞ」
大体二十数人といったところか。思ったより結構な人数がおり、その時点で結構不審に思うが、その二十数人の身分が幅広い。下はつい数年前入った新米の兵士から、上は現役の幹部や将官まで。ここまで幅広い階層にいるため、より幅広い情報を収集できたのだろうと和弥は予測した。
……しかも、本来あってはならないことなのだが……
「見ろよこれ。国防軍の統合参謀本部の情報官までいるぜ」
「うへぇ……マジかよ」
統合参謀本部の情報官といえば、同じ国防省にいる情報保全隊と統合参謀本部とを情報関連で繋ぐ立場の人間だ。複数人いるのだが、そのうちの一人が敵とグルだったということになる。これでは、軍に関する重要情報がほぼ丸裸も同然だ。結構な数の情報が流れたに違いない。
「彼はつい先月この情報官に入ったばっかだ。それまでは限定的な情報しか受け取ることはできなかったかもしれないが、そのあとたった1ヵ月と言えど、結構な分の情報を受け取ることになるし、何なら自らアクセスすることも可能だ」
「おまけに、このテロ発生当時は、国防省中央指揮センターのほうで情報統括の幹部を務めていたそうよ。前に、私たちを核兵器を含む偽情報で攪乱してた、情報統括部門のスパイがいたって言ってたでしょ? あれの直接の上官に当たるらしいわ」
「てことは、繋がっていたと?」
「と、言いたいんだがな……」
「え?」
和弥が首をかしげて訝し気な表情を浮かべる。
「羽鳥さんとも確認取った噂なんだがな、実はそいつ、単にスパイにでっち上げられただけじゃね?って言われ始めてるらしい」
「え、マジで?」
驚いたことに、最初犯人だと思っていたその人は、実は真犯人に犯人として仕立て上げられただけの被害者ではという噂が出始めているらしいのだ。少なくとも、上層部はそういった疑いを出しているのだという。
「どうもね、元々最初攪乱をしていたって疑いがかけられた情報統括部門の人をスパイ容疑で告発した人が、このスパイ容疑で捕まった人のリストに載ってるらしいのよ。誰の事かはさすがに教えてもらえなかったけど、もしかしたら、そいつが自身が疑われるのを避けるためにわざとスパイをでっちあげたんじゃないかって言われててね……」
「しかもだ。その告発した人も、一時期先に言った情報官の部下だった時期があってだな。あと、その人は前は生粋の背広組で、前は警視庁公安部にも出向してた時期があって、そうなると今度は公安にもスパイ分子が入ってる可能性が……」
「おいちょ待て待て待て。もうちょいわかる様に説明しろ。つまりどういうことだ?」
「だから、こんなにスパイ容疑ある人がいると、その人らと関係ある人らに対しても注意を払うとなると、それぞれの人らの関係図がものくっそ複雑かつ大規模になって、とてもじゃないがすべてを捕らえ切れないかもしれないってことだ。多くの人と接触してて、その中にもスパイの疑いがある人が出てくると……」
「……“容疑者が、あまりに多くなる”と?」
「そういうことだ」
和弥は頭を抱えていた。情報に関わることが多い人間として、こんな状態になることのキツさを理解しているということなのだろう。
今まで出てきたスパイ容疑が掛かっている人の中から、同じくスパイをやりそうな人らを洗っていくと、膨大な数になる上、しかも、和弥の話によれば、その人らがいるポジションもあまりに幅広くなっているのだ。軍に限らず、警察や公安、中には政府やただの民間企業にまで入っている。
仮に、これらすべてが本当にスパイだったとすれば、俺らは気づかないうちにとてつもなく大規模な『テロリストによるスパイネットワーク』を、あろうことか“政府関連組織内部”に構築されていたということになり、情報機密なんてあってないようなものということになってしまう。
ここまでくればもう笑うしかない。考えてみれば、近年、テロリストらによる情報収集を阻止するためという名目で、『国内の不正な情報収集を禁止する法律』として、マスコミの言うところの『スパイ防止法』なるものができたとはいえ、あくまでつい最近の話で合って、これが構築されたのがそれよりはるか前だったとなると、テロリストにしてみれば“今更”と言えなくもない。
スパイ活動阻止のための法律ができたところで、それを一からぶっ壊すのは結構な時間がいるし、あくまで“ネットワーク”なため、やろうと思えばまた消えた“ノード”の分は他から持ってくればいいのである。簡単にできるかは別として、理論上そういうことは可能ではあるのだ。
