第六話:赤い部屋
「暑くは、ありませんか?」
元同僚が体験したという話を終えて、見越は声のトーンを通常のものに戻しながら、そう気遣いの言葉を添えてきた。
「大丈夫です。ちょうどいいですよ」
車内の温度は適度に保たれ、汗ばむことすらなく快適に座れている。
「そうですか? もし、暑いとか寒いとかありましたら、いつでも遠慮なく言ってくださいね」
「ええ、ありがとうございます。でも、羨ましいなぁ、運転手さんは」
「え? 羨ましいとは、何のことに対してでしょう?」
僅かに乗り出していた身を引っ込め、シートに背中を預けながら告げた俺の言葉に、見越は不思議そうな反応を返してくる。
「本当に豊富そうだからですよ。怪談話のネタが。タクシーの仕事をしている人は、皆そうなんですか?」
「ああ、いや。そうでもありません」
こちらが言っていることの意味を理解すると、見越は小さく噴き出すような笑いを見せてから小さく首を横へと振ってきた。
「地域などによって、様々ではないでしょうか。どういうわけか、話題が集まる人には集まりますし、そうでない人には無縁なくらいありませんし。何と言いますか、話のネタというものも、人を選んだりでもするのでしょうかね」
事実、今だってこうして怪談好きなお客さんを乗せているわけですし。
そう付け加えて悪戯っぽい目をしてみせる見越に、俺もつられて口元を緩め、
「なるほど。それじゃあ、このタクシーに乗ったのも、何かの導きだったのかもしれないわけですね」
と冗談口調で言葉を返した。
同時に、これがそういう不思議な邂逅であるというのなら、もう少しくらいは自身が持つ怪談話を披露してみるのも良いだろうかと、そんな積極的な気分が湧いてきた。
「運転手さん、俺、六歳年下の従弟がいるんですけど、実はその従弟、小学五年の時に馬鹿なことをして、取り乱した出来事があったんですよ」
「はぁ。こっくりさんのような、何か危険な遊びや悪戯でもしてしまいましたか?」
「ん……まぁ、結果を先に言えば、そんなとこですかね。当時、その従弟の通う学校で、創作と言うのか誰かが考えたオリジナルの肝試しみたいなものが、遊びとして流行っていたらしいんです」
従弟が中学二年の時に教えてくれた話で、真実を確かめようがないため実話か創作か、実際のところはわからない。
ただ、この話を聞いてすぐに従弟の親である叔父に確認を取り、信憑性のある話だということは把握しているため、あながち話の全てが嘘とは言い切れない内容だ。
「その従弟の通ってた学校で、誰かが『赤の自分』という、まぁ恐らくは赤の他人って言葉のパクリなんでしょうけど、そういう名前の恐い遊びを流行らせようとしたみたいなんです。それで、その赤の自分っていう遊びはどんな内容なのかと言うと、夜に部屋で一人になって、室内の明かりを赤色に変える。そうして鏡を二つ用意し合わせ鏡にした後、その鏡に挟まれる形で自分が座って目を閉じる。そしてそのまま三分間ジッとしていると、目を開けた時どちらかの鏡に血まみれになったように真っ赤な顔をした自分が映り込み、鏡から出てこようとしてくるんだそうです。だから、今度はそいつが出てくるより先に部屋の明かりを元に戻して、赤い自分を消さないといけない。そうしないと自分自身が血まみれにされて殺される。……といった内容なんです」
当時、この話を語っていた従弟の表情は、蒼白で真剣なものだった。
「それで、ある日従弟がその儀式みたいなことを自分がやってみると、啖呵を切っちゃったんですね。経緯は詳しく知りませんけど、焚き付けられたのかもしれません。で、週末の夜、十一時くらいに部屋の電気に赤いセロハンを貼り付けて、手頃なサイズの鏡を二つ用意した。室内は赤と黒だけの世界に変わり、気味の悪い空間ができあがって、従弟はその時点でちょっと後悔したそうなんですが、ここまで準備をしてやめるのも癪だと鏡の鏡面を向かい合わせて、その間に座ったそうなんです」
確か、季節は初夏くらいと言っていたなと、細部の情報が脳内に蘇る。
従弟は一人っ子で、赤の自分を決行した時間は既に両親は就寝し、家の中は外からの音が聞こえるくらい静まりかえっていたとも話していた。
「正直、内心ではかなり怖気づいていたものの、途中で放棄するのも逆に恐かったみたいで、ギュッと目を瞑ったまま三分、その場でジッと様子を窺っていたんですが、ひたすら室内の気配や物音に意識を集中させても、特にこれといって何かが起こるわけでもない。これは、確かに気味は悪いけど所詮作り物のの儀式だな。そう強がりながら結論を出して、従弟が閉じていた瞼をそうっと開け片方の鏡へ視線を向けた途端、一瞬にして全身に鳥肌が立って動けなくなったって言うんです」
その時、従弟が何を見たのか。話を聞いている最中、これがもし自分の体験した話だったとしたなら、俺だって身体が硬直して何もできなくなるなと思わざるを得なかった。
「チラッと覗いた鏡には、自分の姿が映っていたんですけど、まずその顔が真っ赤に見えたって言うんですよ。ただ、それだけなら部屋の電球にセロハンを貼り付けているんだから、そう見えても仕方ないんじゃないかと思うだけなんですけど、その真っ赤な顔をした自分が、前触れもなく突然ニヤァっと口元を笑うように歪めて鏡の内側から鏡面に張り付こうとするかのように、こう、両手を付けて顔を乗り出してきたらしいんです」
小さい子供が両手をついて窓越しに中を覗く時のような仕草をジェスチャーでしながら、俺は僅かに上体を前へ移動させる。
「リアルにいる自分とは全く関係のない動きをするその鏡の中の自分に驚いて、従弟は慌てて部屋から飛び出したんだそうで。もしあのまま動けずにジッとしていたら、鏡の中にいる赤い自分が外へ出てきて取り返しのつかない事態に巻き込まれると、直感的にそう思ったらしいです。それから三十分くらい、リビングで様子を窺いながら時間を潰して、再び自室に戻った時にはもう鏡の中に赤い自分の姿はなく、すぐに部屋の明かりを元に戻して儀式を終わらせたって話ですけど。その後は特に従弟の身には何もおかしなことは起こらなかったみたいですから、仮にこれが勘違いや錯覚ではなく本物の怪異であったとしても、運良く助かることができたってことなんですかね。もっとも、俺はこんな儀式後にも先にもこの時しか聞いたことがないので、どこまで信憑性があるのかはわからないんですけどね」