マルボロの煙が消えるまで
20歳の夏、私は恋をした。
相手は、2つ年上の先輩だった。
最初は、ただインスタで見つけただけの人だった。
何気なく送ったDM。
何気なく返ってきた返信。
それだけだったはずなのに、いつの間にか私たちはLINEを交換していた。
『今なにしてる?』
『暇なら電話しよ』
そんなやり取りが、毎日のように続いた。
電話を切る時間が惜しくて、眠いのに無理やり起きていた夜もあった。
彼からのLINEは、いつも驚くほど早かった。
私が送れば、すぐに既読がついて、すぐに返信が来る。
そのたびに、スマホを握りしめながら笑っていた。
――もしかしたら、この人も私のことを。
そんな期待をするには、十分すぎる時間だった。
そして、初めて会った日。
緊張して、何を話したのかほとんど覚えていない。
ただ、帰り道にスマホを見ると、いつものように彼からLINEが来ていた。
でも、それまでだった。
会った後から、少しずつ返信が遅くなった。
数分だったものが、数十分になった。
数十分だったものが、数時間になった。
それでも私は、嫌われたくなかった。
だから待った。
返事が来るまで、何度もスマホの画面をつけては消した。
それでも一ヶ月以上、私たちは毎日連絡を取っていた。
だから、私は勘違いしていた。
「毎日連絡を取る」ということが、特別な関係の証だと思っていた。
彼が吸っていたマルボロ。
私はそれまでタバコなんて吸ったことなかった。
でも、彼と同じものが欲しくなった。
同じ銘柄を買った。
ジッポも買った。
火をつける仕草も、煙を吐くタイミングも、彼を真似した。
初めて吸ったとき、むせてしまった私を見て、彼は笑った。
「下手くそ」
「だって初めてだもん」
「そのうち慣れるよ」
その言葉が、なぜか嬉しかった。
タバコだけじゃない。
キスも。
異性との距離の縮め方も。
私は彼からたくさんの「初めて」を教えてもらった。
三回目に会った頃には、私はもう隠せなくなっていた。
好き。
好き。
好き。
会うたびに、それを態度に出した。
言葉にもした。
でも、彼は何も言わなかった。
私たちはいつの間にか、恋人ではないのに、恋人みたいなことをする関係になっていた。
一緒にカラオケへ行った。
プリクラも撮った。
くだらないことで笑った。
帰りたくないと言えば、少し困ったような顔をしながらも一緒にいてくれた。
優しかった。
いつだって優しかった。
だから、余計に分からなかった。
どうして私は彼女じゃないんだろう。
どうして「好き」と言ってくれないんだろう。
そしてある日、知ってしまった。
彼が、私以外の女の子とも遊んでいることを。
二人で出かけていた。
私の知らない場所で笑っていた。
私には見せてくれない顔を、誰かに見せていた。
その事実を知った夜、私はベッドの中でスマホを握りしめた。
泣きながら、彼とのLINEを何度も読み返した。
『かわいい』
その一言だけで嬉しかった。
『また会おう』
その一言だけで、私は期待した。
額にキスをされたこと。
優しく抱きしめられたこと。
一緒にプリクラを撮ったこと。
カラオケでくだらない歌を歌ったこと。
全部、本物だった。
少なくとも、私にとっては。
だから余計に苦しかった。
あれは、私だけが特別だと思っていた時間だったの?
ある夜、私は彼に聞いた。
「ねえ」
「ん?」
「私って、何?」
電話の向こうで、彼が黙った。
その沈黙が怖かった。
「……どういう意味?」
「私たちって、何なの?」
また沈黙。
私は、答えを聞く前から分かっていたのかもしれない。
「俺たち、付き合ってないじゃん」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「……うん」
「だから……」
「分かってる」
分かっていた。
ずっと分かっていた。
彼が一度も「彼女」と呼んでくれなかったこと。
一度も「好き」と言ってくれなかったこと。
私だけが、二人の関係に名前をつけようとしていたこと。
それでも私は言った。
「他の子と遊んでもいい」
自分でも、馬鹿みたいだと思った。
「ラブホに行ってもいい。誰といてもいいから……」
声が震えた。
「私を彼女にしてよ」
電話の向こうは静かだった。
「私のこと、少しでも好きなら、それだけでいいから」
返事はなかった。
私は泣きながら笑った。
「私ね、ずっとあなたのこと考えてるよ」
朝起きたときも。
授業中も。
帰り道も。
眠る前も。
スマホが鳴るたびに、あなたかもしれないと思う。
街でマルボロの煙を見かけるだけで、あなたを思い出す。
ジッポを開く音を聞くだけで、あなたの顔が浮かぶ。
プリクラを見るたびに、隣にいるあなたを思い出す。
「だから……」
声がうまく出なかった。
「一回でいいから、あなたから『好き』って言ってほしい」
沈黙。
それが答えだった。
電話を切ったあと、私は一人でベランダに出た。
買ったばかりのマルボロを一本取り出す。
火をつける。
煙が夜空へ消えていく。
最初は彼の真似をして始めたタバコだった。
だから、これを吸うたびに彼を思い出すのだと思っていた。
でも、その夜初めて思った。
もう、やめよう。
彼を好きだった証拠まで、捨てる必要はない。
初めてのキスも。
初めて恋をしたことも。
彼と撮ったプリクラも。
電話をしながら眠った夜も。
マルボロの煙も。
全部、私の人生の一部だから。
ただ、それを「彼に愛されなかった証拠」にするのはやめようと思った。
私は最後の煙を吐き出した。
白い煙は、夜の向こうへゆっくり消えていった。
スマホを見る。
彼からの通知はない。
それでも、もう画面を何度も確認することはしなかった。
好きだった。
今でも好きだ。
きっと明日も、好きかもしれない。
それでもいつか、この「好き」が思い出になる日が来る。
そのとき私は、きっと笑って言える。
あの頃の私は、あなたからの「好き」が欲しかったんじゃない。
本当は、
「私も誰かに愛される価値がある」
そう思いたかっただけなんだ。
ジッポを閉じる。
カチン、と小さな音がした。
私は部屋に戻った。
もう一度だけスマホを見る。
やっぱり、彼からの連絡はない。
それでも今度は、泣かなかった。




