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棚機の夜  作者: 長崎秋緒
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十年ほど前のことであまり記憶も確かな話はできませんが、と婆さんのいうには、啓太は、ほら、そう、窓。そう、小豆色した、あの屋根。あの子があそこから落ちたって聞いた時は、もしかしたら、そういうこともやりかねないと思わされることがあったのに、どうして気づいてやれなかったか、いや、そんな事情があったとは考えも及ばないので……結局こうなったと諦めるしか……。

 亮平が啓太のことを知り、母方の実家に何年かぶりにやってきて、当時近所に住んでいた婆さんを見かけ、懐かしさのあまり唐突に呼びかけた。

 サツマイモの入った籠を背負って、窮屈そうに亮平の方を振り返っても、まだ誰だか分からないらしい婆さんの、よそものに対するしかめつらは、亮平にあれからかなりの年月が経ったことを実感させた。

 自分の名前を教えたところで、婆さんの記憶を助ける呼び水にはならないことは、こちらが近づいているのを目にしたはずなのに、そのまま立ち去ろうとする様子で判断がついたが、遠い記憶となってしまったことへの淋しさを覚えたのには、彼自身驚きもあった。亮平にとってこの町はとっくに過去のものであるはずだった。

「隣に住んでた吉原ですけど、……おぼえていませんか。坂口さんですよね」

 頬被りをとって、婆さんが白髪頭をこちらに向きなおし、もう一度繰り返せといわんばかりに顎をつきだした。亮平は手の届く距離に近づき、難聴の人にするようにさっきより声を張って、「坂口さんですか」と訊いた。

 声は届いたようで、「ああ、あんたは誰だったかね」とはっきり喋ったのが意外だったから、すこし気後れして言葉に詰まり、先に婆さんが知らない男の名前を呼んだ。

「違います。ぼくは吉原亮平です。吉原商店のいとこの……」

 口をだらしなくあけ、ぼんやり亮平の後方にある曇り空を眺めるような目線の、いきなり瞼が活発になる瞬間に黒目の奥が、彼の顔にはっきりと焦点を合わせ、あうぅ、とうめきをあげ、

「……吉原さんとこの……はい、ああ……憶えとります。……亮平君やったろ」

「久しぶりで……、その、友達が入院していると聞いて」

 おおげさに眼をむき、彼女の耳にも啓太の自殺未遂が伝わっていたらしい素振りで、籠から手を離すと胸の前で重ね合わせ、そうやったねぇ、と、啓太への悔やみの言葉をいう。

 まだ死んだわけではないのに、婆さんにしてみれば、意識が戻らないのは死んだも同然のように考えているようで、まだこの婆さんは勘違いをしていると感じてはいたが、これ以上時間を費やしたくない思いから、軽く会釈をしそこを離れ、畑を抜けたところにある実家を目指した。

 亮平の実家は旧庄屋で、家屋の半分ほどは建て直してあったものの、門構えは昔を残したままの姿で、それに連なる高い塀は、近隣の住人に畏怖の念を抱かせるようそのままにしてあった。亮平がそう思うのは、母の立場から祖父をことあるごとに嫌っていたからだった。祖父はよく母のことを困らせるような要求をしたり、場合によっては殴ったりもしていた。実際に彼が現場に居合わせたことはなかったが、それでも祖父の部屋から戻った母の不自然に前髪を垂らした、暗い影の間に、亮平がそれを盗みうかがうことに成功すると、なぜかしら、祖父が茶の入った湯のみごと母の額になげつける瞬間の様子が瞼に熱いものをこみ上げさせるのだった。その後祖父から逃げるように部屋へこもり、内で押し殺せない憎しみや悲惨のからむ、喉をつまらせたような母のとぎれとぎれのうめきが聴こえてくれば、亮平は想像のなかで何度も、母の代わりに祖父に殴りかかりながらも、母とおなじような泣き真似をしてしまうのは、それが彼自身、劣弱さゆえの妄想にすぎないことへの失望を感じずにはいられなかったからだった。

 父親はそんなときでも、母のもとへは付き添わずに一言、「憎たらしいジジイが、早く死んでくれたらいいのに」と母に対する祖父の乱暴だけではなく、何か別のことに対しても腹を立てているように、その当時の彼には想起され、子供の亮平には解りえない祖父と父親だけの関係がもたらす憎悪が、母へ飛び火していたことをだいぶ後になって知った。

 陰気な故郷に今更、とっくに友人でもなくなった啓太を口実にやってきた目的を彼は思い出し、実家への歩みを強める材料にしようと一旦足を止め、今もこの町に暮らす過去の恋人で、現在は啓太を看病しているという麻己の、全てを満たしてくれる麗らかな笑顔を必死に思い出そうとしてみた。

 しかし、自己の虚栄心に執着した挙げ句の果てに醜い姿となってしまった啓太が、今もこの町の病院に麻己の付き添いの下で生きていることが遮って、どうしようもない現実を教えてくれる。

 また歩き始めながら過去と現在を照らし合わせ、そこにほんのわずかにでも空想の先がみられなくなるとすぐに向き直り、まっすぐ実家を目指すのを止め、今は吹き曝しにある田んぼに挟まれた三軒の平屋建ての一番遠いところへ着くと、亮平はそこの家をしきりに気にしている様子で、去り際に婆さんを無理に引き止め、啓太の近況を訊ねた際に教えられたことを思い返していた。

 啓太の飛び降りたという小豆色の屋根を持つ二階建ての、古いわりには外壁の白さをまだ保つ家の正面に回り込み、ちょうどこのあたりかと、婆さんが肩をすぼめ語ってくれた大木の跡を残す一メートルほどの直径はある切り株に腰をおろし、そこから見上げたところにある二階の窓から瓦屋根に降りてまっすぐにこちらへ転がり落ちたなら、ちょうどこの切り株の上に身を打ちつけることになるか――。


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