ヒソカ
ヒソカ
その席は今、三人の男によって、密かに占領されている。
私が週五の割合で、午前午後どちらに入ってもOKというゆるいシフトと、まかない目当てで通っているその喫茶店は、この街で比較的大きな通りの通り沿いにある。
その名を喫茶『白雪』という。
名前の由来は、このカフェのオーナー、松下白雪。その名のイメージ通り、と言うと、まあこれは私のイメージだけれども、『名は体を表す』通りの、美しい人だ。
歳は相当いってはいるが(と、こんなこと面と向かって言ってみ。思いっきり張っ倒されるから)、けれどそんなことは微塵も感じさせない、明るく前向きな性格。栗色に染めた髪はいつも、後ろでひとつにまとめられていて、形の良いシナモンロールのようになっている。
この店舗は、親から譲り受けたものを自分の使い勝手の良いように少しだけ改装したという。
そして、店の入り口辺りから奥へと伸びるカウンター席。その端から厨房へと入る、入口の手前。人が一人収まる程度のくぼみのようなスペースがあるのも、改装時にオーナーがわざわざ作ったのではないかと思ってしまう部分である。
オーナーはいつも、そのくぼみにぴったりとそのスレンダーな身を収めている。それはまるで、昔の銭湯の番台のような雰囲気だ。
「オーナー、そこってちょい窮屈じゃないですか?」
「んー? 全然だよー」
時々、私もそのくぼみに入らせて貰うことがある。オーナーの真似をして、そのくぼみにある手摺りに、軽くひじを乗せてみたりして。けれど、オーナーより十センチほど背の低い私がやると、ひじを置く位置が高すぎてしまい、どうやっても肩ごと吊り上がってしまう。
「あはは、涼ちゃんがそこに入ると、ほんと捕らえられた宇宙人って感じだねぇ」
「ええーオーナーってばぁ、チビをバカにしてえ! しかも宇宙人て!」
私とオーナー。そんな風に二人でじゃれていると、店のドアが開いて、引っ掛けてあるカウベルがその身をカランと打つ。
「いらっしゃいませ!」
二人の声が揃うのも、ここの名物らしい。私はすぐにおしぼりとお水を持って、入ってきたお客さんの席に向かう。常連中の常連。いつもコーヒーチケットを使って、出勤前の一杯を楽しんでいく、年配のサラリーマンだ。
「おはようございます」
私がにこりと笑うと、客もそれに返して笑う。
「おはよう、いつものね」
「はーい」
それが喫茶『白雪』の、日常だった。
私が、ずいぶん長いこと付き合っていた彼氏に振られて、なりふり構わず大泣きした日。私は喫茶『白雪』の、その席にいた。窓際にある、ボックス席。大きなガラス窓からは、外の大通りがよく見える。
「涼、今から会えない? 話があるんだけど」
彼氏からの突然の電話に、私は嫌な予感を覚えた。
「……いいよ、どこで?」
彼の家へと向かう時に通る、大通り沿いにある聞き慣れない喫茶店の名前を告げられる。店の前はよく通るが、一度も入ったことのないレトロちっくな喫茶店だ。
「ちょっと遅れるかもしれんけど、そこで待ってろ」
電話越しの、彼の声のトーン。言葉の抑揚に、ある種の面倒臭さと不義理さが含まれている。私の中で、不安という液体が、ふつふつと沸騰し始めた。
ここ最近。私が「次いつ会う?」などと言おうものなら、彼は途端にしどろもどろになってしまう。「最近忙しいからなあ」と言葉を濁し、いつも逃げるようにして帰っていくのだ。当然ラインへの返事もそこそこに。
だから、何かある、と勘づいてはいた。そして今日、もしかしたら別れ話かもしれない、そんな予感もあった。
喫茶『白雪』に先に着き、私は店内を見回して目に付いた窓際のボックス席に座った。コーヒーを注文してから、少しの時間、大通りを見ていると、通りの向こう側からきょろきょろとしながら道路を渡ってくる彼の姿が見えた。
