初夏の酔い
夢の中で私はいつも、赤いヒールを履いている。ヒールを履いた私は前へ進も
うとするのだけれど、なぜか足が言う事を聞かない。前にも進めず、後にも戻
れず私は途方に暮れている。そこで、いつも夢はさめる。
でも今日見た夢は少し違った。
目覚めると私は、グラスに冷酒を注ぎ、窓辺に立って先ほど見た夢を反芻して
みた。
…今日のあの夢の中のあの違和感はなんだったんだろう?
私はゆっくりと考えて、やがて、ハッと思い出した。
…そうだ、私は赤い靴を脱いだんだった。
それから私は、視線を落とした。そこには夢の中のあの赤い靴とそっくり同じ
ヒールが飾ってある。これは2年前にべネチアで恋人と一緒に買った物。思わず
知らず、私はヒールを指でなぞる。褪せた赤にかぶさった埃が私の指を少し汚
す。
…でも私はなぜ、夢の中でヒールを脱いだんだろう?
そんな事を思いながら、私はパソコンの画面を開いた。メールをチェックする
が今日は誰からも届いていないようだ。一抹の寂しさを感じながら、私は昨日
届いたメールを開いた。
差出人は「Atsushi Tadokoro」
『桜井先生こんばんは。田所です。
いい季節になって来ましたが、いかがお過ごしですか?
僕は相変わらず仕事に追われています。
最近、新人作家の担当になったのですが、これがまた大変です。
ところで、そろそろ先生の作品が読みたいなー
という、読者の声があちこちから聞こえてくるのですが。
一度お伺いしても良いでしょうか?(もちろん仕事で)』
私は、それを読んでくすっと笑う。
私の作品が読みたいという、『あちこちにいる』読者って一体誰かしら?
私は会った事がないわ。
田所厚は2年前から私の担当になった若い編集だ。初めて会った時の緊張の仕方
がすごかった。真っ赤になって、俯いて声が震えていた。私はそれがおかしく
て、笑いを堪えるのに必死だった。後で田所本人が言っていたが、一応ベスト
セラー作家と言われる私と、何を話せば良いのかまったく分からなかったのだ
そうだ。真面目が行き過ぎてユーモラスな仕草がなんだかおかしくて、この人
大丈夫かしらと思っていた。でも最近はとてもたよりになるパートナーになっ
ている。私がスランプになってからも、甘やかすでもなく突き放すでもなくずっ
とこうして連絡を絶やさずにいてくれる。
そんな田所が、一度だけ悲しそうな顔を見せた事がある。
それは、この赤いヒールを見た時だった。
この靴がいけないんだわ。
私は、そう思いながら赤い靴にまた触れた。その指先にあの日の彼の姿が重な
る。彼…藤崎竜一は、あの日こんな風にしてこの靴を愛おしげになぞっていた。
そして、その時私が身につけていた唯一の物が、この赤い靴だった。彼の指は、
赤い靴をなぞり、やがてその先に続く私のふくらはぎに触れて来た。そしてふ
ざけてこう言った。
「美樹は、この姿が一番綺麗だ」
「変な趣味」
私は答えた。
竜一は
「なんだと」
と、言うと私の足の甲に口付けし、そのままゆっくりと下を這い上がらせて行っ
た。それから、絡み合う私達の目に、時々赤いヒールが咲きこぼれる花びらの
ように映っては消えた。
あれから1年。
いつからか、私はこうして1人で赤いヒールをもてあそんでいる。
…でも、今日の夢の中ではこの靴を脱げたんだわ。
そこまで考えた時、メール着信を知らせる音が聞こえた。
開いてみると田所からのメールでこう書かれていた。
『先生、お元気ですか?
先生の小説、本当に待っているのは誰よりも俺です』
私は、それを読むと久しぶりに返事を書いてみた。
『あと少しだけ、まって下さい』