1.魔界は退屈だ
「……つまらん」
漆黒の闇に染まった空の下、魔界の城の高台に一人の少年が腰かけていた。
名をルベルドという。魔王ヴォンドの息子にして、齢十二歳。
深い紫がかった黒の髪は夜風にさらりと揺れ、その瞳は暗闇でも煌々と光を放つ深紅の色をしていた。肌は蒼白く、魔族特有の鋭さが眉や口元に宿っているが、年齢相応の幼さも残している。纏う気配だけは父親そっくりに底知れない重さを持っていたが、今この瞬間は城の縁から人間界の方角をぼんやりと眺め、盛大に欠伸をしているだけだった。
「本当に、つまらん」
二度目の呟きは、一度目より心なしか力がない。
ルベルドが魔界を「退屈だ」と思い始めたのはいつからだろう。物心ついた頃から、ここでは何もかもが決まっていた。起きる時間、食事の時間、魔法の修練の時間。
父に仕える従者から魔王の息子として恥じない力を持てと言われ続け、その通りに努力した。闇魔法の才は父から色濃く受け継いでおり、同年代の魔族の中ではとっくに頭一つ抜けた力を身につけていた。
だからこそ、余計に暇なのだ。
敵う相手がいない。驚かせてくれるものがない。どこを見ても同じ景色。黒と紫と灰色で塗り潰されたような魔界の風景は、生まれてこの方ルベルドにとって退屈さを象徴したようなものだった。
(兄上が居た頃は、まだよかった)
ふと、そんな思いが脳裏を掠めた。
スルク兄上。六つ歳上の兄は、いつも笑っていた。
兄上はいつも「なあルベルド、お前は本当に面白い顔をするな」などとからかいながらも、どこかへ連れ出してくれた。
魔界の深部の迷宮に忍び込んだり、禁断の魔法書を盗み読みしたり——そういう「退屈でないこと」を、兄はよく知っていた。
しかしある日、兄は消えた。六年前のことだ。何の前触れもなく、ある朝起きたらいなくなっていた。父は何も語らない。城の者たちに聞いても、誰も教えてくれない。
残ったのは、退屈だけだった。
「……ま、いい」
ルベルドは立ち上がり、伸びをした。
城の下方に目をやると、魔族の兵士たちがせわしなく動き回っているのが見える。彼らはルベルドを見上げ、一瞬だけ視線を合わせると、さっと目を逸らした。
——魔王の息子。
その称号は、味方の魔族たちからさえ、ルベルドに壁を作らせた。誰もが腫れ物を触るように接し、本音を語る者など一人もいない。力を恐れているのか、父の威光を恐れているのか、あるいはただ単純にルベルド自身が嫌われているのか。
ルベルドはその答えがどれでも構わなかった。ルベルドはただ1つ、考えがあった。
(人間界というのは、どんなところなのだろう)
ルベルドは再び遠くを眺める。条約によって隔てられた、もう一つの世界。魔族からすれば「劣った生き物の住処」と言われているが、本当にそうなのか、自分の目で確かめたことはない。
ルベルドの胸の中で、何かがむずむずと動いた。
それは衝動というより、好奇心だった。知らないことへの、純粋な興味。
「……行ってみよう」
誰に言うでもなく、ルベルドは呟いた。
父に報告する気はなかった。どうせ怒られるだろうし、止められるかもしれない。ならば黙って行けばいい。
ルベルドは小さく魔法陣を描き、身分を隠すため自らに変化魔法をかけた。
人間の特徴は古文に記されていた。それを参考にする。
深紅の瞳は濃い茶色に変わり、肌の蒼白さが少し和らぐ。魔族の特徴的な耳の形も、魔法で人間のそれに偽装した。
「大丈夫、ただの退屈しのぎだ。すぐ戻ってくる」
——ルベルドはそう自分に言い訳をしながら、人間界への転移魔法を発動させた。
転移した先は、鬱蒼とした森の中だった。
魔界の殺伐とした景色とはまるで違う。頭上では木漏れ日が踊り、どこからか鳥の声が聞こえてくる。風は生ぬるく柔らかく、土と草の匂いが鼻をくすぐった。
(……なるほど)
ルベルドは目を細めた。悪くはないと思う。
いや、悪くないどころか——思ったより、ずっと良かった。
魔界には「緑」というものがほとんどない。あっても毒々しい色の植物ばかりだ。
しかしここには澄んだ緑色をした木々が生い茂り、根元には白や紫の小さな花が咲いている。
ルベルドはしゃがんで一輪つまんでみたが、指先に触れた花びらは驚くほど柔らかかった。
(……ふむ、脆いな)
魔界では、花を触れば大抵棘か毒液が返ってくる。こんなに無防備な植物が存在するとは思っていなかった。
ルベルドはそれからしばらく森を歩いた。どこに向かうかは決めていない。
ただ「適当な街を見つけて、人間というものを観察しよう」程度の計画しかなかった。
もっとも、街の場所は知らないし、この森がどのくらいの広さなのかも把握していない。
(まあ、なんとかなるだろう)
楽観的にそう思って歩いていたルベルドは、不意に立ち止まった。
どこからか、音がした。
枯れ葉を踏む音ではない。もっと——柔らかい、湿った音。
(……泣き声、か?)