その姿を認めた途端に。私の中でぶくぶくと沸騰していた液体が、一瞬にして不安から怒りへと変わってしまったのだ。
入り口のドアのカウベルが、遠いところで鳴ったような気がしたけれど、それを確かめる余裕すらない。
「……遅くなって悪いな」
彼が、コーヒーを注文する。私は自分のひざの上で握っていた手に力を入れた。そうでないと、私の中でぐつぐつと煮え立っているものを、彼の頭のてっぺんから、ぶちまけてしまいそうだったからだ。
私と彼。どちらも、なかなか言葉にならなかった。沈黙が続くのが苦痛になりかけた頃、ようやく彼が口を開いて言った。
「別れて欲しい」
店内にはお客さんが居たんだろうと思う。店員さんも居たんだろうと思う。けれど、そんなのはお構いなしで、私は泣いた。
「……彼女が原因?」
涙声を抑えながら、窓の方を見る。大通りの向こう側で、腕時計を見ながら立っている女性。花柄のワンピースを、可愛く着こなしている。
すると彼は、同じように外へと向けた顔をひどく歪ませてからチッと小さく舌打ちし、「あっちに行ってろって言ったのに……」とぞんざいな感じで言った。
(……そっか、内緒にしておくつもりだったんだ)
彼は、それでも冷静に言う。
「ああ、あれね……そう、そうなんだ。悪いけど、好きな女ができた。だから別れてくれ」
胸が潰れそうに痛んだ。いつからだったのだろう。二股の時期があったのだろうか。訊きたいことが山ほどあるような気がしたが、それどころではない。感情はさらに翻弄され、昂ぶっていった。込み上げてくるものに邪魔をされ、言葉が出ない。
私が、何も言えずに無言で涙を流していると、彼は「ごめんな」と言って、財布から千円札を取り出してテーブルに置き、そのまま立ち去った。
店内に流れているのは、ドビュッシーの『月の光』。その曲をバックに私は、私でない女の元に軽い足取りで走っていく彼の後ろ姿を、そのボックス席のガラス窓から、眺めていた。
視線を交わすと肩を並べて歩いていく彼らの姿。その姿が見えなくなると、私は両手で顔を覆って、声を殺して泣いた。
一通り泣いた後、私は覆っていた両手をようやく顔から離し、側にあったおしぼりを手に取り、目と鼻に当てた。おしぼりはひやりとしていて、腫れた目と最悪な気持ちとを、落ち着かせようとしてくれているようだった。けれど、心は嵐のように荒れていた。
(裏切られたんだ……)
おしぼりを机に置く。すると、目の前にはコーヒーとチョコレートの乗った小皿。冷めてしまったはずのコーヒーは、いつの間に片付けられたのだろうか。代わりに湯気の燻る温かいカップが、そこに置いてあった。失われたコーヒーの香りが再度戻ってきて、鼻腔の奥に届いた。
私は最初、ぼんやりとそのコーヒーカップを見ていたが、少しだけ正気を取り戻すと、手にとって口をつけ、ちびりと飲んだ。
温かい。優しい。その香り。背中を大きな手でさすられているような感覚。
そっか。私、慰められているのか。
気がつくと、人目もはばからず大泣きした自分が情けなくなって、もちろんコーヒーを淹れてくれた優しい人の方も見ることができなくて、少しだけ口をつけた温かいコーヒーとチョコレートを置き去りにし、私は店を出たのだった。
そうやって、私が大泣きした席。
その窓際のボックス席が、今。
三人の男によって、密かにではあるが占領されている。
このことに関して、決して文句を言いたいわけではないのだが、まあぶっちゃけて言ってしまうと、コーヒー1杯でよくもまあここまでと言っていいほど、長く居座ってくれている三人の男のうちの一人。
「斎藤さん、また新しい本を読んでいますね」
私がオーナーにそっと耳打ちすると、彼女はキョトンとした顔で、私を見た。
「新しい? え? この前のと違う?」