……これが事実とすれば、誠に恐ろしいことであると同時に、ある意味、この東京都のテロは“起こるべくして起こった”ともいえなくはなくなってしまう。
「(……仮にそうだとしたら、あいつらいつの間にこんなネットワークを都内に……)」
もしかしたら、都内ではないどこか地方かもしれない。だが、国内のどこかにこれ紛いのものが構築された可能性はある。
「……どこぞのロボットアニメ映画の『後藤警部補』の言葉が身に染みるね」
「まったくだ。まだ確定ではないからどうともいえんが、仮にガチだとしたら、あまりにも気づくのが遅すぎたってことだな……」
同感だ。ぜひともこれはただのデマか何かであることを祈るが……おそらくそんな願いは打ち消されるだろう。尤も、これがデマか、もしくは誤情報だったら誤情報だったで勘弁してほしいところだが、先にあった“最初の情報統括部門の彼はでっち上げ”のうわさを聞いてる限りだと、ありえそうで困る。
「政府や軍としても、これ以上の機密漏洩は避けたいらしい。一部の部隊に対して、何か心当たりある奴いたら即行で報告しろと言ってきおった。噂レベルでもいいから検証材料をくれってことだろうな」
「結構な焦りようなこって……」
尤も、あまりに広大なネットワーク構築をされてるかもしれないとなったら、焦らないほうがおかしいともいえるが。本来なら、これは構築される前に潰すのが基本なのだ。
とはいえ、今のところ俺らに何かスパイで心当たりがあるかって言われても……
「……いるわきゃないわな」
「私たちはまだしm……あ、あんた大量に情報持ってるわよね?」
「やめてくだせぇ新澤さん。ジョークが過ぎまっせ」
「冗談よ。アンタがする理由ないじゃないの」
「ハハハ……」
冗談半分で一瞬和弥に疑いが掛かったが、まあ、親友関係だったりすることによる信頼バイアスを抜きにしても、わざわざこれをやる理由がない。むしろコイツの場合、家柄が家柄なので伝統を重んじたりすることがあったりするため、あろうことか陛下が居られる東京を襲撃するテロに加担するわけがないのだ。コイツ自身、そういう意味では陛下を尊敬してる立場である。かつて、都内でカーチェイスをした時、皇居の前を爆走する際和弥が思いっきり慌てたが、そういう理由もあったりするのだ。
和弥が情報を漁ってくるのは、あくまで“趣味”の範囲であって、それは自身が認める信頼できる相手以外には絶対に口外しないことは、俺自身もよく知っていた。
かといって、もう少し視野を広げたところで、誰か該当する人間がいるかと言われても何も思いつかない。二澤さんやら結城さんやらみたいなのはまあないだろう。その部下も、なぜか知らないがあの二人と同類みたいな性格や性癖を持つ奴らが固まってしまっており、そういうのとはある種無縁ともいえる人間だ。
それ以外でも、日常では変態かまる奴等ばかりなため、どう見ても裏でこそこそやってそうな人間なんかとは思えないが……。
「(……まあ、こういうのだと意外な人物がスパイだったりすることもあるしなぁ……)」
犯罪とかが起きると、その容疑者に関わる人々が口々に「真面目で犯罪をする人ではなかった」みたいなことを言うように、「まさかあの人が」という奴こそ裏で色々やってたりするのだ。だが、そう考えると、絶対にやってないと確認できる自分自身以外、案外誰でもやっていそうなものなのだが……下手すりゃユイだってやれるって話になってしまう。そんなアホな。
「(……わっからねぇ……)」
正直既にお手上げなのだが、まあ、報告を義務付けられているというわけではない。それっぽい変な人がいたら教えてくれという話なので、焦らず慎重に周囲を見渡すこととしよう。もちろん、なるべく疑いをかけまくらない様に気を付けなければならない。
「まあ、わからないもんはしょうがないし……続きやりますか」
「続きって……あぁ、それか」
一先ず、この話題は「今のところわからんから後にしよう」ということで落ち着き、目の前にあるメモのほうに視点が集中した。
残っているのは【ベトナム センター 街 名前 返ってくる数】なのだが、どうやらそっちは新澤さんがさっきようやっと解いたらしい。
「昔中学の社会科の授業で習ったのふと思い出したのよ。ダナン市って昔、ベトナムがフランス領インドシナだった当時って別の名前だったのよ」
「別の名前って何です?」
「『ツーラン』」
「ツーラン? ……あぁ! ツーランってアレ!?」
「そう、あれよ」