考えてルベルドはそう結論づけた。
耳を澄ます。確かに、誰かの泣き声が聞こえてくる。方向は——東。ルベルドは少し迷ってから、その方向に足を向けた。
別に「助けよう」などという気持ちはこれっぽっちもなかった。ただ純粋に「なんだろう」という好奇心だけで近づいた。
しかし。
木々の間を抜けた先で見たものは——ルベルドをしばらく言葉もなくさせた。
「うぅ。ひっぐ 、ひっぐ……」
木の根元にしゃがみこんで泣いている、一人の少女がいた。
年はルベルドと同じくらいか、あるいは少し幼く見える。淡い金色の長い髪が肩からこぼれ落ち、ところどころ木の枝に引っかかってほつれている。纏っているのは薄いクリーム色のワンピースで、裾には草の汚れがついていた。顔を両手で覆って泣いているため表情は見えないが、肩が小刻みに震えているのはよく分かった。
少女の膝の上には、小さな花飾りが乗っていた。
白い花と、青い花と、まだ小さくて摘みたてらしい黄色の花を編んで作った、ぶきっちょではあるが心のこもった輪飾り。
(……人間の子どもか)
ルベルドは無意識に距離を縮めていた。
草を踏む音がしたのか、少女がびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
そのとき初めて、ルベルドは少女の顔を見た。
泣き腫らして赤くなった目。薄い唇はぎゅっと引き結ばれ、泣き顔を見られた恥ずかしさからか、頬が赤く染まっている。しかしその目は——柔らかな翠色をしていた。澄んでいて、なぜか見ていると落ち着くような色だった。
「……だ、誰ですか」
少女は涙を袖で拭いながら言った。長く声を上げていたのだろう声は少し掠れている。
「通りすがりだ」
ルベルドは素直に答えた。
「泣いている声が聞こえたから来た。……迷子か?」
少女は一瞬だけ驚いたような顔をして、それからゆっくりうなずいた。
「……はい。帰り道がわからなくなってしまって」
「どこから来た」
「ハートヴェルから……街のはずれにある森に入ったら、出られなくなりました」
ハートヴェル。街の名前を出されてもルベルドはピンとこない。聞いてはしまったが人間の街。魔界にいたルベルト知るはずもなかった。
しかし、少女が迷ったというのなら目と鼻の距離では無いということになる。
「……なぜこんな場所に来た」
ルベルドは思わず呟いた。少女は困ったように眉を下げた。
「お花を摘みに来ていたんです。弟に、花飾りを作ってあげようと思って」
視線を落とした先の、膝の上の花飾り。その意味がわかって、ルベルドはわずかに眉を上げた。
「弟のために?」
「いつも私を助けてくれるから……お礼がしたくて」
言葉は素朴で飾り気がなかった。ただそれだけ言って、少女はまた少しだけ目を潤ませた。花飾りは作れた。でも帰れなくなった——そういうことだろう。
(……変な人間だ)
話を聞いてルベルドはそう思った。弟のために花を摘みに来て、迷子になって泣いている。計画性のない奴なのだと半ば呆れるが行動の原理は家族へのため。そう思うと、なぜか胸の奥に妙な感触が残った。
「ハートヴェルとやらの外観はわかるか?」
ルベルドは言った。自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「森の上から見て方向が分かれば帰れるだろう」
少女が顔を上げる。翠色の目が、ルベルドをじっと見つめた。
「……分かります。けど、上から見るなんてとうやって」
「浮遊魔法を使う。少しの間ならできる」
「……本当に?」
少女は驚いていた。浮遊魔法は魔法の中でもかなり難易度が高い。それを自分と同じ位の子供が使えるといったのだ。
「嘘をつく理由がない」
少女はしばらく考えるように間を置いてから、ゆっくりと立ち上がった。花飾りを大切そうに手に持って、少し背筋を伸ばす。
「……あの、お名前を聞いてもいいですか」
「……ルベルドだ」
「ルベルドさん」
少女はやわらかく目を細めた。まだ少し泣き腫らしているのに、その笑顔はどこか春の光みたいだと思った。
「私はコゴメです。よろしくお願いします、ルベルドさん」
ルベルドが頷き、そして手を差し出す。
それをコゴメが握ると魔法を発動させた。
二人の身体が木の上超え上空へと浮かぶ。
視界が開けると様々に色付いた街の光景が目に入った。
「わぁ……すごい」
隣でコゴメが息を零しながら言う。
ルベルドもそれには同感だった。こんなに複数の色が同居する景色を初めて見た。
「ハートヴェルはどれだ」
「あ、えと……あっちです!」
「そうか。じゃあ降りるぞ」
この光景を手放すのを惜しく思いながらも二人は静かに地面へと降り立つ。
「これで帰れるな」
ルベルドは確認するように言った。
「はい、ルベルドさんありがとうございました。あんな光景も見れて、本当に」
「では行く」
「あ、……ありがとうございました」
前を歩き出したルベルドにコゴメは別れ惜しそうに返す。
それにルベルドは首を傾げた。
「何を言っている、一緒に行くぞ」
「え……!?」
(なんだ、忙しいやつだな)
なぜか顔を赤くしたコゴメを前にルベルドはそう思った。




