君が盗んでいったから
夏休みに入った。
学生たちが、まるで烏がビー玉をきらきらした目で見て焦がれるように、恋焦がれると言っても過言ではない長期休暇。水たちも例に漏れず、夏期講習や宿題こそあるものの、常より自由に羽を伸ばせる日々の到来である。幸せの国が待っている錯覚に陥る。それが砂上の楼閣だと誰もが心の底では知りながら。
貴弘もまた、砂上の楼閣に憩う一人の男子生徒だった。部活には入っていない。運動神経が良いので、これまで周囲からは散々、勧誘されたがいずれもすげなく断った。運動部に特有の上下関係の厳しさが好きではないし、そもそも自分の時間を束縛されることを彼は非常に疎んじた。額に汗して大声上げて、それで青春を謳歌出来る人間はすれば良いと思う。自分には関係ない。
水が所属している文芸部には興味がないこともなかったが、文庫本を開いて数秒で眠気に襲われるので、向いていないと諦めた。
家族のいない家のリビングでここぞとばかり大の字になり、扇風機の風を受けながら、貴弘は水を意識し始めた頃のことを思い出す。初めは変な名前の女、という印象だった。それから、同級生の男子たちが水の話をするのを耳にして、改めて貴弘の中で水という存在はインプットされた。見た目が悪くない。それどころか、噂されるだけあって、これからの成長が期待出来る顔立ちであることも認識した。
しかし貴弘は見た目だけで女子に興味を持つことはない。男にしろ女にしろ、中身の面白さは肝心だと思っている。水は別段、派手な女子ではなかったが、独特の雰囲気を持っていて、周囲からは浮いていた。その浮き方は、貴弘の目を惹いた。こいつは恋愛沙汰には目もくれないと判断するまで早かった。周りの男も女も、それこそが至上であるかのように恋愛もどきのお遊びみたいなものに明け暮れている中で、水はまるで無頓着だった。
最初は仲間だと思い、勝手に親しみを抱いた。
それからすぐに、貴弘は水の怠慢を見抜いた。
恋愛というゲームには根気や忍耐力が要る。だが、水はそれらを欠片も持ち合わせていないように見えたし、非常に無頓着にも見えた。皮肉なことに、そんな淡泊なところを、貴弘は気に入ってしまった。
むく、と起き上がり冷蔵庫を開けて、母親が用意しておいてくれた冷やし中華を取り出す。育ち盛りの貴弘の胃袋を満たすべく大盛りである。ありがたい。細切りにされたハムや胡瓜を食べ、麺をかき込む。
呆気ないものだと感じたのは、知り合った当初、水に絵が上手いと褒められて舞い上がった時だった。将来は絵の関係する仕事に就きたいと密かに考えている貴弘だが、それを誰にも話したことはなかった。それこそ絵に描いた餅を喰う奴だと思われるのは心外だ。水が褒めたのは、貴弘が物理のノートの端に描いた落書きだった。落書きと言っても、その時に咲いていた桜の花を詳細に描いたもので、我ながら気に入っていた。それを、ふとした拍子に見た水が、たった一言、綺麗だねと言ってくれたのだ。無性に嬉しくて、多分その時に、貴弘の心は盗まれてしまった。そうと自覚した時は悔しさと嬉しさという、相反する感情が貴弘の胸に沸いた。
冷やし中華を食べ終えて、空になった皿を流しで洗う。水道から流れ出る水。油汚れがきちんと取れるよう、洗剤を多めにつけたスポンジで皿の表面を磨く。水ですすぎ、指先で汚れが取れたかどうか確認してから食器かごに置く。冷凍庫を漁って、バニラアイスを見つけると袋を無造作に破りかぶりついた。
良くないことをしている気になる。水道水を見た後、アイスを食べているだけなのに、なぜだか背徳感を覚える。水が良くない。夏祭りになど誘うから。嫌でも期待してしまうではないか。だから、背徳感も、微かに疼く胸も、全部がきっと水のせいなのだ。自分は悪くない。
どうして水に接していると、嬉しくて悲しくて、何より大切にしたくて、そしてどこまでも滅茶苦茶にしてしまいたくなるのだろう。