ツーランといえば、日本ならよくスポーツで聞くことが多い用語だ。
当然、“野球”のことである。
「ツーランって言えば、“ツーランホームラン”の略でよく使う言葉よね。“ベトナム”の“中央直轄市”のダナンって“街”の、昔の“名前”のツーラン。ツーランといえば野球。ツーラン打って“返ってくる数”は?って繋げれば……」
「打者と走者の合計で2人だから……“2”か」
「そういうこと。我ながらよう思い出したと思うわ」
そういって新澤さんがドヤ顔をかました。頭のもやもやが消え去ってすっきりしたという様子だ。
「そうか、昔の名前は想定外だった……というか、こういう系和弥得意そうだけどな」
「ベトナムの昔の街はちょっと範囲外だったんだよ。これはしてやられたな……」
和弥も「参った」といった様子だった。ちょうどここは抜けていたらしい。確かに、和弥によればベトナムはフランス領インドシナとして、隣国のラオスやカンボジアを合わせた同国の構成地域とされていた時期があったのだそうだ。その時に、名前を変えられたのだろう。
「……よくまあ思い出したもんですね」
「いやぁ、ユイちゃんが「昔の名前とか通称とかそういうのは?」みたいなこと言ってたから何かあったっけ~って考えてたら、偶然ね」
「へぇ~」
さりげなしにユイの言葉がヒントになってたわけか。ユイもユイだが、それだけで思い出す新澤さんの記憶力である。中学時代の社会科の授業なんて何をやっていたかもう半分くらいは覚えていない。
……で、それはもう解決したのである。これで、4つの暗証番号が判明し、あとは入力するだけとなった。だが、そこで最後の問題がある。
「あとは、それを“どのぬいぐるみに入れるか”なんだよ……んで、それに関するヒントがこれ」
和弥がメモを指さした。これも、信頼のおける司令部要員の人から借りてきたようで、それには、たった3つだけあった。
「古の笑顔の芸、猿ではない、遠吠えの犬、大陸国が答え……なんだこりゃ」
今までの物よりもっと分からなかった。何が何やらさっぱりである。
古の笑顔の芸と言われても、昔流行った顔芸の事か何かかとしか言えない。猿ではないといわれても困るし、遠吠えの犬とかも、文字通り遠吠えする犬が何の意味を持つのか。「ワオーン」てか。
……んで、大陸国が答えと言われても、その大陸国とやらは複数あるわけだが……。
「……何か思いつくか?」
「んにゃ。さっぱり」
和弥の答えに俺は即答した。しかし、和弥から返ってきたのは以外なものである。
「一応さ……一つ目と二つ目のこれはわかったんよ」
「え? マジで?」
「おう……たぶん“狂言”のことじゃねって思う」
「狂言?」
狂言といえば、昔の伝統芸能である。日本で独自に発展した笑劇で、今でも全国で公演することがある昔からの伝統的な文化の一つだ。
和弥が解説する。
「まず、古ってのはようは昔のことな。昔の文化の中で笑顔、つまり笑いに関するものって言えば猿楽と狂言がある。猿楽は狂言の基にもなったもので、明治維新以降はこの二つは“能楽”って形で総称されてた。だが、“猿ではない”って部分からして、たぶん猿楽のほうじゃない。てなると……」
「狂言が残るってことか」
「そういうこと。たぶん、一つ目と二つ目の答えはこれだと思うんだがなぁ……」
なるほど。間違ってはないかもしれない。
能楽といえばユネスコにすら登録されている伝統芸能である。少なくとも、日本の古代芸能を代表する者であったのは間違いない。
そこから猿楽の方を取ったものを言えば、狂言のみであろう。こっちも、十分お笑い文化である。
……が、和弥はそこで詰んだらしい。
「でもさぁ、この狂言が何をどうやったら次の二つにつながるねんって話になってだな……そろそろ実は狂言って違うんじゃねえかって思って猿楽の方も考えたんだが、もっとわからんっていうね……」
和弥はため息をついた。新澤さんも、そんな昔の文化が関わる部分まではわからないらしい。そもそも、彼女は狂言は昔学校の文化教育の一環で、学年全体で公演を見に行った時ぐらいしか経験がないらしく、知識に関してはもうさっぱり忘れたのだそうだ。
俺自身も、狂言なんて正直生で見たことがなかった。このヒントの答えが狂言に関わるものだとしたら、俺は完全にお手上げである。わかりもしないのだ。
「……ユイさんに頼む?」
和弥がふと小さくそんなことを言った。
「また? アイツだってさすがに狂言はわからねえだろ」
「わからんぞ? 実は密かに調べたりしてたかもしれねえし」
