第一章:Early Summer Days/07
それから、数時間後。
「んー、終わった終わったーっ」
終了時刻を告げるチャイムの音色が鳴り響き、ぎっしり書き込まれた答案用紙が回収されていく。
回収した答案用紙の束を抱えて、監督役の教師が教室を後にする。
そうしてテストの時間が終わるや否や、ガタッと席を立った琴音がそう言いながら、うーんと大きく伸びをした。
これで今日のテストはおしまいだ。後は軽いホームルームを終えれば、それで帰宅になる。
で、戻ってきた担任が手早くホームルームの時間を終わらせると――――。
「じゃあお兄ちゃん、行こっか!」
またガタッとさっきみたいに勢いよく席を立った琴音が、後ろの戒斗に振り向きながら言った。
「あら、行くってどこに?」
すると、彼の隣席に居た香華がきょとんと首を傾げる。
それに戒斗は「例の医者先生のところだ」と答えて、
「あの先生、どうも琴音の昔の知り合いらしくってな」
「って、月詠先生が? すごい偶然もあったものね……」
「全くだ、俺も朝に聞かされて驚いたよ。――ああそうだ琴音、言い忘れてたが遥も一緒に行くみたいだぜ?」
「あ、そうなの? 別にいいけどー」
「私も、その月詠という方に興味がありますから」
琴音や、それに答える遥を横目に、戒斗もスクールバッグを担いで席を立つ。
「折角だし私もついていきたいけれど、今日はこの後ちょっとスケジュールが詰まっててね。よければ私から月詠先生に連絡だけしておくわよ?」
そんな彼を見上げながら香華は言うが、しかし戒斗はいや、と首を横に振る。
「昨日の今日だ、下手にアポ取ろうとすれば断られちまうだろうよ。ちょいと不作法だが、いきなり押しかけるのがベストじゃないか?」
「んー……ま、貴方がそれでいいなら別にいいんだけれど。確かにあの様子じゃあ、戒斗がまた会いたがってるなんて言っても駄目でしょうしね」
納得した様子の香華に「そういうことだ」と戒斗は言って、
「じゃあ、そういうことで俺たちは行くぜ。また明日な」
「香華ちゃん、またねーっ」
「では、失礼します」
「はいはい、三人とも気を付けて行ってらっしゃいな。特に戒斗、ちゃんとエスコートしてあげるのよ?」
なんて風に、席に座ったまま手を振る香華に見送られつつ、三人は教室を後にした。
廊下を歩いて、階段を降りて、昇降口でローファー靴に履き替えてから校舎の外へ。
長く緩やかな坂を上り、校門を潜って……そこからは戒斗のマンションを目指して歩いていく。
初夏の眩しい日差しに照らされながら、三人横並びになって歩くことしばらく。暑さにじっとりと汗が滲んできた頃、やっと目的地のマンションに辿り着いた。
「ここだ、上がってくれ」
「お邪魔します」
「はーい、お邪魔しまーすっ。そういえばお兄ちゃんのお家って、来るの初めてだったね」
「言われてみれば、そうだったな。――暑かったろ、これでも飲んでな」
そうして戒斗は、自宅マンションの305号室に遥と琴音を招き入れた。
閉じた玄関ドアをガチャンと施錠して、二人をリビングルームに案内する。そうすれば戒斗は冷蔵庫から出したペットボトルを二本、彼女たちに投げ渡した。
キンキンに冷えたそれはスポーツドリンクのボトルだ。このクソ暑い中を歩いてきた後なら、これ以上のもてなしはないだろう。
「わーい、お兄ちゃんありがとっ」
「すみません、気を遣わせてしまって」
それぞれスポーツドリンクを受け取って礼を言う二人に「気にするな」と言うと、
「俺は着替えてくる、二人ともその辺で適当にくつろいでてくれ」
と言って、自分は奥の部屋に入っていった。
……で、リビングに取り残された二人といえば。
「へー、ここがお兄ちゃんのお家かぁ。遥ちゃんは前にも来たことあるの?」
「あ、はい。戒斗に助けて頂いた時と、琴音さんの護衛を始めた頃の二回ですが」
「そういえば言ってたねー、お兄ちゃんに助けてもらったって」
「ええ。……尤も、その時は私も混乱していましたから、どういう部屋だったのかは覚えていませんでしたが。なのでその一回は正直ノーカウントでもいい気はします」
「あはは、まあ仕方ないよね。状況が状況なんだもん」
こんな風に、女子二人で楽しくおしゃべりなんかしていた。
話しながらスポーツドリンクをちょっとずつ口に含めば、初夏の蒸し暑さにあてられた身体がほんのり涼しくなる。熱気のせいで火照った身体から少しずつ熱も、じっとり滲んだ汗ですらも飛んでいきそうなぐらいだ。
「でも……なんだろうな、意外と質素な感じのお部屋だなー」
そんなおしゃべりの最中、ふとリビングを見渡しながら琴音がそう言う。
会話の中での、それは何気ない発言だ。彼女も特に何かを意図したわけじゃない、ただ単純な感想。
「……琴音さんも、そう思いましたか?」
でも、それは以前に遥が抱いたのと全く同じ感想で。だからか遥はそう、同意を求めるように訊いた。
それに琴音は「そだねー」といつもの呑気な顔で頷いて、
