窓
すべての荷物を運び入れて、僕は一息ついた。部屋は綺麗に片づけられているが、隙間風があるのか、モルタルの粉が薄く床板を覆っている。一度水拭きしないといけない。
大学進学を機に一人暮らしをすることになった。とはいえ、仕送りが僅かしかないので、アパートもそれに合わせて探さなければならなく、一番安かったのがここだった。築百年近く経っているそうで、破格の家賃で借りることができた。内装は何度も補修されているし、電気も通っているそうだから、そう困ることはないだろう。石造りゆえに冬場相当冷え込むそうだが、それはまたその時に考えることにした。
段ボールの中から雑巾を引き出し、バケツに水を張った。だが、まず箒を掛けなければ。相当埃が舞うだろうことを覚悟して、僕は観音開き式になっている、この部屋の窓を開けた。開ける前の窓からは下の通りが見えていた。
「誰だ!」
声をあげられても、僕は反応のしようもなかった。先ほどまで、風の通り道である唯一の、その窓の外がどこかの部屋に繋がっていたのだ。あるはずのない部屋で、あるとしたら、不自然に通りに突き出しているであろう部屋。しかし、入居の前に一度外から確認したのだから、それはない。ならば、今この状態はどういうことなのか。
向こうの部屋の住人もその不自然さに気がついたらしかった。目をこすり、大きく息をついている。とりあえず、僕はまた元のように窓を閉め、外の風景が映っているのを確認して、もう一度開けた。
「いつの間に増築したんだ?」
彼は言った。向こうの住人は窓のすぐそばまで移動していたので、僕は思わず小さく声をあげていた。この異常事態を確認しに来ていた彼からは、油彩のにおいがした。
「ここの窓が、唯一明かりとりだったんだが」
彼はため息をつく。僕の部屋がそうであるように、彼の部屋もここが唯一の窓だったらしい。中を見てみると彼の部屋にはランプが一つ。僕の部屋と同じような間取りに、小さなテーブルとベッドと、反対側にはイーゼルに掛けられた白いキャンバス。電気はどうやら通っていなさそうだ。
「開ける前は窓だったのに」
そう僕が独りごちると、彼はそれに応えて返す。
「今だって窓さ。ただ、外が空でなくなっただけだ」
そうか、と僕が応えると、彼はようやく不思議そうな顔になった。
「鏡になったわけでもないらしいな」
そう言った彼は、本当に僕とよく似た顔をしていた。
「疲れてるのかな」
僕が呟くと、彼はそれに継ぐ。
「それか、頭がおかしくなったかだ」
そして、彼は驚くべき言葉を続けたのだった。
「ここしばらく、爆撃が続いたからな」
そう言い終わるか終わらないかで、ずん、と体を揺するような衝撃があって、彼の表情が一変した。そして、彼はすぐさま窓に手をかけた。
「じゃあな、ルストロ」
僕のことを「鏡」と呼んで、彼は窓を閉めた。窓の下では変わらず人が歩いていく。
あれからしばらく、掃除の途中だったことを思い出して窓を開けたが、彼の部屋に繋がることはなかった。引越しや入学手続きで疲れていたのだろう、と僕は白昼夢を見たことにして、引越し作業を続けた。沸かしておいたお湯でコーヒーをいれ、組み立てたばかりのベッドに腰を下ろす。改めて、小さな部屋だと思う。ベッドを置き、残りのスペースにパソコンデスクと椅子、作業台。その残りもじきに紙で埋まるか何かするだろう。入学前から書きためていた細工物のデザイン画を手に取り、これで食っていければと思う。センスがものを言うとしても、学ぶことは多いはずだ。そのためにわざわざ実家から遠いこの美術大学に入学したのだから。
風が吹き込んだのか、窓が音を立てて閉まった。風で容易に開閉するとなると、いよいよこの部屋の古さを実感する。湯を沸かした湯気がこもってしまいそうで、僕は窓を開けようと立ち上がった。とたんに、また窓が開く。
「やっぱり幻じゃなかったんだな」
また彼がいた。窓は部屋と部屋の連結口となり、彼の部屋の方から埃っぽい臭いが漂ってきた。
「どうやったら、空中に家を持って来られるんだ?」
彼はそう尋ねたが、僕からしてみれば宙に浮く部屋は向こうの方だ。首をすくめて見せると、彼も頷いた。
「いい匂いだな、コーヒーか? ルストロ」
「貰いもののインスタントだよ、よければどうぞ」
彼は礼の言葉とともに、カップを差し出してきた。一度窓から離れて、インスタントコーヒーにお湯を注ぎ、彼の方へ振り返る。
「ミルクと砂糖は?」