「だって、ブックカバーが変わっているから」
書店で購入した文庫本に付けられる簡易的なカバー。この喫茶『白雪』から程近い場所にある書店の『うさぎ書房』では、この無料配布のカバーに数種類のデザインが取り揃えられていることを、私は知っていた。
「涼ちゃん、よく見てるねえ」
さらに声を落として、オーナーが囁くように言う。
「何を読んでいるんだろうね?」
平日の昼間に来るところを見ると、斎藤さんの職業は自由業というやつだと思う。見ようによってはインテリな眼鏡。落ち着いた大人の雰囲気。所々にグレーが混じる、整えられた髪。
「どんな仕事していると思います? 私思うんですけど、作家とかじゃないですかね。あ、でもマンガ家ではない」
私がかつて大泣きした席で、彼はひっそりとした佇まいで、静かに本を読んでいる。コーヒーを美味しそうに飲んではページをめくり、めくってはコーヒーを飲む。
「なんで、マンガ家じゃないって思うの?」
オーナーが定位置のくぼみで、いつものように腕を手摺りにちょこんと乗せている。足も軽く、クロス。
「だって、マンガ家は本なんて、読まないから」
「ふはっ、そんなことはないでしょ」
オーダーを全て出し終わって、ひと段落ついている時のオーナーとのおしゃべり。少し抑えた声で。
「あ、今、」
私が声を上げると、オーナーが興味津々な顔を投げて寄越してくる。
「なに、何?」
「あ、また、」
「涼ちゃん、なによう?」
私は数回、勿体ぶった素ぶりをしてからオーナーに顔を寄せて、さらに声をワントーン低くした。
「斎藤さん、いつも必ず数回、外を見るんですよ。あ、ほら」
オーナーが遠慮がちに、テーブルの方へと目を滑らす。
手元の小説のページがぺらりぺらりとめくれていくのにも構わずに、斎藤さんは外をじっと見続けていた。顔を戻したオーナーも、神妙な顔をしてから、その顔をさらに私に近付けてくる。
「ほんとだ、なにを見てるんだろう?」
「多分、あれですよ。花屋」
「え、斜め前の『花灯り(はなあかり)』さん?」
私はちょっとしたドヤ顔を作ってから、声を潜めて言った。
「そうそう、ほら新しい店員さん、入りましたよね?」
「あの、若い? 田村ちゃん?」
「そうですよ、多分、田村さんのこと、好きになっちゃったんじゃないですか? この前、田村さんがうちに配達に来た時に、斎藤さんとニアミスったでしょ」
「うん、あったねえ」
「男は花束を抱えた女に弱いんですよ」
「あはは、涼ちゃんってば」
「さっきからずっと見てますよ。『花灯り』の方」
「ほんとだあ。涼ちゃん、良く見てるねえ」
私は親指を立てて、それからさらなるドヤ顔を作った。と言っても私にとっては、その席は特別だからってだけ。だからよく見ているだけで。
私は時々、思い出していた。元彼とのことを。ずっと、私が何かにつけて我慢させられていると思い込んでいた。彼の方が絶対的に、自分勝手で横暴なワガママ男なのだと、信じて疑わなかった。
けれど、それに対して私があまりにもヒステリックに怒るから、きっとそれが嫌になったんじゃないだろうか、と。彼にも相応の我慢をさせていたのかもしれない。
ここ『白雪』で働き出してその席を眺めている間に、ようやくようやく、そう思えるようになったのだ。そしてそれが、私がやっとの思いで立った、第二のスタートラインのような気もしている。
そして次に、二人目。
彼がその席へと座ると、そこは途端に緊張感に包まれる。
「うっす、涼ちゃん。ホットね」
私が軽く頷くと、彼、勝さんは、テーブルにトントンと指を打ちつけては外をじっと見る。歳は三十前後、はきはきとした物言いには、体育会系の名残りが垣間見え。
「勝さんが刑事って話、ほんとなの?」
