過去編「小学生時代」① 初恋
まず始めに言っておく。
僕が大好きな『谷山舞奈』さんは、学校一の美女でも、クラス一の人気者でもなかった。
どちらかと言えば、ごく普通のあまり目立たない静かな女子クラスメイトだった。
でも、僕はこの『谷山舞奈』さんの事を、特別に好きと意識していた。
何故なら、僕と考え方が合うし、お互いに相性が良いと感じられたからだ。
そこに理屈はない。たぶん。
後に、中学を卒業してからの事だが、実は趣味も似ていたと言う事もわかった。
相性が良いことについて『具体的な話をしろと』言われれば、未だに上手く言える自信はないが……
でも、あの頃の僕たちは、例え誰にも分かってもらえなくても、『相性』が良いんだと、お互いに感じ合っていたんだ。
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僕が初めて谷山舞奈を意識したのは小学3年生の時だったと思う。
実はハッキリとした学年や季節の記憶はないんだが、6人1班の掃除当番の時に3人のクラスメイトが無断でサボった時の事だと言うのはハッキリと覚えている。
残された3人の掃除当番の中で、僕と谷山さんは特に文句も言わずに黙って掃除を始めたが、もう一人残っていた男子クラスメイトが「不公平」だの「やる気が無くなった」だのと、僕をイライラさせる愚痴を大声で喚いていた。
僕はとうとうその男子クラスメイトの愚痴に耐えられなくなって「キミもサボっていいよ。後は僕たち二人でもできるから」となるべく感情を抑えた口調で追い払った。
僕にとって、そのクラスメイトは実に目障りで、害悪にしか感じられなかったからだ。
「マジで!? ラッキー! サンキュー」そう言って、そのクラスメイトは悪びれる様子もなく当番をサボって帰っていった。
だけど、そこで、はたと気が付いた。
一緒に掃除当番をしていた谷山さんの事を何も考えてあげられていなかった事について。
「あ、ごめん。勝手なこと言って…… 後は僕がやるから、谷山さんも帰っていいよ?」
罪悪感から僕は、谷山さんにそう申し出た。
すると谷山さんは少しはにかんだ様子で僕に近付いて来て、さらに耳元に口が触れるくらいに近付いて、とても小さな声で僕に囁いた。
「私も同じ。あの人には帰って欲しかったから良かったよ。お掃除、一緒にがんばろ?」
僕の思い込みかもしれないけれど、もしかしたら、彼女のその唇は僕の耳に触れていたのかもしれない。
僕の鼓動が激しく跳ねた。
この時なんだ。
ハッキリと覚えている。
僕が『谷山舞奈』さんの事を特別な意味で『好き』になってしまったのは。
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僕の名前は『守山小次郎』
小4から、近所の運動公園の武道館で行われている『少林寺拳法』をダラダラと習っている。
別に強くなりたいとか、試合に勝ちたいとか、そういった野心や向上心など僕には全くない。
たまたま父親の知り合いがそこのスタッフで「小次郎くんもやってみないか?」と誘われたことがきっかけで『見学だけだったら一度くらいしてみてもいいか』 と言う事で、父親と一緒に見に行ってみた。
見学だけの筈だったが、常時練習生が少ない寂れた状況と言う事もあり、数人の年の近い練習生たちが大はしゃぎして僕を捕まえて逃がしてくれなかった為、なし崩し的にその日から練習生として登録されてしまっただけだ。
だが、これが幸運の始まりだった。
谷山さんの家は、学校から武道館を少し超え、小路に入った先の古い商店が5軒並んでいる中央の手作りお総菜屋さんだった。
正面から見て一番左が薬屋さん。左隣がラーメン屋さんで、中央が谷山さんのお惣菜店。右隣が駄菓子屋さんで、一番右が床屋さんだ。
僕の稽古は、毎週火曜と金曜の週2回。
学校からまっすぐに武道館に向かうと、谷山さんと下校が一緒になる確率が非常に高くなるのだ。
いったん家に帰ってから武道館に向かっても時間には大分余裕はあるのだが、谷山さんと一緒に並んで下校できると知ってしまってからは、家にいったん帰る選択肢など当時の僕にはなかった。
毎週火・金のこの下校。
「一緒に帰らない?」
と、誘ったのは僕の方からで、谷山さんは
「うん、いいよ。少林寺、頑張ってね」
と、許可をくれたばかりか励ましの言葉までくれた。
僕は嬉しかった。
この一緒の下校時間の為だけに、僕は『少林寺拳法』を辞めずに続けていたと言ってもいいだろう。
小学5年の冬。
12月24日までは……
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小学5年 12月24日 冬休み初日 早朝。
