第五章:FALLEN ANGEL/02
「うおおおっ!?」
ロケットランチャーが飛び込んできた部屋が爆発した瞬間、戒斗は瑠梨を抱きかかえたまま部屋の外まで吹っ飛ばされる。
爆炎の残滓を浴びながら、ドンっと玄関の外に転がり出る二人。だがとりあえずは無事だったらしく、二人とも小さなうめき声を上げる。
「げほっ、げほっ……ひょっとして、私たち死んだじゃない?」
「生きてるよ、どうにかな……しっかし連中、ひでえことしやがる」
二人で起き上がりながら、玄関の向こうに広がる部屋の惨状を見る。
……当たり前だが、今まで居た部屋はもうひどいことになっていた。
ロケットランチャーを喰らったのだから当然だ。玄関からだと大して見えないが……部屋の中に広がるのがどんな惨状かは想像に難くない。
だが、とりあえず生きている。RPGから逃げられたのは幸運だった。きっと連中も今ので仕留めたと思っているのだろう、まだ敵がここまで押し寄せてくる気配はない。
「とにかく、逃げるぜ瑠梨!」
「え、ええ……!」
逃げるなら、今しかチャンスはない。
敵が仕留めたと思い込んでいる今が絶好のチャンスだ。それを逃すまいと、戒斗は瑠梨を連れて走り出した。
今の爆発を聞いた他の部屋の住人たちが、何事かと廊下に顔を出していたが……そんなの気にせず、戒斗は住人を押し退けて一目散に走り抜ける。
「……これじゃあ、もう戻るのは無理ね」
「後始末はマリアと智里に任せりゃいいが……あの野郎どもめ、マジで加減ってもんを知らねえのかよ」
「それだけ一億ドルは魅力的なのよ。後処理のことを考えてもお釣りがくる額だわ」
「人気者は辛いな……泣けるぜ、ホントによ」
野次馬どもを押し退けて、戒斗と瑠梨はマンションの外に飛び出していく。
向かう先は近くの貸しガレージ、そこにしまってあるカマロだ。とにかく今は一刻でも早く逃げなきゃならない、そのために車は必須だ……。
幸い、ガレージまでの道中で敵に襲われることはなかった。
難なく辿り着いた二人は、すぐにカマロに乗り込む。
キーを捻ってエンジン始動。カマロには悪いが、今日は暖機運転の時間を待ってやる暇はない。エンジンを掛けるなり戒斗はすぐにギアを入れて車を発進させた。
バラララ、と乾いた音を立てて、オレンジ色のカマロが雨の降る夜の街を疾走する。
「……どうにか逃げられはしたけど、この後はどうする気なの?」
「とりあえず、君を家に帰したい」
キュッキュッとワイパーの動く音が聞こえる中、戒斗は瑠梨に言う。
「ここまで来たら一蓮托生よ、私も最後まで貴方に付き合うわ」
「嬉しいこと言ってくれるな、だが受け取るのはその気持ちだけだ。これは……俺の戦いだからな。君を巻き込みたくはない」
「あら、最初の契約条件を忘れちゃったのかしら? 私が協力するのはミディエイター周りのことと、貴方のことだけ。つまり……これは契約の範囲内よ、違う?」
「……だったら、必要なときには手を貸してくれ。とにかく今は君を連れて行けない」
「それってつまり、私が足手まといになるから?」
「……それで君が納得してくれるのなら、そう思ってくれていい」
「ふふ……ほんと嘘が下手ね、貴方って」
チラリとも見ないまま言う戒斗と、おかしそうに笑う瑠梨。
方便としてはバレバレの嘘だが……それでも、これで彼女が納得してくれるならそれでいい。今はとにかく瑠梨を逃がしてやるのが先決だ。少なくとも今は、瑠梨をこれ以上巻き込みたくはない。
問題があるとすれば、このまま無事に辿り着かせてくれるかだ。流石に追っ手を引き連れて行くわけにはいかない。このまま敵に察知されずに、瑠梨の家の近くまで行けるのが一番ありがたいのだが……。
「――――チッ、感づかれたか」
しかし、そうはいかないようだ。
バックミラーに映るのは、カマロを猛スピードで追ってくる三台分のヘッドライト。こちらを追跡していることはライトの挙動と、何より背中にピリピリと伝わる殺気で明らかだ。
「瑠梨、頭を低くしてろ」
「えっ?」
「敵だ――ここからはカーチェイスになる!」
戒斗が叫んだ瞬間、後ろから遂に銃撃が飛んできた。
チュインッと甲高い音を立てて車のすぐ近くを何発も掠めて、その内の一発はカマロのリアウィンドウを粉砕。後部座席の床に小さな穴が穿たれてしまう。
「ちょっ……!?」
「いいから、伏せてろっ!!」
戸惑う瑠梨の背中をバッと押し、強引に伏せさせながらハンドルを切る戒斗。
悔しいが、向こうの方がスピードは速い。この年代物のカマロじゃ振り切れそうにない――なら、迎え撃つしかない!
