第58話
「綾音」
そこにはラットプルダウンを使ってトレーニング中の綾音がいた。綾音はこちらを一瞥するとすぐにトレーニングを再開させ、そちらに集中しているようだった。邪魔するのも悪いと思い、そのままランニングマシンに向かい、軽く走り始める。そして走り始めてから少し経った後、綾音から話しかけられた。
「何? さっき私のこと呼んだでしょ」
「えっ、あ、ああ、呼んだ呼んだ」
無視されたと思っていたので、話しかけられると思っていなかった。そのため面食らってしまい、返答がしどろもどろになる。どうやら綾音はキリのいいところまではトレーニングに集中したかったようで、無視したわけではないようだ。綾音には夜と朝に花見と怪しい事をしているところを見られている。それで軽蔑されて無視されたのかと思ったが違ったようだ。少し安心して心が穏やかになる。
「あ、あの、あれは違うから。あれは、そ、そういうのじゃないから」
何を話すべきか思い浮かばず、結局頭に浮かんでいた花見とのやりとりについて言及してしまう。勘違いされてたら恥ずかしいので、またしどろもどろな話し方になってしまった。
「あれ? ああ、花見奏音との事ね。別に何とも思ってないわよ。人間、死の危険が迫ると生存本能で子孫を残そうとするって言うしね」
「いやだから違うんだって!」
かくかくしかじかと身振り手振りで綾音に誤解であることを伝える。
「はぁ、わかったわよ。だから落ち着きなさい。まあ、あの子ならそういう事しそうではあるわね」
綾音は俺の落ち着きのなさに呆れてため息をついていた。何だか呆れられているが、分かってくれたのは良かった。
「ところで、夜と朝に俺の部屋来てたけど何の用だったんだ?」
花見とのやり取りを見てすぐに綾音はその場からいなくなってしまったので、結局用事が分からず仕舞いだった。一体彼女は何の用事で来ていたのだろうか。
「……」
綾音はその問いかけに押し黙る。何だか気まずい雰囲気になってしまう。どうやら話しづらいことらしい。そのまま黙っている事に耐えられなかったのか、遂に綾音が口を開いた。
「お礼よ。直接言ってなかったから」
「お礼?」
「あなたがいなければ、あたしは財部に殺されてた。その事よ。偶然だったかもしれないけど、ちゃんと筋は通しておきたかったから」
財部は綾音の観測者だ。観測者は、担当している超能力者が他の超能力者の経験値になりそうな場合、先んじて担当の超能力者を始末し、そのような事態を防がなければならない。綾音は本郷に殺されかけたため、財部に始末されるところだった。そこを俺が助けたのだ。助けたと言っても綾音は偶然だと思っているようだ。俺は未来視と思われる超能力で、財部の攻撃を事前に察知していた。それをもとに綾音を助けたのだが、彼女は俺がそのような超能力を使える事を知らない。だから財部の一撃から避けられたのは完全な偶然だと思っているようだ。
「あ、ああ、その事か。いやー、お互い運が良かったな。というか律儀だな、綾音も。ははは」
「……何か隠してる?」
未来視の事がバレていないか心配していたのが表情に出てしまったのかもしれない。綾音は勘が鋭いのか、俺の事を怪しみ始めた。流石に何度も死線をくぐって来ているだけに、綾音の違和感への敏感さには感心させられる。
「か、隠し事なんてしてないって。というか、ほら、俺が綾音のこと助けたって認めたなら約束守ってくれよ」
一瞬、綾音は何のことかという顔をしたが、すぐに思い出したようで、苦い表情をしていた。
「……分かったわよ。私の超能力の事でしょ」
俺は綾音の超能力がどんなものなのか知らない。以前聞こうともしたが、結局教えてくれなかった。しかし、本郷と闘う前、トレーニングルームで綾音と言い争いになった際、もし俺が綾音を助けることがあったら彼女は自分の超能力について話すと約束したのだ。何だか良い感じに誤魔化して話を逸らすことが出来た。せっかくだから彼女の超能力を見せてもらおう。ワクワクしながら待っていると、綾音がトレーニングルーム内にあるリングを差して話し始めた。
「ただ披露するのもつまらないでしょう。模擬戦で使ってるところ見せてあげるわよ」
「えっ」
普通に見せてくれれば良いのに。そう思ったが、断って話題をもとに戻されるのも困る。明後日の夜に向けて貴重な経験が積めると考えてポジティブに行くことにした。
綾音と俺。お互いがリングに上がる。
「じゃ行くわよ」
綾音のその軽い一言で戦闘が始まった。急接近してくる綾音。また本郷の時と同じように未来が見えるのかと期待していたが、今度は全く未来が見えなかった。本郷の時との違いが分からず困惑し、対応が後手に回ってしまった。しかし、俺も今まで遊んできたわけじゃない。命がけの現場をくぐり抜けるために、必死にトレーニングを繰り返してきた。大丈夫だ。そう心の中で呟き、綾音の攻撃に対処しようと試みる。綾音は中段の回し蹴りをして来ていた。最初はガードを考えたが、昨日本郷から重いのをいくつも喰らったので手がまだヒリヒリしていた。そのためガードではなく、一歩引いて避けることにする。すんでのところでうまく彼女の蹴りを避けた。『よしっ』と心の中でそう呟いたときには視界には綾音ではなく天井が映っており、そのまま仰向けにバタンと転げてしまった。そして綾音は仰向けになった俺に馬乗りになり、何処から出したのかゴム製の訓練用のナイフを俺の首元に突きつけていた。
「チェックメイトね」