「あるのか? ……お前の部屋は何でもあるんだな」
砂糖二つ、と彼は指で示して見せて、彼は珍しげにこちらの部屋を眺めていた。そして、さっきまで僕が見ていたデザイン画を指し示す。
「お前も、絵を描くのか? 見せてくれ」
彼の顔がひときわ輝いたように見えた。別段悪い気もしなかった僕は、ベッドの上のデザインをいくつか渡して、コーヒーも渡す。
「絵じゃない。ただのデザインだよ。そこからアクセサリーにするんだ。……それに、まだ僕は学生だ」
「そうか、俺もだ。それにしても、すごく綺麗だな」
「ありがとう」
帰ってきたデザイン画を作業台に置き、自分の分のコーヒーをもう一杯作る。そして、また窓辺に戻り、彼に尋ねる。
「僕はミロスワフ。今年から美大生だ。君は?」
冷めるのを待ってコーヒーをじっと眺めていた彼は、恐る恐る口をつけて、応える。
「俺はシモン。三年だ。……なぁ、俺はあんたのことを『ルストロ』と呼びたいんだ。駄目か?」
「どうして?」
彼は笑う。
「なんとなくだ」
なぜかつられて僕も笑う。
こうして、窓を隔てた奇妙な共同生活が始まった。
共同生活が始まって一週間。学校に通い始めた僕は、絵画科のシモンを訪ねてみたが、彼だと思しき人間に会うことができなかった。同じ町で入院している曾祖母を見舞って、また部屋に戻る。下に見える街は秋の気配がする。
気付いたことはいくつかある。部屋が繋がるのはお互いが部屋に一人でいる時だということ。物のやり取りができても、自分たちそのものは通れないこと。時間の経過は等しいということ。そして。
「シモン、ちょっといいかな。考えたことがあるんだ」
扉を開けて、彼を呼ぶ。彼は時間があるとあのキャンバスに向かって一心に何かを描いている。人物画のようだった。あぁ、という短い返事と共に彼はそこから視点をあげて、こちらへ向かってくる。
「突拍子もないことだけれど」
僕の話を促すように、彼は小さく頷く。
「僕と君は、生きている時代が違うんじゃないか?」
また、あぁという返事。
「俺もそう思っていた。あんたは……なんというか、呑気すぎたよ」
彼は困ったように笑った。
「国がなくなるかもしれないのにな」
彼は僕が生まれるずっと昔、この国が戦争に、時代の流れに押しつぶされそうになっていた時代の人間だった。彼の顔に時折現れる暗い影が何なのかが、はっきりとわかった。
「あんたがこの部屋にいるということは、ルストロ。この国は生きているんだな。あんたの時代も」
しっかりと僕は頷いて見せた。
「よかった。それだけで充分だ」
充分だ、と言って彼はその先をそっと拒絶した。しかし、僕は内心ほっとした。この国の過去を、彼にこれから訪れる未来を伝えずに済むことを。
しばらく話をした後、別れを告げ、僕は窓を閉じた。明日もこの窓が、あの部屋に繋がるように、と静かに願いながら。窓の下に、初秋の風が吹く。
曾祖母の容体が思わしくないらしい。僕の様子を見に来た両親が、行きがけに見舞った時の話をした。病がなくとももともと随分な年だ。彼女が病院から出る時が決まってしまう。両親は僕に、なるべく曾祖母を見舞うように言って帰っていった。両親が窓の下に見えてすぐ、向こうから窓が開いた。
「ルストロ、頼みたいことがある。いいか」
僕は頷くと、ついでに彼にコーヒーをついでやった。彼は妙に焦った顔をして、呟くように言った。
「子供ができた」
お湯を指にかけてしまい、カップを取り落としそうになる。彼は窓の淵に肘をつき、ため息をついていた。
「嬉しくないの?」
コーヒーを窓の淵に置き、椅子を窓際に寄せる。
「嬉しいさ、ただこの状況だからな。すぐに会えるわけでもない」
彼の部屋を見やると、封を切った手紙が机の上においてあった。その手紙なのだろう。
「順序が逆になっちまったよ」
彼はキャンバスを指差す。まだ下書きだけなのだろうが、一人の女性の絵だとわかる。
「あれを渡して、プロポーズするつもりだったんだ」
椅子に腰かけた絵の女性は優しく微笑み、膝元に置いた手には一輪の花。
「……僕に頼みって?」
「指輪を作ってくれないか?」
「なんだって?」
「彼女に、指輪だけでも、プロポーズだけでもしてきたいんだ。頼むよ、ルストロ。後生の頼みだ」
彼はじっとこちらを見ている。断れないが……
「僕なんかのでいいのかな。一生ものだろう? ちゃんとしたところで買った方が……」
「宝石商なんかとっくに逃げたよ。それに俺は、ルストロ、お前に頼みたいんだ」
