命の価値
「まだ名前を名乗っていませんでしたね。私は佐々木冴子といいます。佐々木の部分は苗字といって、」
以前聞いた通りの苗字の説明だった。
「今日は皆さんに歴史の話を少しだけさせていただきます。皆さんが知らない歴史の話です。でも皆さんの歴史なんですよ。もちろん私たちの歴史でもあるの。」
今や煌々と輝く水銀燈に照らされるその女の顔はこの世のものとは思えぬほど美しかった。Z地区に住む我々は醜度0、つまり最高峰の美人であるはずでは無かったのか。HANAKOは驚愕していた。
「かつてこの世界には男と女がほぼ同数いました。ちょっとややこしいお話になるけれど、男はXY染色体というふたつの染色体の組み合わせの遺伝子で出来ていて、女はXXという組み合わせでできているのね。男女が性行為をすると、男からXYのどちらか一つ、女からXXのどちらか一つが選ばれて組み合わさるの。そうすると、XY、XXという組み合わせが確立的にほぼ同数出来る、つまり男女がほぼ同数生まれるというわけ。気づいた人もいるかもしれないけれど、XXの組み合わせ、つまり女だとどちらかの染色体に何かエラーがあってもお互いを補い合って次に伝えることが可能だけど、Y染色体は父親からそのままの形で男の子に伝わる。ずーっとそのまま伝わるのよ。一時はY染色体がXに比べて極端に小さくて情報も極端に少ないことから、Y染色体はどんどん劣化している、なんて危惧している人たちもいたけど、それは杞憂だった。Y染色体は自己修復を行なっている事がわかったから。でも、ある時期を境に、Y染色体に重大なエラーが発生する事が頻発し始めたの。おそらく環境が要因とされたけど本当の原因は不明だった。具体的には繁殖力を持たない男達が急増したのね。慌てた当時の人達は、Y染色体を補強する方法を開発したわ。そして全ての男達のY染色体に補強を施したの。」
ここにいる連中のほとんどは理解できていないのではないか。HANAKOは生物の授業で遺伝子の仕組みについて学んでいたので理解できるが、高醜度地区の者達は理科を学んだことのあるものすらごく少数なのだ。そんな者達の前でこんな話をするとは、やはり、このSAEKOという女は常識の全く異なる別の場所からきた女なのだ。
「最初は上手く行った。男性不妊はそれ以上拡大しなかったし、出生率も数世代を経て徐々に戻ってきた。皆、胸を撫で下ろしたのだけれど、ところが、男の出生率が徐々に少なくなっていってる事にやがて気づいたの。それはひどい有様だった。最終的に、女10に対し、男は1しか産まれなくなったのよ。何世代もの間そのままの状態だった。Y染色体の補強が原因なのは分かったけど、それを元に戻す方法は見つからなかったから。」
先ほどまで立ったまま話し続けていた女も、他の連中と同様に箱に腰掛けた。
「かつて大昔、男の命の価値は低かったの。話を分かりやすくするために、子孫を残す、という事を人類の至上命題だと仮定した場合ね、あくまで仮定よ、男は多少まとめて死んでも大丈夫だったの。男は精子を提供するだけだから。分かりやすく言うと、例えば1人の男が5人の女と性行為を行えば、子供は理論上、双子なんかが出来る場合を除けば、1度に最大5人出来るわね。でも逆はそうはならない。1人の女が5人の男と性行為をしても、1度に生まれる子供は1人。これがどうして男の命の価値の低さにつながるかというと、今の例を正しいと仮定するとね、女5人に対し男1人で良い、って事になるのよ。1:5という比率は今私が適当に決めただけだから多分正しくないわね。でも、この話で私が言いたいことは、男が多少まとめて死んでも一応大丈夫だった、って事。女が死ぬのはちょっと困るわけ。仮定をいくつも重ねて話したから逆にわかりづらくなったかも知れないわね。」
そういう問題ではないだろう。ここにいる他の連中にとっては。
「少なくとも、子孫を残すということが、至上かどうかはさておき、生物にとって重要な問題であることは事実よ。農業や産業が起こってからは子孫を『増やす』事が必要となったから、社会的にもその重要度は上がったわ。そして、男が多少まとめて死んでもその問題についてはどうにかクリアできるという点も、仮定じゃなく事実と断言できるわね。つまり男の命の価値は、女の命の価値と比べて低かった。大昔は、人質事件が起きた時には大抵女子供が先に解放されたし、戦争に行くのは男がほとんどだったのよ。頑丈だからとか、力が強いから、じゃないのよ。じゃあ、昔の男達は、自分の価値が女と比べて低い、と気づいた時に平気だったかしら。犬や猫ならそんな事考えないから大丈夫だけど余計な事を考えるのが人間だからね。平気じゃ無かったのよ、きっと。男達は自分の人生に女達と同じくらいの、できる事ならそれ以上の価値を見出そうとした。社会において、男としての自分達の重要性を高める事に躍起になった。大昔、世界にはいくつもの違う文明が存在したんだけど、ほとんどの文明で、男達の仕事は尊いものだと位置付けられたの。男そのものも尊いものとされたわ。もちろんそれは建前だけど、女達もその建前を支持した。その方が都合が良いものね。男達は幸せそうだし、つまらない仕事も危険な仕事も一生懸命やるもの。多くの文明はそうやって本人達に気付かれぬまま、男達に奴隷労働を強いる事に成功し、発展した、というわけ。」
言わんこっちゃない、寝ている者もいるではないか。HANAKOは聞き入っていたが。
「そして、さっきお話しした、男の出生率が極端に減る事件が起こった。許容される男女比なんて、遥かにオーバーしているわ。結果どうなったか。そう、男女の命の価値が、完全に、逆転したの。」