第四章:Princess of Azur/02
「おお……」
首都高速湾岸線を通り、やって来た横浜港は大黒ふ頭。
そこで香華たちと一緒にリムジンを降りた戒斗は、岸壁に接岸する巨大な船影の前にただただ圧倒されていた。
――――プリンセス・オブ・アズール号。
西園寺財閥が建造した世界屈指の超大型豪華客船。全長およそ340メートルの巨大な船体は、まるでひとつの街のようだと喩えられるほどだという。その超巨大な船影は……遠目で見ても、まるで高層ビルが海の上にそびえ立っているかのようだった。
世界で見ればこれ以上のものはあるだろうが、しかし日本船籍の豪華客船としては最大クラスなのは間違いない。
この超巨大な豪華客船に、今から乗り込むのだ――――。
今こうして目にしても、まだ現実味が湧かない。だから戒斗はただただ目の前の光景に圧倒されていた。
「どう? これがウチのプリンセス・オブ・アズールよ。設備は大さん橋のターミナルの方は良いのだけれど、この大きさだからベイブリッジを潜れないのよね」
と、呆然と船を見上げる戒斗の横に立って香華が言う。
そうだろうな、と戒斗も納得していた。
ここまで大きい船では、東京ベイブリッジの下はどう考えても潜れないだろう。確かに香華の言う通り、乗船するターミナルの設備はベイブリッジの向こうにある大さん橋の方が良いに違いないが……物理的に行けないものはどうしようもない。
「さ、行きましょ」
と言って、香華はターミナルの方に歩いていく。
戒斗たちもそれに続いて、ターミナルの中へ。そこで多少の手続きを済ませた後、すぐに乗船する。この辺りはそもそも香華が船のオーナーみたいな立場ということもあって、普通よりずっと簡単な手続きで済んだ。
岸壁に設置されたタラップを昇って、遂にプリンセス・オブ・アズール号の船内へ。
「おお……」
そうして乗り込んだ先に広がっていたのは、まさに別世界だった。
入ってすぐに行き着いたのは煌びやかな吹き抜けのエントランスホール。どこか劇場のように優雅で華やかな空間が、乗船した戒斗たちの前に広がっていた。
乗組員たちが深々と礼をして出迎える中、聞こえてくるのは生バンドの賑やかな演奏。上を見ても下を見ても、ここは……文字通りの別世界だ。
まるで、映画の中に入り込んだのかと錯覚を覚えてしまうような景色。
そんな景色に、戒斗だけじゃない……遥も同じように圧倒されていた。
「これは……私たち、少々場違いな気もしますね……」
呆然とエントランスを眺める戒斗の横で、遥がポツリと呟く。
「ま、まあ仕事で来てるんだからな……ビビるこたあねえよ、堂々と行こうぜ」
それに戒斗は戸惑いの色を隠せない口調で呟き返すと、どんどん先に行ってしまう香華の後を追って歩き出した。
と、そんな彼と一緒に遥も歩き出そうとした時――――。
「っ……!?」
躓いてバランスを崩した遥が、前のめりに転びかけてしまう。
「おっと」
が、あわやといった時に戒斗がひょいっと彼女を抱き留めた。
「大丈夫か?」
「……すみません、ヒールはあまり慣れないもので……」
慣れないドレスとハイヒールのせいで、危うく転びかけた遥。
すんでのところで支えてくれた彼にお礼を言いつつ、遥は立ち上がる。
そんな彼女に「ま、だろうな」と戒斗は小さく肩を揺らして返した後で、
「ほら、掴まってな」
と言って、彼女に手を差し伸べた。
「あの……?」
その意図が読めず、遥はきょとんと首を傾げる。
すると戒斗はフッと小さく笑い、
「折角の綺麗なドレス、汚れちゃマズいだろ?」
なんて風に、少し回りくどくも聞こえる台詞で返してやる。
「それとも、エスコート役が俺じゃ不満かい?」
「いえ、そんなことは。……では、お言葉に甘えて」
少し戸惑いながらも、遥は差し出された彼の手をぎゅっと握り返す。
それに戒斗は満足そうに小さく笑うと、ドレス姿の彼女の手を引いて再び歩き出した。
「ちょっと、何やってんの? 置いてっちゃうわよ?」
「悪い悪い、そう慌てんなって」
高野と先に行っていた香華と合流して、四人で一緒にエレベーターに乗り込む。
行き先は九階。船尾側にある最上級のロイヤルスウィートルームが……今回滞在する客室だ。