戒斗はそう思い、グッとハンドルを切って車をスピンさせて……鼻先を後ろに向けてバック走行を開始。迫る追っ手の車と真っ正面から相対した。
「さあ、真っ向勝負だ……!」
カマロを後ろ向きに走らせながら、戒斗はバッと1911を抜く。
左手でハンドルを動かし、ピストルを握った右手は前に伸ばして――――。
「喰らいやがれっ!!」
そのまま、戒斗はトリガーを引いた。
発射された弾丸はカマロのフロントガラスを貫き、その向こうに近づく追っ手の車に激突。ボンネットやガラスにいくつもの弾痕を穿つ。
が、致命傷には至らない。
敵も恐れずに、そのままバックで走るカマロに衝突。ひしゃげたフロントバンパー同士をぶつけ合い、零距離での押し相撲を始めた。
「てめえから近づいてくれるとは、ありがてえっ!!」
しかし、それは互いの距離が極限まで狭まったのと同じこと。
この距離であれば、例え走りながらであっても……戒斗ならば、外さない!
「まずは、コイツで一台だ!」
狙い定めて、タタタンとピストルを連射。そうすれば戒斗は目の前の車の運転席と、ついでに助手席に座っていた奴の頭もブチ抜いてやる。
当然、運転手を失った車はコントロールを失い急減速。ふらふらと蛇行した後にガンっと中央分離帯に激突すれば、それきり動き出すことはなかった。
「よし、次だ……!」
「左から来るわ、戒斗っ!」
だが息つく間もなく、次の一台が迫ってくる。
今度はバックするカマロの左からだ。近づいてきたその車はガンっと横からぶつかってきて、そのせいでカマロの挙動が一瞬ブレる。
が、そこは戒斗だ。バックで走りながらも上手くハンドルを捌きつつ、どうにかスピンだけは免れた。
……とはいえ、今の衝突で左のサイドミラーは吹っ飛び、ボディも大きくひしゃげてしまったのだが。
「この野郎っ、やりやがったな!?」
リロードした1911を窓の向こうに構えて、タタタンと撃ちまくる戒斗。
そうすれば――今度はフロントタイヤに命中。向こうの乗員は今まさにピストルを向けようとしていたのだが、しかしタイヤが弾けた今はそれどころじゃない。運転手の腕がいいのか、どうにかコントロールは維持していたが……しかし、あの分だと追撃は不可能だろう。
カマロの割れたフロントガラスの向こう側で、失速した二台目のシルエットが加速度的に遠ざかっていく。
なんにしても、これで二台目も撃破――残る追っ手は、一台だけだ。
「よし……!」
再びギュッとカマロをスピンさせて、元の進行方向に向き直りつつ……戒斗は再び1911のマガジンを交換。元のP226と違ってたった七発しか弾が入らないのが悲しいところだが、撃てるだけマシと思おう。
「ッ――伏せろ、瑠梨っ!!」
「きゃっ……!?」
とした時に、今度は右から衝撃が襲い掛かってきた。
正しく言えば、右後方。遂に三台目の追っ手も追いついてきて、今まさにカマロのリアバンパーに衝突したのだ……!