オーナーはいつもの定位置で、自分の夕飯だか、店の料理だか用途は不明だが、黄緑色の長細い豆のスジを手際よくプチプチと取っている。。
「絶対、そうですよ。だって、あの鋭い目つき。それに身体もかなり鍛えてるみたいだし。すごいがっしりしてますもん。あれは絶対、張り込みですよ、張り込み」
すると、オーナーがぷっと吹き出して言った。
「張り込みって、悪の組織の拠点はどこなのよ」
「オーナー、知らないんですか? ほら、あの『花灯り』の2階、電話番号が書いてあるでしょ」
「うん、」
「あそこ、オレオレ詐欺の事務所って、噂ですよ」
「えっっ!」
その拍子で、豆を真っ二つにしてしまったオーナーは、目を皿のように丸くした。
「うっそお、そんなこと誰に聞いたの?」
「『花灯り』の原さんですよ」
「原さん?……ああ、そう」
オーナーが止めていた手を動かし始めた。
「あのね、涼ちゃん。その原さんなんだけどねえ。彼女の言うことは当てにならないって。私も昔、それで大量にトイレットペーパー買わされたんだから」
「なんですか、それ」
「2年くらい前かなあ、ガソリンの値段が異様に高い時があったじゃん。原さんがさあ、ティッシュとかトイレットペーパーとか紙の値段が倍くらいに値上がるから安いうちに買いだめした方がいいって言うもんだから、」
「あ、だから倉庫のあの段ボール箱……」
「ここら辺の店を回って、隣のタカくんに運んでもらってって、散々大騒ぎしたのに。フタを開けてみたら結局、一円も値上がらなかったのよね。まあ、トイレットペーパーは要るものだから、買い過ぎちゃっても別に困りはしないけど」
「じゃあ、オレオレ詐欺の事務所ってのも……」
「怪しいと思うなあ。原さんの言うことは根拠がないっていうか、当てにならないっていうか……」
その会話が終わる頃、コーヒーがドリップから落ち切ったので、私は勝さんが座るテーブルへと運ぼうとした。
ふと足を止める。そう、彼もまた、熱心に『花灯り』の方を見つめている。斜め横から見えるだけだけれど、その目はほのかに熱を帯びているように見える。
私は数歩出した足を、また数歩後ろへと戻すと、「やっぱり『花灯り』の二階見てますよ。きっと、窃盗団のアジトなんですよ、あれ」と言葉を投げた。
「涼ちゃんたらあ、とことん面白く疑うんだから。あはは」
(でも、張り込みじゃないなら……なんだろ?)
コーヒーを持って近付いていく私に、勝さんが気がついてその顔を上げるまで、私はその瞳に宿った熱を感じていた。
そして、三人目。
この人、竹林さんだけは、若い。なんと言ってもまだ高校生だ。竹林さんというよりは、竹林くんだ。
彼はいつもテーブルの上に、参考書とノートを出す。ノートに答えを書き込んでは、赤ペンに持ち替えて採点していくのだが、その赤ペンの動きを見るからに、彼が相当優秀だということが分かる。
「受験かしらねえ……ふふ、涼ちゃんもねえ、バイトに来てくれるようになった頃は、大学入ったばかりだったし、あんな風に初々しかったなあ」
「ほんとですか? 私、ちゃんと……」
生きていましたか?
けれど言葉は飲み込んだ。
私が恋人に振られて自暴自棄になり、もう生きていてもしょうがない、死のうかと思った時、なぜかこの店のこの窓際の席の存在がぽっと頭に浮かんできて、脳裏から離れなくなった。この喫茶店の、あのボックス席。それを私は心底、恨み憎んでいたのだ。
『白雪』に近づくだけで、最初は吐き気を覚えるほどだった。もう二度と二度と、この店の前を通ることはないと、私の頭の中でこの店の存在を何度、抹殺したことだろう。
けれど、ここをもう一度訪れないと、生きた私を取り戻せない。ある日、そんな思いに突き動かされ、睡眠不足と数週間まともに食べられなかったボロボロの身体を引きずって、私はこの店にやってきたのだ。