「うっわ、マジかよ……」
「この広さは、予想以上ですね……」
カードキーで開いたドアの先、宛がわれたスウィートルームの広さに……戒斗と遥は、本日何度目かという感嘆の声を漏らしていた。
ロイヤルスウィート、と言うだけあって、客室は意味不明なまでに広い。
豪華絢爛、かつ嫌味すぎず気品のある調度品で彩られた部屋は冗談みたいに広く、九階と十階の二フロアに跨った造りになっている。
なにせ部屋に螺旋階段があるぐらいだ。最早これは船の客室というより、高級マンションの一室に近い。
まず間違いなく、戒斗が普段暮らしているマンションの部屋より広いだろう。
そんなロイヤルスウィートルームの景色に……戒斗も遥も、ただただ圧倒されるがまま呆然と立ち尽くしていた。
「とりあえず荷物はこっちに運んでおいたけれど、貴方たちには隣の部屋を用意してあるわ。パーティーが何事もなく終わったら、今日はそっちに泊まって頂戴?」
「あ、ああ……助かるよ」
「二人とも同じ部屋にしちゃったけど、マズかったかしら? もし嫌だったら別の部屋も用意するけれど」
「い、いえ……大丈夫です、私は別に一緒でも」
香華はどうやら、戒斗たち用に同クラスの部屋をもうひとつ用意してくれているらしい。
一泊で間違いなく数百万はするだろうこのスウィートルームを、だ。香華はこの短い船旅だけで、一体どれだけの費用を費やしたのか……考えるだけでも恐ろしい。
とはいえ、彼女は一応この船のオーナーみたいな立場でもある。
だから費用面は意外と掛かっていないのかも知れない……が、その辺りは彼女のみが知ること。少なくとも戒斗はわざわざ聞こうとは思わなかった。
「さてと……出航まではもうしばらく時間があるから、二人ともゆっくりして頂戴な。何か飲む?」
と、ふわふわのソファに腰掛けた香華が言う。
戒斗と遥はそんな彼女の対面に座りつつ、
「だったら駆けつけ一杯……といきたいところだが、生憎と俺は呑まない主義なんでね。適当なので構わないぜ」
「……私も、右に同じくです」
なんて風に、それぞれ答える。
すると香華は「あらそう?」と相槌を打った後で、傍らに控えていた高野に目配せをした。
そうすれば高野は静かに頷き返して、手早く二人分の紅茶を淹れてくれる。
といっても、客室に備え付けのティーセットを使ったものだ。
「お待たせしました、カップがお熱くなっていますので、お二人ともお気を付けくださいね」
「悪いな、ご馳走になるよ」
「頂きます」
コトンと高野が丁寧に差し出してくれたティーカップを取って、まず一口飲んでみる。
……美味い。
流石にこれだけの豪華客船、しかも一等級のロイヤルスウィートルームだけはあるようだ。流石に専門店クラスとまではいかないまでも、しかし客室備え付けのものとは思えないほどに上等で、深い味わいが口の中に広がる。一杯だけといわず、二杯でも三杯でも飲みたくなるような……それぐらいに、出された紅茶は美味だった。
「……おお、美味いな」
「ええ、本当に美味しいですね」
「高野の淹れ方がいいのよ、私よりずっと上手だからね」
「ふふっ、恐れ入りますお嬢様」
紅茶の味に舌鼓を打つ戒斗たちに自慢げな顔で言う香華と、少しだけ照れくさそうに笑う高野。
「……ひとつ、訊いてもいいか?」
そんな時、戒斗はふと思い出した疑問を香華に投げかけてみることにした。
「私に答えられることなら、ね」
「初めて会った時のこと、覚えてるよな?」
ええ、と香華は頷く。
「貴方に助けられた時のことね、まだお互いちゃんと知り合う前の」
「……あの時、なんでまた一人で出歩いたりしてたんだ? 君はあの時点で既に狙われてたはずだろ?」
言われてみれば、と隣で黙って耳を傾けていた遥も思っていた。
彼が質問するまで気付かなかったが――よくよく考えてみれば、香華は帰国する前、アメリカに居た段階でもう五回も襲撃を受けている。
そんな彼女が、どうして高野や護衛も連れぬまま、たった一人で繁華街に居たのか。
冷静に考えるとおかしな話だ。香華だって自分が狙われていることぐらい、当然分かっているはず……なのに、どうして?