結構な勢いを乗せてぶつかってきたせいか、リアバンパーの固定が外れて右側がぶらぶらと宙吊りになってしまう。
そのまま追っ手の車は加速し、カマロと並走を開始。すると助手席側の開いた窓から、ピストルの銃口がこっちに顔を覗かせた。
「ッ……!」
ハッとして、戒斗が頭を後ろに逸らす。
その瞬間、向こうの銃口がパッと瞬いて……飛んできた弾丸がパッと戒斗の前髪を掠めていった。
微かに散るのは、掠め取られた前髪のほんの短い毛先。しかし咄嗟に頭を逸らしていなかったら……今頃、あの弾丸は側頭部を貫いていたことだろう。
だが、戒斗はどうにか避けられていた。
「この……っ!」
すると、弾丸が飛び込んできた直後――瑠梨が隣の車に反撃を仕掛ける。
彼女が懐から抜いて構えたピストルは、見覚えのあるグロック19。前にエルロンダイクで護身用にと、ミディエイターの兵士から剥ぎ取って渡したものだ。まだそれを後生大事に持っていたらしい。
そのグロックを抜いた瑠梨は、隣を並走する車に向けて発砲。七発ほど一気に叩き込めば、助手席の――今まさに戒斗を狙ったヤツを撃ち抜いてみせた。
「やるな瑠梨、いい腕だっ!」
意外な彼女の反撃を褒めつつ、戒斗も瑠梨と一緒に1911を発砲。彼は彼で運転席のドライバーをブチ抜いてやった。
運転手を失った三台目の車もまた、ふらふらと蛇行して失速し始める。
「よし、これでラストだ……!」
「待って、誰かがこっちに――きゃっ!?」
これで追っ手は殲滅した――――戒斗がそう思ったとき、瑠梨の声とともにダンッと衝撃がカマロを揺さぶった。
何事かと思った戒斗がハッと振り向けば……どういうわけだか、相撲取りのように大柄な男が右のドアにぶら下がっているではないか。
「なっ……!?」
これには、流石の戒斗も目を見開いて驚く。
恐らくはさっきの車の屋根から飛び移ってきたのだろうが……にしたって、なんて度胸だ。猛スピードで走る車から車に飛び乗ってくるなんて……!
「っ、掴まないでよ、この……っ!!」
「くっ……!」
ソイツを戒斗はすぐに撃とうとしたが、しかし奴はそれよりも早く瑠梨の襟首を掴み、盾にしてしまう。
これでは、撃とうにも撃てない。戒斗がためらっている間にも、奴はドアの窓枠をよじ登って中に入ってこようとしている。
一体、どうしたら――――!?
