99.広い心
祠の前で、四人が向き合っていた。
秋の陽が傾きかけていた。山の影が長くなっている。
「一つ、お願いがあります」
アップがノクタールの方を向いた。
「……なに」
「俺を、ここに置いてもらえないか」
ノクタールが少し目を細めた。
「ここに置くって?」
「この神域であなたの手伝いをしたい。神の番をする、その手伝いでもいい。アダムを抜けた後、行く場所がない。この山で、何かをしながら……少し、考えたい」
「あなたが私を騙したことは忘れていない」
「分かっています」
「信用できるとも言い切れない」
「それも分かっています」
ノクタールが少し間を置いた。
「ただ」
アップが続けた。
「この場所は——来た時から、少し違う感じがした。静かで、古くて、何かが積み重なっている。俺が嫌いだった神というものが、ここでは少し違って見えた。なぜかは、分からないけれど」
ノクタールがアップを見た。
長い眼差しだった。
確かめるような目。しかし、拒絶の目ではなかった。
「……手伝いというのは、具体的に何をするつもり」
「分かりません。あなたに言われたことを、やります」
「私の言うことを全て聞くと」
「全部は約束できない。でも、悪いことはしない」
「正直だ」
「嘘をついても意味がないと、さっき学んだばかりです」
ノクタールが少しだけ口の端を動かした。笑顔とは言い難い。しかし固かったものが少しほぐれているように見える。
「……一月だけ、様子を見る」
「十分です」
「その間に、この神域で何か悪さをすれば、次は加減しない」
「分かりました」
「刻印は、使わないこと。私の前では特に」
「それは——」
「嫌なの?」
「……嫌ではないです。ただ、急には難しいかもしれない。体に刻まれているものを、一度に切るのは」
「切らなくていい。ただ、使わない努力をしなさい。それだけ」
アップが少し息を吐いた。
「……分かりました」
ルベルドはその会話を黙って聞いていた。
スルクが隣に来て、小声で言った。
「うまく収まったな」
「お前が手を打つと言ったのか」
「必要があれば。ただ今日のところは、本人が決めたことだ。それが一番だよ」
「……そうか」
ルベルドは祠の方を見た。
古い木の構造が、夕暮れの光を受けて赤く染まっていた。苔の色が深くなって、岩肌と溶け合っている。
(……神はここで、今も休んでいる)
気配は、まだあった。薄く、しかし確実に。何百年も続いてきた、この場所の重さと共に。
「行くか」
スルクが言った。
「ああ」
ルベルドは一度、ノクタールの方を向いた。
「この神域を守ってくれ。アダムはまた動くかもしれない。早いところ眠りについてくれるようして欲しい」
「眠らせるのは私の決められることでは無い。ただ、神は直に眠ると思う」
「なら良かった」
「それに、言われなくとも守る。それが私の役目だから」
ノクタールが静かに言った。
「あなたたちも気をつけて」
それだけ言った。
ルベルドは小さく頷いた。
◆◇◆◇
山道を下りながら、ルベルドは少し先を歩いた。
スルクが後ろからついてきた。
「ルベルド」
「なんだ」
「今日のリライト、上手くいったな」
「一回だけだ。安定はしていない」
「でも感覚はもう掴めてる。あれは一回できたら、繰り返せる。お前の飲み込みの速さを俺は知っているから、心配はしていないよ」
ルベルドは答えなかった。
しばらく、落ち葉を踏む音だけが続いた。
「……アップの話を聞いて、何か思ったか」
スルクが言った。
「弟の話か」
「そう」
ルベルドは少し止まった。
「……守れなかった者への後悔が、人間を動かすことがある。アップの場合はそれが怒りになった。方向が変わった。それは理解できる」
「そうだな」
「ただ——弟が望んでいたかどうかは、別の話だ。ノクタールが言った通り、弟の最後の顔は困惑だったとアップは言った。残したものは怒りでも、兄への言葉でもなかった。それを自分の動機に変えたのは、アップ自身だ」
スルクが少し笑った。
「お前は冷静に見るな」
「感情で見ることに意味がない」
「そうか。……でも、お前も今日、感情を引き金にしたんじゃないか。リライトの時」
ルベルドは黙った。
否定はしなかった。
「コゴメのことを考えた。それが先にあった」
「それでいい。それがお前の動機だ。アップの動機と、種類は違う。でもどちらも本物だよ」
山の斜面が開けてきた。麓の村の明かりが遠くに見えた。
「次は湖の神域だ」
スルクが地図を取り出した。
「そこには——また違う相手が待っている可能性がある。ただ、お前は一つ先に進んだ。今日のリライトは、ちゃんと使えた」
「一回だけだ」
「一回できた者が、できなかった者と同じだと思うか」
ルベルドは少し考えた。
「……思わない」
「そうだよ。それだけ言えれば十分だ」
山の夕暮れが、二人の背中を照らしていた。
遠くに見える村の明かりが、小さく揺れている。
ルベルドは手のひらを開いた。
リライト。
起きようとしていたことを、書き直す。
(……この力で、人を守る)
手を閉じて、山道を下った。
スルクが隣を歩いた。二人の足音が、落ち葉の上を静かに進んでいった。