頼むよ、と彼は繰り返した。ここ数日、彼の部屋の方から響く重低音が多くなってきている。急がなければいけない。
「金じゃ作れないけど、いいかい?」
「あぁ、構わない。ありがとう、ルストロ」
彼は満面の笑みを浮かべ、手を差し出してきた。僕もその手を取り、しっかりと握り返す。初めての依頼人が、過去の人物だとは思いもしなかった。彼は、絵を完成させる、といって窓を閉めた。僕も紙と細工用の銀粘土を取る。しばらくしてサイズを聞くのを忘れてしまったことに気付いたが、あまりに遅い時間だったため、窓を開けなかった。
しかし、それからしばらく何度となく窓を開けても、彼の部屋には繋がらなかった。
指輪が完成した頃、両親から電話が入った。曾祖母の容体が急変したという。急いで向かうように、だった。曾祖母の病室に入ると、彼女は何本もの管に繋がれていた。
「ばあちゃん、イレナばあちゃん!」
彼女はうっすらと目を開けて、こちらをみると僅かに微笑んだ。幼いころの記憶がぽつぽつと浮かぶ。手をつないで公園に行ったこと。その時に聞いた、曾祖母が若かったころの戦争の話。嬉しかったことと、悲しかったこと。彼女はそのころよりずっとしわしわになった手で、ベッド脇の小引き出しを指差した。
開けてみると一枚の写真が入っていた。儚げにほほ笑む美しい人。僅かな面影から、曾祖母だとわかる。椅子に腰かけ、膝元には一輪の花――
「ばあちゃん、僕、ちょっと戻らなきゃ。大事な用事なんだ。だから、ちょっとだけ待ってて」
曾祖母は小さく頷いた。僕は病室を飛び出す。ちょうど両親が入れ替わりに病室に入ったのを見て、驚く彼らをよそに、看護師がとがめるのも聞かず、僕は走り出した。曾祖母に聞いた、大切な人の話を思い出しながら。
アパートに着くと、僕はすぐに窓を開けた。冬に移り変わろうとする外の景色。閉めて、またすぐに開ける。吹きつける冷たい風。繋がらない。もう一度閉めて、僕は深呼吸する。
繋がってくれ、頼むから。
三度目に開けると、荷物を抱え、慌てた様子の彼が部屋に入ってきたところのようだった。
「シモン! 指輪はとっくにできてるよ!」
彼も急いで窓辺に来る。指輪を渡すと、緊張していた顔を少しだけ緩ませる。宝石は一つも付いていないが、アイビーの装飾のついた、渾身の作。彼は大事そうに懐にしまうと、抱えていた大きな荷物をこちらによこした。
「これをお前に預けておく。きっと、お前ならわかるはずだ。代わりに彼女に届けてほしい」
「君が届けるんじゃなかったのか!」
「こんな大きな絵じゃあ、逃げきれないからな。指輪だけにするんだ」
そう言って、彼は窓に手をかける。閉めさせまいと僕も窓を掴んだが、じわじわと窓は閉まっていく。
「きっとこの時のために、この窓は繋がったんだ。そして、お前に逢った」
そして、彼はわずかになった隙間から、こちらへ叫ぶ。
「ありがとう、ルストロ。お前は、俺の親友だ」
窓が閉まる。急いで開けたが、そこには油彩の匂いと石の粉が漂う小さな部屋ではなく、人通りのまばらになった、夕方の通りが広がっていた。
彼は別れの言葉を言わなかった。僕だけでも、なぜ言ってやれなかったのだろうか。また会おう、と。
無理だろうとわかっていても、言うべきだったのだ。
立ち尽くす暇もなく僕は荷物の包みを払った。一枚の絵。これから来るであろう大きな悲しみを、一身に受け入れようとする、美しい人。《我が愛しのイレナ》。
その絵を包み直すと、僕はまた病院に向かって走り出した。
病室に駆け込んで、曾祖母の枕元には走り寄る。
「ばあちゃん。絵描きのシモンから、預かってきたんだ」
曾祖母の目が僅かに開く。絵が見えるように、祖母の方に近付けてやる。
「ありがとうね、ミロスワフ。いや、ルストロさん」
呼吸補助器具の奥から、こもった声が聞こえた。そして、曾祖母は満足げに、大きく息をつき、目を閉じた。
そして、それが開くことは二度となかった。
涙をこぼす母が、僕の肩をたたき、引き出しを開けるように言った。そこには、アイビーの装飾がついた、銀の指輪。ずいぶんとくすんでしまってはいたが、大切にされていたのがわかる。
涙がこぼれるのがわかった。頬を伝って、指輪の上に雫が落ちる。下になっていたメモには、僕によく似た曾祖父からの感謝の言葉がつづってあった。
きっと、あの部屋に繋がることはもうないだろう。しかし、あの窓の向こうの、絵描きの男を、僕は絶対に忘れない。