「別に生活感がないってわけじゃないんだけどねー。ほらアニメとか漫画とかでありがちじゃん? 家具も何もなくて、ベッドしかないような……さ。ああいう感じとは違うんだけれど……うーん、なんて表現したらいいのかな。子供の頃によく一緒に遊んでた頃の、あのお兄ちゃんのお部屋とは随分違うんだなーって」
「昔は、こうじゃなかったんですか?」
「そうだね、全然違ったよ。もっとこう、賑やかな感じだったかな? 合体ロボのおもちゃとかゲーム機とか、色んなものがあってさ……あ、でも本は無かったかも。あっても漫画の本が何冊かぐらいで、あんな風に積み上げるほどはなかったかなー」
と、琴音は部屋の片隅に積まれた本の山を見ながら言う。
テレビと向かい合ったソファの前、そこにある背の低いテーブルの上に文庫本がこれでもかと山積みされているのだ。なんとなく買ってきたばかりのような雰囲気だが、あれで意外に読書家な彼のことだ――きっとすぐに読み切ってしまうだろう。
「……確か、読書をするようになったのはお姉さんの影響、でしたか」
「ね、言ってたねそんなこと。雪乃さんかぁ……元気にしてるのかな、また会いたいなー」
「……琴音さんは、戒斗のお姉さんと会ったことがあるんですよね?」
「うん、割と会ってたよ。弟の暁斗くん……ほら、前に香華ちゃんの豪華客船に来た、あの子とも」
――――戦部雪乃と、戦部暁斗。
どちらも戒斗にとって、血を分けた姉と弟だ。雪乃は共にマリアに拾われて育ち、そして死んだと思われていた暁斗は……生き延び、ミディエイターの刺客として現れた。
「そういえば、あの方も戒斗の弟さんだと仰られていましたね……」
それを――特に暁斗のことを思い出した遥が、なんとも言えない顔でそう呟く。
それに琴音は「あっ、ごめんごめん! 今はそういう雰囲気じゃないもんね」とあたふたした顔で詫びて。
「……で、雪乃さんのことだっけ?」
と、わざとらしいぐらいに話を軌道修正した。
「その方、どんなお姉さんだったんですか?」
訊かれた琴音はんー、と少し思案して。
「なんていうか、完璧超人だったなーって感じかな」
「完璧超人、ですか……」
「うん。すっごく頭も良いし運動神経も抜群でさ、いわゆる文武両道っていうのかな? しかも私と同じ……えっと、なんでもパッと見て覚えちゃう特技。あれなんだっけ?」
「それは、完全記憶能力のことですか?」
「合ってる合ってる! それも持っててさ……しかもすっごい美人なの。性格もいつも冷静で落ち着いた雰囲気でさ、でも色々ハッキリ言っちゃうタイプだから、なんとなーく近寄りがたい感じはあったんだけど、でも私は好きだったなー。それにお兄ちゃんのことすっごい可愛がっててね? なんていうか……弟LOVE! って感じだったね、うん」
「……なんとなく、想像つきますね」
特に、最後に関しては。
時たま戒斗の口から漏れ出てくる情報から、なんとなく遥が予想していた通りの姉のようだ。特に琴音が最後に言った弟LOVE、つまり彼を溺愛していたというのも、遥の抱いていたイメージにぴったりだった。
でなければ、何かにつけては戒斗の口から雪乃の話が出るはずがない。
それに、マリアによれば彼はお姉ちゃんっ子だそうだ。そういう意味でも、雪乃という姉が随分と彼を溺愛していたのは納得できる。
「でも、なんでそんなこと訊きたかったの?」
なんてことを一人で納得していた遥に、琴音がそう今更な疑問を口にする。
「何となく、です。特に理由があるわけではありませんよ」
それに遥はそう答えたが、しかし――実を言うと、内心はちょっと違っていた。
――――彼にとっての姉という存在がどういうものか、それを知りたくなったのだ。
どうしてだかは、自分でもよく分からない。ただ言えることは……自分が彼よりひとつ年上で、頼ってもいいなんて前に言ったから。
理由らしい理由といえば、その程度なものだ。
前に、彼は自分を不思議な女の子だと言った。隣に居ると心のどこかで安心すると、こんな気分になったのは姉ちゃんが居たとき以来だと。
それが、単純に嬉しかったのかも知れない。
もしくは頼ってもいいと言った手前、彼がどんな風に姉と接していたのか……それを、知りたかったのかも知れない。理由なんてのはその程度のことだと、遥はそう思っていた。
――――少なくとも、彼女が自覚する上では。
(戒斗の、お姉さんですか……)
私で、少しは代わりになれるのでしょうか――――。
どうしてだかは分からないが、でも……不思議とそんな思いを、遥は抱いていた。
「――――すまん、待たせたな」
そうした頃に、ガラリと戸を開けた戒斗がリビングルームに戻ってくる。
今までのブレザー制服から打って変わって、いつもの私服姿だ。トレードマークの黒いロングコートを羽織った、一番見慣れた姿で戻ってきた。
片手には古い車のキーをぶら下げている。わざわざ一度こうして自宅マンションを経由したのも、制服のまま車を運転するのも変だろうから、一応着替えておきたいという……実は、ただそれだけの理由だったり。
ともかく戒斗は着替えて戻ってくると、すぐに「よし、行こうぜ」と言って玄関の方に歩いていく。
「はい、参りましょうか」
「うんっ、分かったよー」
そんな彼の後ろに、遥と琴音もついていった。