そんな焦燥感を覚えたとき、行く手にあるものを見つけた戒斗は――ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「っ……瑠梨、ドアを開けろっ!」
「えっ!?」
「いいから、開けろっ!!」
必死の形相の彼に言われるがまま、瑠梨は助手席側のドアを開ける。
同時に、戒斗もギュッとハンドルを捻り……再びカマロをバック走行させる。
すると強い向かい風を浴びて、ドアが勢いよくバンッと開いた。
「うおっ」
そうすれば、ドアにしがみついていた男も思わず瑠梨の襟から手を離してしまう。
だが、次の瞬間――――それよりももっと強烈な一撃が、奴の全身に襲い掛かった。
……ドアが、激突したのだ。
路肩にある電柱に、カマロの右ドアがバァンッと激突。そのまま衝撃でドアが千切れ飛べば、しがみついていた男ともども吹っ飛び……奴はそのまま、アスファルトの地面に叩きつけられた。
その姿はすぐに見えなくなったが、どう考えたって即死だ。衝突の衝撃もプラスして、猛スピードで走行中の車から投げ出されたのだ。これは確実に生きてはいまい。
「な、なるほどね……考えたわね、社長」
「その代わり、ドア一枚が犠牲になっちまったがな……修理のことを考えると、今から頭が痛くなる」
「生命あっての物種よ、そう思った方がいいわ」
「……今の、慰めだと思っておくぜ」
カマロをまたグッと前向き姿勢に戻しつつ、戒斗が青い顔で呟く。
実際、まだ走れているのが不思議なぐらいに……今のカマロはもうズタボロもいいところだった。
だがまあ、何にしても追っ手は退けられた。瑠梨の言うように生命あっての物種と思うことにしようと、心の中で戒斗は自分を慰めるのだった……。
結論から言うと、どうにか辿り着くことはできた。
しかし瑠梨の住む郊外のマンション、その近くにある川沿いの堤防道に入ったとき……カマロのボンネットからボンっと白煙が噴き出す。
オーバーヒートだ。どうもフロントバンパーに突っ込まれたときに冷却システムもイカれたらしく、過熱したV8エンジンが限界を迎えて吹き飛んでしまったのだ。
むしろ、本当によくここまで耐えてくれたといえる。もうカマロは走れそうにないが……とにかく、瑠梨を送り届けることはできたわけだ。
「瑠梨、この辺りでいいか?」
停めた……というより機能停止したカマロの中で、戒斗が問いかける。
すると瑠梨は「え、ええ……」と答えながら――――どうしてか、小刻みに震えていた。
それが心配になって戒斗が「大丈夫か?」と問うてみると、瑠梨はコクリと頷いて。
「……大した、ことじゃないわ」
と、声を震わせながら気丈に振る舞ってみせる。
「ただ、人を撃ったのは初めてなの。この間のエルロンダイクで、アマテラスを使ったときとは……実感が違いすぎて。自分の手でって思ったら、それで……ちょっと、今更ね」
「正常な反応だ、人として正しい反応だよ。初めて人を撃って平気でいられるのは異常者だけだ」
「そう……ありがと、気を遣わせたわね」
ポンッと肩を叩く戒斗に、フッと微かに表情を綻ばせる瑠梨。
瑠梨はこれでいて肝の据わったタイプだ。今はこんな風に動揺していても、すぐに心の中で区切りをつけてくれるだろう。こういう場合は、過剰な気づかいは却ってその邪魔になる。
そう思った戒斗はこれ以上は何も言わず、ただ彼女の手にキーを握らせた。
今抜いたばかりの、カマロのキーだ。
「落ち着いたらでいい、一誠に連絡してコイツを回収するように言っておいてくれ」
「え、ええ……それは構わないけれど、直すの? というか……直るのかしら」
「出来るなら、な」
答えて、戒斗はドアを開けて車の外に出る。
それに続いて、瑠梨もカマロから降りた。暗い夜の堤防道で、雨に打たれながら二人は車越しに一度見合った後で。
「…………巻き込んで、すまなかった」
「貴方と私は一蓮托生よ、二度も言わせないで。これも契約の範囲内……だから、落ち着いたら必ず連絡しなさい。私に出来ることなら全力でサポートするから」
「ああ、必要なときは遠慮なく頼らせてもらう。……帰り道、気をつけてな」