私が心を決めて店に入ると、「あ、この前の……、いらっしゃい」
オーナーは何事もなかったかのように、構わず話し掛けてきた。
正直、ムカッとした。振られてこうむった痛手と屈辱を、特になんでもなかったことのように流された、そんな笑顔を見せられて、私は内に湧いてくる怒りを感じた。
あのボックス席へ、どかっと座る。
(そうだよね。あんたみたいな美人なら、振られたり浮気されたりすることもないんだろうね。ヘラヘラ笑っちゃってさあ、バカみたい)
目の前の女性を、心の中でぎたんぎたんにしながら。頭も身体も、負の言葉でいっぱいにした私。ドロドロで汚くて醜い私。誰かを罵倒しないと気が済まないくらいに、私は汚れていた。
けれど、オーナーは、そんな私の中身を知ることもなく飄々として明るく、そして思いも寄らぬ言葉を放ったのだ。
「ねえ、あなた大学生? うちでバイトしてくれないかなあ? この前ねえ、バイトの女の子が急に辞めちゃって、人手が足りないの」
受験を終えて、春から大学生という時期だった。確かにバイトは探していた。探していたのだが。
私は呆気にとられてつい、はい、と返事をしてしまったのだ。
「え、ほんと? 助かるわあ。あ、お昼ご飯もう食べた? まだならナポリタン奢っちゃう!」
私はもし、この女性が私に何か話し掛けるとするならば、きっとそれは彼氏にこっぴどく振られたことに対する慰めや同情の言葉だろうと思っていた。
「振られたってどうってことないって。世の中にはもっと良い男がたくさんいるんだからさ。あんな小狡い最低最悪なクズ男なんて、あの頭空っぽのバカ女にくれてやればいいのよ」
それは。私が何度もそう自分に言い聞かせ、この数週間を何とかして生き伸びた、呪詛のような思い。けれど、そんな腐った言葉が、この女性の口から出ようはずもないのだということは、とうの昔に知っているのだ。
私はそのまま振られたあの日に立ち返り、オーナーが差し出してくれたコーヒーのおかわりとチョコレートを思い出した。泣きはらした目とかぴかぴに乾いた顔で、二杯目のコーヒーをちびりと飲んだ。味は覚えていない。けれど、その温かさは覚えている。
そんな風にして目の前で勉強に励む男子高校生の竹林くんを見つめながら、私はこの店で働くこととなった経緯を思い出していた。
「受験なら、今が一番大変な時期ですよ」
私が呟くようにそう言うと、オーナーが両手をポンと叩いて、カウンター裏のキッチンへと回った。手には小箱。
「疲れには甘いものだよね」
小箱を開けて、中から銀の包装紙で丸く包まれたチョコレートを三つ出して、小皿へと乗せる。
「これ、竹林くんに持っていってあげて」
そう言って、オーナーはカウンターのくぼみへと戻っていった。
小皿を受け取ってから、彼を見る。すると彼は、両手を突き上げて、ううんと言いながら伸びをしていた。そしてそのまま脱力すると、アイスコーヒーを一口飲んだ。
チョコを差し入れするには、ちょうど良いタイミングだと思い、足を一歩進めようとした、その瞬間。
私は固まった。そう、彼も見ている。彼も。表通りを。『花灯り』の方向を。
次には、その視線を外さずに、アイスコーヒーをまた一口飲む。そして、何かを言いかけるように唇を薄っすらと開けたと思うと、すぐに口を噤んでしまった。くるっと顔をこちらに向ける。私は驚いて小皿を落としそうになったけれど、「オーナーからの差し入れ。よかったら、食べて」と言って、彼の前へとチョコレートを置いた。
彼は私の背後にいるのであろうオーナーに視線を移してから、こくんとあごを打って、お礼を言った。その頬が、ほんのりと桃色に染まっているように見えて、私はそこで突然、気がついたのだ。
そうか、彼はオーナーのことを。そして、私は思い至った。もしかして、彼らも?