「いくらなんでも、不用心すぎやしないか?」
遥が内心で抱いていた疑問と全く同じ質問を、戒斗は香華に投げかける。
すると香華はコトン、と手にしていたカップをソーサーの上に置いて。
「……気晴らしが、したかったのよ」
と、静かな口調で答えた。
「ああいう人の多い大通り、しかも昼間なら大丈夫だと思ったのよ。この国ならアメリカと違って治安も良いから。でも……あんなのに絡まれるとは思わなかったわ」
「ま、確かに昼間ならよっぽど安全なのは間違いないがな」
実際、香華の考えはあながち間違いでもない。
例え戒斗たちのようなスイーパーが居るとしても、日本の治安はアメリカに比べればずっといい。相手が例え香華を狙っていても、日中の……それも人の多い繁華街で派手に仕掛けるなんてことはまずないことだ。
理由は簡単、大騒ぎになれば相手にとっても都合が悪いから。
だから可能性はゼロじゃないにしても……昼間の繁華街、それも表通りで襲撃を喰らう確率はそう高くない。それこそ先日の……琴音を狙って現れた、マティアス・ベンディクス率いるミディエイターの一件はイレギュラー中のイレギュラーだ。
が、可能性が低いからといって危険が消えたわけじゃない。
「今後は気をつけた方がいいぜ、少なくともこの件が片付くまでの間はな」
だから戒斗は、諭すような口調で彼女に言う。
すると香華も「……ええ、そうね」と頷き返して。
「貴方の言う通りにするわ。あの後、高野にもこっぴどく怒られちゃったし」
「そうですよお嬢様、解決するまでの間は軽率な行動はお控えください。アメリカで守ってくださっていた、あのスイーパーの方も仰っていたではありませんか。『油断は大敵、狙われる立場なら気を張りすぎぐらいな方が丁度いい』と……」
「……ん?」
肩を揺らす香華に、どこか説教じみた風に言う高野。
そんな彼の言葉の中に出てきた台詞に、戒斗は何故か引っ掛かりを覚えていた。
「戒斗、どうかしましたか?」
遥はそんな彼の様子に気付き、問うてみる。
すると戒斗は「……いや」と小さく首を横に振り。
「そういえば、姉ちゃんも似たようなことを言ってたな、って」
「というと、前任の護衛の方が仰っていたという……?」
ああ、と戒斗は頷く。
「多分、偶然だとは思うがな……」
続けて言いながら、同時に戒斗の頭にフラッシュバックするのは、かつて姉が口にしていた言葉。
『――――狙われている立場で、油断は一番やってはいけないこと。相手はいつどこからやって来るか分からないんですもの。気を張りすぎなぐらいが丁度いいわ。だから戒斗、よく覚えておきなさい。こういう心がけはきっと将来、貴方の役に立つはずだから』
かつて姉が――雪乃がよく口にしていた言葉とよく似た台詞を、高野は口にした。
もちろん、こんなのは単なる偶然、たまたま同じような言葉だったというだけに過ぎないだろう。そんなことは戒斗にだって分かっている。
でも――――不思議と戒斗は、高野の口を通して聞いたその言葉に、奇妙な懐かしさを覚えていた。
「戒斗のお姉さん、ですか……」
と、そう思う戒斗の顔を遥が横目に見ていた時のことだった。
コンコン、と――――誰かがこの部屋のドアを、外側からノックする音が聞こえてきたのは。