そんな会話を交わして、最後に戒斗はそう言うと――――雨に肩を濡らしながら、瑠梨の前から去っていった。
コツコツという足音が遠ざかって、やがて彼の背中も真っ暗な夜闇の中に消えていく。
「…………戒斗、貴方も気をつけなさい」
独り残された瑠梨は、しばらくその場に留まったまま……遠ざかる背中が見えなくなるまで、じっと彼を見送っていた。
――――雨音に混じって、夜の街に乾いた音が轟く。
「くそっ!」
それは銃声だった。戒斗と、彼と交戦する敵の響かせる火薬の音だった。
戒斗の構えたM1911が火を噴き、その先で胸を撃たれたスイーパーががっくりと倒れる。
「なんてこった、弾切れかよ……!」
それで襲い掛かってきた敵は最後の一人だったが、しかし同時に彼のピストルも弾を切らしてしまった。
予備のマガジンも全て使い切った今、右手に握るそれは単なる鉄の塊でしかない。戒斗は舌を打ちながら1911を道端に投げ捨てると、雨の中を必死に駆けていった。
…………これで、何度目の襲撃を退けたのだろうか。
瑠梨と別れてから、記憶にある限りこれで三回目の戦闘だった。戒斗はあの後で三度もスイーパーたちに襲われ、それを退けていたのだ。
しかし、彼らは戒斗を追跡してきたという感じじゃない。
むしろ真逆で、探している最中に偶然出くわしたという雰囲気だった。マリアの言うように、街中のスイーパーが血眼になって戒斗を狙っているのだろう。なにせ彼は一億ドルの賞金首だ、連中が必死に探すのも無理はない。
だが、追われる身としてはたまったもんじゃない。
現に度重なる戦闘で、もう戒斗の疲労は限界に近かった。それに弾も撃ち尽くした今、武器らしい武器はポケットにしまった折り畳みナイフだけ。状況としては……あまりに最悪の一言だった。
それでも、戒斗は諦めていない。
折れそうになる心を必死に叩き上げながら、戒斗は必死に走っていた。雨でずぶ濡れになるのも構わず、ただこの場を生き延びるために。
だが、逃げるのも一筋縄じゃいかない。
街で戒斗を探しているのは賞金目当てのスイーパーだけじゃない、警察も彼を追っているのだ。智里が抑えてくれているから、普通よりも捜査の規模は小さく動きも鈍いのだろうが……それでも警察とスイーパー、二種類の脅威から隠れつつ逃げるのは至難の業だ。
そんな中を、戒斗は逃げて逃げて、逃げ続けて……そうして何時間も逃げた果てに、彼はある場所に行きついたのだった。
「ここは……」
立ち止まった彼が見上げるのは、大きな鉄筋コンクリートの建屋だ。しかしどう見ても荒廃していて、人の気配はまるでない。
そこは、郊外にある廃病院だった。
昔は大きな総合病院だったのだろうが、なんらかの事情で廃業したのか……今はただの廃墟と化している。買い手がつかなかったのか、廃業して結構経つ今でもかつての姿のまま、荒れ果てた廃墟の姿を晒している。
彼がその廃病院に行きついたのは、全くの偶然だった。
必死に逃げ延びる中で、たまたま廃病院の前を通りがかったのだ。
見たところ周りに人気も少なく、潜伏するにはうってつけかも知れない。それに彼の疲労もとっくに限界だ。今後のことを考えるのなら……休むべきタイミングなのは事実だった。
「……ま、他に選択肢はねえわな」
ひとりごちながら、戒斗は意を決してその廃病院に足を踏み入れることにした。
ジャリジャリと割れたガラスを踏み締めて、病院の中へ。外見と同じように中も荒れ果てたそこは、廃業して一年や二年といった感じじゃない。この調子だと、少なくとも五年か十年は経っているだろう。
だが、いくら荒れ果てていても雨風は凌げる。それに運が良ければ多少の医薬品も残っているはずだ。
「後はお化けが出ないことを祈るばかり、だな……」
独り言を呟きつつ、戒斗は更に奥の方へと足を向ける。
病院の中は真っ暗だった。当然だが電気なんて通っているわけもない。照明は望むべくもないだろう。
そんな暗い病院の廊下を、戒斗は懐に忍ばせておいたタクティカルライト――戦闘用の懐中電灯で照らしつつ、奥へと進んでいく。