雷が。ぴしゃんと落ちて、全身を貫いていくようだった。そしてその落ちた雷が、覆い尽くしていた薄暗いもやを吹き飛ばすようにして、脳をクリアにしていったのだ。
『腑に落ちる』とはよく言ったものだ。パズルの最後のピースのように、私の中でピタリとハマった。
もしかしてではない。絶対にそうだ。確信が湧き上がって満ちていく。
すると今度は、それをこの目で確かめたいという衝動だ。
その場に立ち尽くす私を、訝しげな顔で見上げていた竹林くんの、横。彼の隣に、おかまいなしで私はどかっっと座った。ソファに座っている彼の身体が、海に漂う舟が大きな波を受けたように、ぐらと揺れる。その拍子に肩と肩がぶつかったが、私は気にしなかった。
「ちょ、なんですか」
竹林くんの抗議の言葉も、私の中へと吸収されていく。
そして、見たのだ。彼らが、見ているものを。
それは、ガラスに映る姿。
日の光の関係か、それとも背景の関係かは分からないけれど、その部分だけは店の外の『花灯り』などではなく、この喫茶『白雪』の中を映し出している。
そう、くぼみに収まるオーナーの姿。
これは神様かなにかの仕業なのか? そう思わざるを得ない奇跡のような空間が、大きなガラス窓に浮かび上がっている。
私は納得して、竹林くんを見ることなく、「ごめんなさい」と謝ってから席を立った。
そっかあ、そういうことなのかあ。
私はあの振られた日、仲睦まじく去っていく元彼と新しい恋人しか見ていなかったし見えていなかったから……気づかなかったのだろう。
心の中が、晴れやかで雲一つない真っ青な空のように透明になっていった。
オーナーが不思議そうな顔をして、私を迎え入れる。
「涼ちゃん、いきなり竹林くんの隣に座っちゃって、どうしたの?」
「いやあ、とうとう謎が解けました」
「え⁉︎ なんの話?」
「えっと、斎藤さんは作家なんかじゃなかったです。あ、いや、作家かも知れないけど」
オーナーは怪訝そうな顔と、いつもの菩薩のような微笑みとを混ぜ合わせた、絶妙な表情を見せている。
「勝さんは張り込みでもなくて……竹林くんは、受験……」
「ん?」
「……受験ってのは、別にあれか、当たってるのか。三年生だしな」
独り言のように、少しだけ放心状態でそう話すと、オーナーは楽しそうに笑って、「ふふ、涼ちゃんはほんとうにオモチャ箱だねえ。一緒にいて全然、飽きないわあ」と言った。
その言葉に。私もオーナーを見て、にっこりと笑った。
季節が真反対になって寒さで身を縮こまらせながらも、ぐるぐる巻きにしたマフラーに顔を埋めて、私はそれからも変わらず、喫茶『白雪』に通っている。
そして、あの席を占領している三人の男が大切そうに抱える共通の『秘密』。これも、多分ではあるが、継続中だ。
それはガラスに映る姿をそっと眺めるだけの恋。
三人の男は、コーヒーを飲む間、本を読む間、頬づえをつきながら、ノート一杯に数式を埋めながら、その合間を縫って彼女を盗み見る。
私は不思議とそれが、ストーカーなどのゲスな行為とは程遠いところにある、高尚なものにしか思えなかった。だからこそ、このことを、私はオーナーに話さなかったし、もしオーナーが知ってしまったら、この世に存在する美しい何かが壊れてしまうんじゃないか、という気がしていた。
私がこの席で流した悲しみや苦しみの涙は、この三人の男の一途な想いによって浄化され、清いものへと変化していくような気さえしているのに。
二度と人を好きになるもんか、二度と裏切られるもんかというかさぶたのようなものは、呆気なく剥がれ落ちた。
そして、第二のスタートラインで立ち尽くす、私の背中をそっと押してくれるのだ。
「オーナー、雪が降ってきましたよ」
よいせ、と棚へとカバンを置いて寄せると、私はマフラーを首から取った。
「雪ってさあ、あんまり降ると困るんだけど、なんだかちょっと嬉しいよね」
相変わらず、オーナーは定位置に潜り込んで、手摺りに腕を掛け、足をクロスさせている。
今日はまだ、その席には誰も居ない。
けれどきっと。今日という日もこの世界のどこかで、誰かが誰かのことを想っている。
たとえそれが、『白雪』へとやってくる三人の男のように、意図的に隠されて日の目を見ることもない、ただただ一方通行の想いだとしても。
彼らが『花灯り』の方を見る。私は、それを見ないフリをする。それでも、心は満ち足りる。
私はエプロンの紐を腰で縛ると、まだひんやりとしているブラウスの袖を、肘の上までまくっていった。
その席は今もなお、三人の男によって、密かに占領されている。