「狂言に興味持つ機会を与えた記憶ないんだがな……」
いつも貸してる小説などにも、狂言に関わるものはなかったはずだし、描写もない。ほか、TVでも、最近は狂言に関する内容は放送していなかった。当然、ユイも見ていない。休日中、新澤さんに預けていた時を考えたが、新澤さんも記憶にないという。
「……ダメ元で聞くか?」
「ダメ元ではまぁ……」
だが、正直こればっかりは無理だろうと思った。いくらユイっつったって、なんて狂言の事知ってにゃならねんだって話にすらなる。戦闘用ロボットに必要ない知識だ。
とはいえ、頼るものがないため、ダメ元で聞いてみることにはなった。一応、俺たちが絶対に解けというわけではなく、これ自体半ばボランティア的な感覚でやっているだけなので、解けないならもうそれでおしまいか、もしくは保留ということにした。
……のだが……
「……あぁ、これね。わかりました」
「はいぃ!?」
コイツ、答えにたどり着きやがったのである。ここにいた人間勢3人は呆然とした。
「……え、マジで? わかっちゃったの?」
「わかっちゃいました。ただの連想ゲームみたいなものですよ、これ」
「いやいやいやいや、連想ゲームいうても知識いるでこれ。知ってたの?」
「知ってました。狂言あたりなら前聞いたことあるので」
「えぇ……」
どこから聞いたんだ。というか、どこから情報を仕入れたんだ。たった今調べたなんてことはあるまい。民間ネットワークへのアクセスはコイツといえどできなくなっているはずなため、知識面ではほぼゼロのはずなのだ。
……が、いつの間にか知っていたらしい。ユイは解説した。
「まず、狂言はまあ正解でしょうね。理由も和弥さんと同様です。それで、この遠吠えの犬なんですけど、これ、狂言だと遠吠えってなんて表現するか知ってます?」
「え?」
「わおーん」じゃねえのかい。よく言うだろ。「ワオーン」って。新澤さんもそうだと思っているようだった。
しかし、和弥は違う回答を出した。
「“びょう”ですよね?」
「え、びょう?」
なにその風が吹いた時に表現しそうな言葉。しかし、和弥によれば、昔は犬が遠吠えしたりするときは「びょうびょう」と表現したのだそうで、江戸時代あたりから犬の鳴き声が「ワン」になったらしい。古典書物などによって表記揺れがあったりもするうえ、こうなった明確な理由はよくわかっていないが、有力な説としては、当時の人々は犬が遠吠えするときの鳴き声が「びょう」と聞こえたからではないか、とされているらしい。どんな耳だよと思わなくはないが、まあ、昔は本当にそう聞こえたのかもしれない。
「ですが、そのびょうびょう表現するのが何の意味があるんで?」
「そこで3つ目に繋がるんです。この大陸国が答えというのは、狂言ができた当時の大陸国です。当時の日本にとって、大陸国といえばお隣の……」
「中国だな」
「そうです。当時中国は世界の中心ともいえる存在でした。当時は色々なものが中国から日本に伝わってきましたが、その中に紀伝体と呼ばれる歴史書の書式も入ってきます。後に使いやすい編年体という書式を使う人も出てきますが、中国の伝統を受け継ぎたい人は、この紀伝体を使い続けて歴史書を書いた人もいたそうです。ここら辺は、時代が進むにつれてどちらを使うかは好みの問題になってきていますね」
俺と新澤さんはこの時点で何が何やらさっぱりになってきた。だが、家柄のせいであろう。和弥はそんなに風にはならず、余裕の面持ちで聞いていた。俺は紀伝体がどーたらの時点で半ば話をスルーし始めた。つまり、「大陸国が答え」というのは、その中国から伝わってきた紀伝体を使った書物が関係するってことでいいのだろう。
ユイはそのまま続ける。
「それで、実はここから前に言った大鏡の話になるんです」
「大鏡?」
前に、ユイが一つ暗号を解読するときに持ってきたものである。どうやら、あのヒントとこれは繋がっているのだそう。
「大鏡に関して思い出したんですけど、あれ、紀伝体で書かれてるんですよね。四鏡のうち、大鏡と今鏡は紀伝体で、あと二つは編年体なんです。……それで、考えてみてください」
「はい?」
「四鏡あるじゃないですか。『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』。これ、鏡を取ってみると、『大・今・水・増』。どっかで聞いたことあるなーって思い出したら……」
「……ん?」