幸いにして人の気配はなく、幽霊とバッタリご対面ということもなかった。
それに……処置室らしい部屋で、少しだが医薬品も見つかった。ちょうど怪我の治療もしたかったし、これは僥倖だ。
まあ怪我といってもかすり傷ばかりだ。格闘戦で地面を転がった時に負ったものとか、そんな程度のもの。包帯と消毒薬でもあれば事足りる。
「ランボーにならなくて済んだだけ、ありがたいと思うべきだな……っとっと」
処置室のベッドに腰掛けて、腕に包帯を巻きつつ呟く戒斗。
実際のところ、ランボーよろしく山奥に身をひそめてのサバイバル生活は真面目に検討していた。だがそうはならずに、廃墟とはいえ雨風の凌げる屋根付きの場所に隠れられただけ御の字だった。
だが……問題があるとすれば、この後のことだ。
「さあてと、どうしたもんか……」
かすり傷の治療が終わったところで、戒斗は自分の持ち物を確認してみる。
そう多くはない。折り畳みナイフとタクティカルライト、後は多少の現金と使うに使えないスマートフォンのみ。
武器が無いのも問題だが、一番の懸念点は――――。
「食い物、どうすっかな……」
――――そう、それが最大の問題だ。
明日以降の食事をどうするか、考えただけでも胃が痛くなってくる。買い物に行こうにも、今また迂闊に出歩けば捜索中の刑事に見つかるか、またスイーパーどもとドンパチする羽目になるのは目に見えていた。
外を出歩くにしても、多少はほとぼりを冷まさなきゃならない。
「こんな時、姉ちゃんならどうするんだ……?」
そんなことを考えながら、ふと頭によぎるのは――姉の、雪乃のことだった。
同じ状況に置かれたときに、彼女ならどうするのか。彼女なら一体どうやって切り抜けるのか。
「いや――――姉ちゃんだったら、最初からこうはならねえか」
きっと雪乃なら、そもそもこうなる前に手を打つだろう。
そんな風に思い直せば、戒斗はフッと自嘲じみた笑みを浮かべる。
と、そんな独り言を呟く中で……ふとした折に、その姉からいつか聞かされた言葉が頭をよぎった。
『――――睡眠というのは、生きる上でとても大事なことよ。これをおろそかにしてはいけないの。眠らないと疲れも溜まるばかりだし、思考力も著しく衰えてしまうわ。だから眠れるときはちゃんと寝ておきなさい。急がば回れという言葉もあるわ……だから、眠りたいときには我慢せずに眠ること。覚えておきなさい、戒斗』
いつ、どこで聞いた台詞だっただろうか。確か子供のころ、眠いのに寝たくないとグズっていた時のことだった気がする。そう言った雪乃が添い寝をしてくれて、優しく寝かしつけてくれたことをよく覚えている。
「……かもな、姉ちゃんの言う通りだ」
その言葉の意味が、今になって分かった気がした。
激しい戦いと逃避行の中で、戒斗はもう気力も体力も限界だった。もう動けない、動きたくない。考えようにも考えられないし、疲れすぎて何も考えたくない。
それに、今になって急激な眠気も覚え始めていた。何をするにしたって、この状態じゃとても無理だ。かつて姉に言われたように……今は、とにかく休息をとるべきかもしれない。
「ま、後で考えりゃいいよな……」
呟きながら、戒斗は処置室のベッドに横たわる。
例え朽ちた廃墟のベッドでも、ないよりはずっといい。硬いアスファルトの上で眠るよりは何百倍も良さそうだ。
とはいえ、濡れた服のままでは風邪を引いてしまいそうだ。すっかり濡れて重くなったロングコートと、その下に着ていた黒いTシャツは脱いで乾かしておくとしよう。
なんだかんだと上裸で寝転がることになってしまったが、あんな濡れた服で横になるよりはいいはずだ。本当なら下のジーンズも脱ぎたいところだったが……もしもの時の即応性や、人としての尊厳とかを考えて下は脱がなかった。
「ふわ……ぁ」
寝転がって大きくあくびをすれば、程なく意識が眠りの奥に落ちていく。
次に目覚めるのは何分後か、それとも何時間後か……分からないが、今はとにかく身体の疲れを癒したい。ただそんなことを思いながら、戒斗は眠りの水底へと意識を沈めていくのだった…………。
(第五章『FALLEN ANGEL』了)




