右手は母親 左手は娘
『今年は秋祭りするらしいぞ』
普段は滅多に連絡してこない父から、ただそれだけ書いたメッセージが届いた。
秋祭り。
それは毎年9月の3連休に神社で行われる私の地元のお祭りで。コロナ禍でずっと中止になっていたものだった。
読んだ瞬間、あの光景、温度、匂いが浮かんだ。
「行きたいなあ……」
携帯画面を見ながら思わずそう呟くと後ろから声がした。
「どこに?」
振り返ると一緒にお風呂に入っていた夫の裕哉と6歳の娘、美彩が立っていた。
裕哉は水色の半袖パジャマ。美彩はピンクの裾にひらひらが付いている半袖パジャマを着ている。2人とも同じポーズでタオルで濡れた髪をわしゃわしゃしていた。
「あ、いや、父さんからこんなメッセージが届いて」
そう言って携帯画面を見せると中身を読んだ裕哉が言う。
「へー、行ってきたら?」
さらりとそう言われて驚く。
「え、でも3連休だよ?」
サービス業の裕哉にとって3連休は一番忙しい時だった。そんな時に実家に帰ってもいいのだろうか。
裕哉は笑う。
「別に子どもじゃないんだから一人でも大丈夫だよ。結花、コロナのせいでしばらく帰れてなかっただろ? お祭り、美彩と一緒に行ってきたら?」
「みさちゃん、おまつり行く!」
「お祭り」という言葉に反応した美彩が元気よく手を上げる。
そう言えば、美彩は生まれてから一度もお祭りに行ったことがなかったなと思った。
テレビや本、インターネットの世界で学んだ楽しいものと言う知識しか無い。
見せてあげたいな。
あの光景、温度や匂いをこの子にも体験させてあげたい。
母親として素直にそう思った。
「じゃあ、お言葉に甘えてもいい?」
そう言うと裕哉は優しく目を細めて手を振った。
「うん、いってらっしゃい」
『9月の3連休、そっちに帰るよ』
父にそう送るとただ『了解』とだけ返ってきた。
もう少し喜んでくれてもいいのにな。
そう思いながら新幹線に乗って美彩と一緒に実家に帰った。
二泊三日の荷物が入ったリュックを二人で背負って玄関のチャイムを押すと母がニコニコ笑って迎えてくれた。
「おかえり。よく来たね」
「いらっしゃい」ではなく、「おかえり」と言ってくれることが嬉しかった。
「おばあちゃん、みさちゃん、きました!」
美彩が元気よく挨拶すると母の目尻が下がった。
「美彩ちゃん、大きくなったね~」
大きくなった。
今までも実家に帰ると言われていた言葉だが、今日の「大きくなった」にはより実感がこもっている様に思えた。
実際に前に母が会ったときよりも美彩は大きくなった。
会えなかった年月がそこには確かにあった。
家の中に入ると父が居間で座椅子に座って新聞を読んでいた。
「おお、来たのか」
そっけなくそう言ってこちらを見ると、また新聞に目を戻す。
もう少し喜んでくれてもいいのにな。
やっぱりそう思いながら客間へと荷物を置きに行く。
後ろから付いて来た母に言われる。
「今日の夜はお父さんと秋祭りに行くんでしょ?」
「うん、お母さんは行かないの?」
「え、そんなことしたらお父さんが可哀想じゃない」
「可哀想?」
どう言うことか分からなくて尋ねると、母はにんまり笑って私の耳もとに口を寄せた。
「お父さんね、一緒に秋祭り行けるのすごく楽しみにしてるのよ」
秘密を打ち明けるように。
私はチラリと父を見た。
相変わらず新聞を読んでいる父。
でも、先程から全然ページが進んでいない。
素直じゃないなあ……。
気付いて口元が緩む。
ジッと見ていると父と目が合って慌てて顔を逸らされた。
夕方。家を出る。
右にはご機嫌な美彩と左にはむすっとした素直じゃない父。3人の口元にはマスクがあった。
自己判断になったとは言え、まだ人混みでマスクなしは怖い。
祭りが行われる神社まで3人で歩いて行く。
歩いて行く内に人が増えていく。
幼い子どもを連れた家族連れ。高校生ぐらいの男の子と女の子。腰の曲がった老夫婦。
久しぶりの秋祭りを心待ちにした人々がみんな笑いながら同じ方向を目指していく。
空が夕焼けに染まっていく。
町が人がオレンジ色に染まっていく。
「美彩、人が増えてきたからはぐれないように手をつなごうか」
手を伸ばすと美彩は「うん!」と私の右手をぎゅっと握って笑った。
私も笑い返すと左手に温もりを感じた。
ん?
不思議に思って見るとそこには父の手があった。
「結花もはぐれないように……」
恥ずかしそうに耳を赤く染めて父がぼそりと言う。
相変わらず私より大きくて、でも、あの頃より年老いた手。
「うん……」
私は笑うとぎゅっと握り返した。
空が夕焼けに染まっていく。
私たちをオレンジ色に染めていく。
これから先、私は何度も夕焼けを見るだろう。
でも、きっと今日のこの夕焼けを忘れることはないだろう。
近付いてくる屋台の灯り。
美彩の目が輝く。
祭りが近付いてくる。
私はマスクの中で小さく笑う。
右手には自分より小さな手。左手には自分より大きな手。
右手は母親で左手は娘。
人混みが嬉しい。
そう感じたのは久しぶりのことだった。