……待てよ? 「大・今・水・増」。確かにどっかで聞いたことがある。4つのこの漢字……確か、これ最初は漢字じゃなかったはずで……
「……あぁわかった!!」
新澤さんが思い出したように叫んだ。次の瞬間、俺と和弥もすぐにユイが言いたい答えを頭に浮かべる。
和弥が代表するように言った。
「……ぬいぐるみに書かれてる英単語に合致しますね」
「そういうことです」
そうだ。例の4つ仕掛けられたぬいぐるみ。あれにはそれぞれ『BIG』『NOW』『WATER』『INCREASE』と書かれてあった。それぞれを英語に直すと、『大・今・水・増』となる。
……つまり、あの英単語は、すべて“四鏡の最初の文字の英単語”を示していたのだ。
「それで、最初の狂言と犬の遠吠えに戻ります。実は、犬の遠吠えを最初に「びょうびょう」と表現したのって、“大鏡”なんです」
「え、その書物が最初なのか?」
「ええ、これが最初です」
正確には「ひよひよ」だったそうだが、当時は濁点がなかったため文字ではこう表現しただけで、実際には「びょうびょう」と表現したいたとされているらしい。和弥も思い出したように頷いた。
「確かに、正確には「びよ」だったりと表記で色々揺れてはいるが、少なくとも大鏡の時にそう書かれていたってのは聞いたことがある」
「てことは、今鏡は除外されるから……」
「残るは『大鏡』のみ、“BIG”と書かれたぬいぐるみです」
「そのぬいぐるみがあるのは……」
その瞬間、全員の頭に、あの高層建造物が思い浮かんだ。
「……『東京スカイツリー』……ッ!」
BIGと書かれたぬいぐるみがある建造物。それは、東京都内一の高さを誇り、同時に、電波塔としては世界最大の高さとなる、東京スカイツリーだった。
となると、ここで暗号を入力すべき対象は、このスカイツリーにあるぬいぐるみということになる。
「……つまり、最初っから四鏡さえ知ってりゃぁ、答えはすぐにたどり着いたって話?」
「話、だな」
わかってみると案外拍子抜けした。こうも簡単な話だったのかと、むしろなぜ今まで悩んでたんだってぐらいあっけなく解けてしまった。それも、ある意味人間より硬いはずのロボットの頭で解けるのである。
「……よくまあ四鏡とか狂言とかの話知ってたなおい」
「偶然ってのは怖いものでして」
怖すぎるわむしろ。
「だが、これのおかげですっきりした。今は無線は無理だから、帰ったらさっさと報告しないとな~……。あ、そろそろ交代行ってくるわ」
「そうね。でも、あれだけ悩んだ割にはあっという間に解けちゃったわね……」
「ロボットの頭にはかないませんってこった。こういうところは、人間様はロボット様にはかないませんわなぁ~」
和弥は感心したように監視ポジションについた。交代の時間が迫っている。さっさと新澤さんも後をついていき、その任に着いた。前よりすっきりした表情である。悩み事が解決した時ほど、精神的にすっきりするときはないであろう。
「……お前そんなに謎解き得意だったっけか」
「ロボットの頭舐めたら痛い目みますよ」
「物理的にか?」
「頭脳的に」
思わず口笛を吹いた。感心せざるを得ない。今まで人間があれやこれやと悩んでいたことを、こうも簡単に解かれるとは。こりゃ最初っからユイに丸投げしてたほうが早かったのではないだろうか。ベトナムのアレだって、ユイならインターネットを使わずとも、少し時間をかけて本使って調べたらすぐにわかっただろう。新澤さんに有力なヒントを無意識のうちに教えたくらいである。
「ふぃ~……頭使ったら少し疲れたんで休みますね」
「おう」
でもそんなに頭使ってたかね、というツッコミをしたくなったが、その前にユイはそのまま寝込んで急速に入った。軽く寝ていやがる。よくまあこんな状況で寝れるもんだ。
……しかし、時間帯が時間帯である。眠くないといえばうそになるだろう。俺も、近くの壁に背をもたれて少し目を休めることとする。
「(……しかし、あれだけ悩んでたのが嘘みたいだな……)」
時間かけて皆悩んでたのに、あっという間に解けてしまった。まあ、これで万事解決だろう。爆弾の件は、これで何とか処理できそうだ。帰ったら和弥あたりからその信頼のおける司令部要員とやらに伝えてもらって、さっさと解決してもらえばいい。
暗証番号のヒントも、これで俺たちの手からは用済みに……
「(……ん?)」
……暗証番号……ヒント……、あれ?
「(……何か忘れてるような……そうでないような……)」
一瞬そんな疑問が頭をよぎったが、答えが出ないまま、そのまま短い眠りについていた…………