武道館近くの古い商店街のラーメン屋さんが出火元で大きな火事が起こった。
消防に通報が入ったのは、朝4時頃だったらしい。
普段より風が強い日で、冬場の乾燥した空気が火の回りを速めたとは後から知った事だ。
木造の古い作りの商店街は、火元のラーメン屋さんばかりでなく、右隣のお惣菜店、さらにその右隣の駄菓子屋さんまで全焼させ、最後に床屋さんの壁を黒く焦がしてようやく鎮火した。
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その日の朝、僕は『朝から消防のサイレンがうるさいな』くらいに思っただけで、まさか谷山さんがあんな酷い目にあっているとは知らず、のんきに冬休みの初日を満喫しようとしていた。
少しだけ寝坊をして、朝9時過ぎくらいに朝食を食べようと部屋から出てテーブルに着くと、その日仕事がたまたま休みだった母親が、
「さっきの火事、武道館の近くの商店街なんだって。結構近いわね」
と、話かけてきた。
一瞬で眠気が覚めた。
と同時に体が動いた。
僕は朝食など放り出してパジャマの上からジャンパーを羽織り、無我夢中で玄関に向かった。
母親が「どこいくの!」と、叫んだ声が聞こえたような気がしたが、そんな事どうでもよかった。
家を出た瞬間、上空に黒煙が見えた。
大きな火事だったと知り、僕は焦った。
僕は谷山さんの無事だけを願っていた。
この時点で僕は、谷山舞奈以外の人間の存在を忘れていた。
谷山舞奈の事しか考えられなかった。
走って5分、商店街のある小路に入った瞬間、僕は地面に膝をついた。
炭の瓦礫と化したラーメン屋さんとお惣菜店。そして、なんとか建物の形を保っているだけの炭化した駄菓子屋さんが僕の目に入った瞬間、僕の全身から力が抜けてしまっていた。
恐怖した。こんな大きな火事。生まれて初めて見た。谷山舞奈さんも無事で済んでいるはずがない…… と、そう思った。
既に火は消えているように見えるのに、消防車は建物に向かって執拗に水を掛け続けている。
その様子を僕はただ茫然と見つめ続けていた。
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我に返ったのは、視界に全身防護服を着た一人の消防士さんを見かけた時だった。
谷山さんの安否が知りたい。この人なら何か知っているかもしれない。それ以外に話かける動機はなかった。
「ぼ、僕と同じくらいの年の女の子はいませんでしたか? ……無事ですか? 何かわかりませんか?」
僕は、バリケードテープの外側にただ一人いるその消防士さんに声を掛けた。
よく顔も見えないが、一般人の弥次馬よりは情報を持っているだろうと思って必死に話かけた。
「なんだ坊主? 知り合いでもいるのか?」
質問に質問で返され、知りたい答えが得られない事に若干苛立ちはしたが、貴重な情報源を怒らせるわけにはいかない。
「知り合いどころか、大切な人が真ん中の総菜屋に住んでいるんです!」
僕は『大切な人』を強調して消防士さんに向かって叫んだ。
「ふむ…… そうか。よしわかった。だが情報が少なすぎてまだ何も判断はできない。もし状況が分かったら一番に知らせてやるから坊主の名前と電話番号を教えろ」
そう言うと、その消防士さんはごわごわした布のような紙と油性マジックペンを出して
「これにまず、女の子の名前を書け。この紙は絶対に燃えないから、俺が火の中に入って行ったとしても大丈夫だ」
と、僕にその紙とペンを持たせた。
僕はまず、『谷山舞奈』と書き、その下に自分の名前と電話番号、それに念のために住所まで書いて消防士さんに渡した。
「はっきりした情報が集まって、この嬢ちゃんが許可してくれたら必ず連絡する。それまでは無茶なことはせずに家で大人しく待機してろよ? いいな?」
「は、はい。わかりました…… でも、もう少しだけ、ここにいさせてください」
僕がそう言うと、その消防士さんは僕の格好を見て一瞬顔をしかめたが
「……そうか、なら、今、この現場では俺の傍から絶対に離れるなよ」
そう言って僕に一歩近付いてきて横並びになり、僕の頭を『ポンポン』と二度優しく叩いた。
僕はこの時、パジャマの上にジャンパーを羽織っているだけで、とても寒そうに見える格好だったな、と言う事に気が付いたが、自分としては何も寒いとは感じていなかった。
それどころか、消防士さんの防護服の手袋のゴワゴワとした重い感触が僕の頭に乗せられている事で、何故だかとても暖かに感じていた。
僕は、時々部下に指示を出したり、怒鳴ったり、報告を要求したりしているその消防士さんの一挙手一投足を見守り、一言一句聞き逃すまいと聞き耳を立てたが、僕が欲しい情報や、理解できる情報は何も得られなかった。
僕はただ、その消防士さんの優しさだけを感じていた。