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一話

 満ちた鬱屈のせいではち切れそうなほどに膨らんだ肺をしぼませたかった。肺の淀みを運ぶせいで動脈も静脈もなくなった黒々とした血液を少しでも透析したかった。代謝できず崩れ去ってしまいそうな身体を人の形に保ちたかった。

 彼女はあまりにも白かった。顔も見えないほどに白かった。目がつぶれそうなほどに白かった。

 私がどれだけ吐き出そうとも受け止めてくれるのだと思えた。

 彼女はきっと一生穢れることのない永潔の白妙だった。

 私の淀みを受け止めて、それなのに彼女はどこまでも安らかな寝息を立ている。彼女の滑らかな肌はしっとりと濡れて、指先さえもが離れがたいと縋り付いた。触れているだけで、細胞の隅々まで彼女が染み渡る。私が触れたところで、彼女の肌には染みのひとつもつかなかった。

「んゅ……」

 彼女が小さく声を上げて蠢く。そしてもぞもぞと私に顔を向けた。つい触れた指先がくすぐったかったのかもしれない。囁くように笑う彼女の声が胸にしみ込んでいく。それだけで簡単に心臓が弾むのに、流れる血液は穏やかな温もりに満ちている。人を抱きしめることは、こんなにも幸せな行為だったろうか。

「ぃへへ。おはよ」

「おはよう、サクノ」

 はにかむようなサクノの声。

 溢れるものを伝えたくて、彼女の額に口づけた。それは肺を満たすのに、少しも苦しくなかった。ため息になんて吐き出したくない。口づけで、囁きで、少しずつ彼女に伝えられたらと願う。彼女はきっと受け入れてくれる。これからも。その白で。

 私は、これを失うためにここに来たのに。

 そんな思いさえも、彼女の白に眩んでいた。

「しー、よく眠れた?」

「うん。サクノは、疲れてない?」

「んー、ちょびっと?でも全然やじゃないかな」

 彼女が胸に顔を埋めてじゃれついてくれる。ぎゅうぎゅうと抱きしめられる心地よさに、自然と私も力がこもった。肌が癒着するくらいに傍に居たかった。彼女の白に呑まれてこのまま消えてしまえたのなら、きっとそれが幸福なのだろう。

「ありがとう。サクノ」

「しーの苦しいもの、ぜんぶ出せた?」

「うん。久しぶりにね、息ができるの」

 それはいつからできなくなっていたことだったのだろう。

 肺を膨らませて、しぼませる。それだけのことがどうしてこんなにも心地いい。

 部屋を満たす彼女の芳香は瑞々しい果物のように甘ずっぱい。鼻先を髪に押し付けるとシャンプーの清潔な香りが混ざって心が揺れる。これが彼女の匂いだ。胸焼けするような甘さのない、柔らかくて優しい香り。包まれているだけで全部がどうでもよくなるような。

 私たちは、しばらくそうしていた。

 ときおり囁きを交わして、肌をすり合わせて、ふたりの境界線さえあいまいになるくらいに。

 だけど私は、ここに居てはいけないから。

 親友として私を受け止めてくれた優しい彼女の傍に、私は居るべきじゃないから。

 だから、惜しいと、そう思ってくれているらしい彼女を置いて私は彼女の家を後にした。往生際悪く彼女の匂いの一部を纏いながら、私は自分の居場所へと戻って行く。

 そして、彼女に伝えようと思った。

 直接会えば、きっと、私はまた彼女に甘えてしまう。

 だから、文字で伝えようと思う。

 私の想いを込めてはいけない。ただただ淡々とした事実をだけ、彼女には伝えよう。

 そしてそのまま消えてしまえばいい。

 こんな私に抱かれたのだと知れば、きっと彼女は悲しんでしまうだろうけれど。きっとわたしがいなくなれば、じきに忘れられるだろう。彼女はとても素敵な人だから、親友だって、恋人だって、すぐにできる。彼女の傍らには、きっと、ずっと幸福が寄り添っているから。

 だからこれでお別れだ。

 人生のほんの一瞬だけ彼女の幸福に触れられた、それだけで、十分すぎる。

 私はそんな風に笑おうとして。

 ―――もう、息ができていないことに気が付いた。

 どうして。

 まだ、彼女の部屋を出ただけで、マンションの敷地を出ただけなのに。それなのにどうして、私の肺は動いてくれない。肺の中にもう彼女の香りはなかった。しぼんだきり膨らもうとしない肺が歩くのに合わせてからからと揺れるのが分かる。渇いたアスファルトに私は溺れている。 

 苦しい。

 息がしたい。

 どうすれば息ができる。

 私は。

 ああ。

 考えてはいけない。呼吸なんてしなくてもいい。私は息なんてしたくない。彼女へと声を届けないのなら息なんていらないだろう。文字を書くためのインクなら血管をいくらでも流れている。心臓を一突きすれば簡単に取り出せる。今すぐ息の根を止めなければいけないのに。

 呼吸が苦しい。息ができない。

 考えたくないはずなのに、酸欠に溶ける理性の箱から淀みが零れていく。今更になって取り返しのつかない過ちだと気が付いた。けれどもう遅い。私は知ってしまったのだ。知ってしまったのだ。後悔が懐古に塗りつぶされる。過ちを悔おうにもそれは羨望に眩んだ。


 彼女が腕の中にいる間だけ息ができる。


 その事実が私の肺を雑巾のように絞り上げた。ほんの僅か残っていた彼女の残滓は声帯を切り裂いて飛び出していく。私は嘲笑を吐血する。呼吸ができない。それがどうしてこんなにも胸をうずかせるのだろう。

 私が巣に戻ると、彼女を抱きしめる理由は玄関の前に転がっていた。

「休日に出かけているとは珍しいな、しい」

 私はそれに何と答えたのだろう。

 肺が膨れていく。自力では吐き出せないくらいに、満ちていく。

 吐き出すために。

 そのために、私の肺は、淀んでいく。

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