四
その町にあって啓太の深い心情を解し得る者はおそらく彼等の生まれた漁師町では幼なじみの麻己だけであっただろう。
二人の関係は二人の意思とは別に、季節の様変わりする隙間で不意に湧き出るものであり、彼らの強く募る気持ちというよりは、季節の変わり目と非常に密接な、身体の上に現われる生理的な現象と同様に、全身を痛痒する寒々とした季節には、その季節同様二人の相手に対する想いも硬く塞ぎ込まれてしまう一方だったに違いない。
その点について啓太はまずまちがいなく四季に通じる心理を持っていたといえるだろう。幼い頃から唯一心を開ける異性の麻己の前では、彼もあどけなさを隠しきれないでいたそうだから。
その話は、幸いにも、彼のことをよく知るという、彼の最も気を許した旧友に出くわさなければ分からずじまいになるところだったが、亮平が切り株からなかなか腰を上げようとしないでいるのを見かねた、まだ若い感じを受けるその男に声をかけられた際、ふとその男からあの二人について何かしらのエピソードを聞くことができる予感があった為に、男から感じられる不愉快なものに耐え、その場を離れずにいた。
亮平の前まで来た男は、遠目で見てもかなり背が高いのがわかった。土色の肌に鼻先や頬にまであかく醜い日焼けをつくるその男がそのまま腰を下ろさずにいたなら、おそらく、そこからくる不躾な立ち姿に、土地の者の威圧感を子供時代にもどったような鮮明さで思い出し耐えかねる不安から、男が亮平の脇に来るよりも先に、彼の方からじっとしてはいられずに起き上がってしまったはずだ。
しかし男は、田舎の人が往々にして持つあの特異な親しみから、やはり彼も余所者の亮平に話しかけないではいられなかったらしく、しばらくはその感情に耐えようとして、はじめに挨拶を交わしたきり、じっと、しかし横目で控えめにやたらと亮平が右腕にはめていた腕時計の辺りを眺めているだけだったのが、そのうち意を決したように一段高い声で男が啓太のことを嗅ぎまわりにでもきたのかと尋ねてきた。 その問いかけには答えず男の耳の穴で反響するほどねばりつく声質に、この男にはその高い声は似合わないなと、その似つかわしさをひとり心中で嘲笑ってやった。ひきつるような調子の声は男の普段のものではないことはあとの喋りでわかった。見知らぬよそ者に対する用心から普段の気安さをまだ隠しているのだろう。
もう一度男に喋らせたい気持ちから亮平は「十年くらい前なのですが、この家に住んでいた津原啓太君という男の子をご存知ではないですか?」と訊いてみた。
「ご存知ありますよ。」
男は亮平から話しかけたのを合図に突然先程まであった、こちらに対する僅かな敬意をもう取り払って構わないと判断したらしい。亮平は男が馴れ馴れしいと、内心腹が立った。こちらを馬鹿に扱うような間の抜けた返答にも同様の気持ちを覚えた。不躾の親しさでくるのなら、使い慣れぬ言葉など、変にこちらに合わせようとせず、田舎の早口の方言をいくらでも揮えばいいものを、余計な気遣いなどはいらないのに……。
啓太もきっとそういったいろんな細部にわたって起こる土地の人々から受ける同質の苛立たしさの為に幾日も苦しんだのだろう。亮平は男の口の聞き方にも腹が立ってきたので、こちらも乱暴な親しみを持って話してやろうと考えた。
亮平が会話の中から極力敬語を排除するように務めだすと、男もそれを望むように口を悪くしていった。引きずられるように男は、自然と、亮平の求める粗暴さを顕わにし始め、亮平の分からぬ意味の方言も多分に交えて、彼の知る限り、啓太について語ってくれた。男はこんなふうなことを言った。
「自分と啓太とは小学校から中学校まででしたが、いや、いろいろあいつには悪ふざけをしてやった。あいつの持ち物を小さいものでは、消しゴムや鉛筆、ある程度の事件に発展しそうな物だと靴、そうだ、鞄ごとゴミ箱に抛ったこともあった。そんな時あいつはあの色白い顔を真っ赤にしてこちらに向かっては来るのだが、手を出すとかそういうのはなく、ただ、泣きそうなのを堪えて、眼だ――眼を必死に使いそれでこちらに怒りを伝えたいらしかった。だけど、そんなことをやればますますこちらも面白がることがあいつには分からないらしくてね。そりゃあ、その時はそれで面白いと思っていたが、あんなになったのを見たらさすがにこっちの良心だって黙ってなかったよ」
男はそれを話す間、まるで啓太を自分の親友のように得意がっているようだった。全体こんな親友がいるだろうか。亮平は以前から、啓太という少年が、その体だけではなく、内面においてさえも脆弱なものを備えていたということを聞かされていた。
この男の話は癪に障ったが啓太のそのような性質については真実らしかった。啓太の味方になる友達の存在をそれとなく男に訊いてみた。もう過去のことだが男の話に救いを求めたい気持ちから、亮平の口を自然についてでた言葉だった。
「でも、まさかクラス全体でそういうことをしてたわけじゃないでしょう?」
「まあ、何人かの女はかわいそうとはいってたかな。それでも啓太は嫌われ者だったよ。なにがって訊かれても、目立たないやつだったけど、ちょっとしたことで目障りになるっていうか、あいつの顔見ると落ち着かなくなるってのかな、自分でも変な気分になるんだよ、こう、痛めつけてやりたいようなさ」
あの顔つきには人を攻撃的にさせるなにかが確かに、それが啓太のどういうところにあるのかはわからないが、在るということだけはいまでも憶えている。そう男は、急にそれ以上の話を重苦しそうに顎を動かしてはくれなくなった。亮平は知っているだけ喋ったからだと、男をひきとめることはしなかったし、男のほうでも道の向こうから知人が来たらしく、亮平の背後に何度か目配せをやっているあわただしくなった様子からもこの辺で引き下がるのが妥当かと考え、亮平から別れをつげ男とは反対の海岸沿いの歩道へ渡り実家までのまだ大分ある道のりを、実際の距離より長くおもえる足どりの遠慮するゆっくりな歩みに、いやでも今日は実家に行くしかないことをいまさら後悔しはじめていた。






