Episode37 夜想幻曲
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◇
状況は緊迫していた。アスラが居留地に近づいている、という情報を聞いたアイリスは、自分がまずはじめに何をしなければならないかを明確に認識した。
「アイリス司令」
右斜め後ろを歩く首席幕僚オイゲン・メルスナー大佐が控えめに聞いた。アイリスは前を向いたまま、ん、と応じる。
「ミサキ・シモムラの容体は不安定です。本当に会われるのですか」
「もちろんよ、メルスナー大佐」
「……精神科医師の報告では、回復は絶望的のようです。統括運用司令部では、すでに代理人物の査定が始まっています」
アイリスは立ち止まってメルスナーを振り向いた。
「即刻凍結して」息を吐く。『アレ』に乗れるのはミサキしかいないわ。この任務はマーズジャッカル課程を主席で卒業した彼女にしかできないことよ」
「それは、そうなのですが」
まぁいいわ、と言ってアイリスは廊下を再び歩き始めた。前を向きながら続ける。
「あなたがそこまで言うなんてミサキの容体は相当なもののようね。けど私が直接見て判断するわ」
二人はエレベーターに乗り、ミサキの入院している階へと向かった。エレベーターを降りると、両脇にいた警備職員がライフルを立てて敬礼した。
「ミサキ・シモムラの病室は」
屈強な警備職員はアイリスの眼帯火傷という顔に驚いたようだったが、素早くあちらです、と手を向けた。真っ白な廊下、その突き当たりだった。
アイリスは大股で歩く。重層な扉に阻まれた時に右隣からひょいとメルスナーが現れ、カードキーを装置に滑らせた。
扉がシャッターのように上へ上がり、ガラスで仕切られた室内が広がる。
「……アイリス局長。目を覚まされたのですね」
室内には老医師が一人だけだった。
計器に向かって腰を下ろしている腰の曲がった白衣姿、彼は驚いた表情を浮かべたが、すぐに戻る。
彼が立ち上がろうとするのを制しながらアイリスは聞いた。
「すぐに会いたい。会えるか?」
誰に、とは言わない。
老医師がいる空間、そことガラスを隔てた向こう側の部屋にミサキ・シモムラが寝ていたからだ。
「え、ええ……それは」
老医師は言い淀んだ。
ミサキ・シモムラが特殊任務に従事することは以前より決まっているが、それだけを理由としてこのような大掛かりな病室にいるわけではない。
彼女の病状はこの完全武装ともいえる病室の機能を全集中しても、なお足りないようなものだった。
医師の様子からその事情を素早く察したアイリスは言葉を変えた。彼女が一番言いたくない言葉であった。
「これは命令だ」
星将と大佐の二人から凄まれ、老医師に抗する術はない。開拓部が軍事運用部の指揮下に入った火星総軍体制の中では、医者は軍人の部下も同然だからだ。
火星開拓最初期からいそうな白衣を着た老人は、何も言わずに頷き、ガラス部屋へ繋がるドアのロックを解除した。
アイリスはメルスナーにここで待て、と言うとガラス部屋へと入っていった。
部屋にはベットが一つと、今や骨董品の扱いを受けるようになったCDプレイヤー、それが乗っている小さな台がある。プレイヤーからはピアノを主体とした優しいクラシックが流れていた。
「暗いわね」
アイリスはベットに腰掛けている少女に話しかけた。ミサキは体にフィットする気密服ではなく薄い病院服を着ていた。
「夜想曲」
ミサキが口を開いた。
「『ノクターン』」
アイリスは繰り返した。なんのことだろう、と思った。
「ノクターンを知らないの?」
「ええ……知らないわ」
すぐに異常に気がついた。ミサキはいたって自然だったのだ。アイリスはミサキの正確な病状を知らない。だが、こんな厳重な精神集中治療室の中で正常でいるはずがない。
正常なのが異常だった。
「ショパンが作曲したの。けれど、彼の作品は核戦争で焼き尽くされてしまったし、ピアノを弾ける人も減ってしまった。こうして聞けるのは幸運よ……いかに録音された音でもね。イネス」
アイリスは固まった。
メルスナーは溜息を吐き、老医師はうなじを撫でて小さく首を振った。
ミサキは顔を上げてアイリスを見た。
「あなたにクラシックなんて似合わない、とでも言いたげな顔だね、イネス。火星に来た後、ラングスドルフさんからおススメしてもらったんだよ。CDも何枚かもらってさ。最近は戦いもないからこればっかり……」
アイリスは思った。私と同じだ、と。
私も部下たちの死に耐えられず、年少者の死に接すると快楽を感じるようにいかれてしまった。
ミサキも同じだ。彼女は辛い記憶を心の奥深くに押し込み、整合性を保たせるために認識する現実さえ歪めている。
アイリスは純粋な目でこちらを見上げる少女から目をそらしたくなった。
ミサキはキョトンとしている。
黙っている最愛の親友が不思議でならないのだろう。
「曲変える?」
そんな脈絡のないことを言い、CDを取り替える。今度流れ出したのはバイオリンの美しい旋律だった。「G線上のアリア」と、ミサキは曲名らしきことを呟いた。
「ミサキ」
どうしようか迷っていたアイリスだったが、意を決して切り出した。G線上のアリアは美しい曲だったが、ほとんど耳に入ってこなかった。彼女は優しさを捨てた。
「私はイネスではないわ。覚えてる?アイリスよ。局長のアイリス。あなたが火星に来た日、唐突にハグしたことがある。……あれは、自分でもどうにかしてたと思うけどね」
ミサキはゆっくりと顔を上げた。
「どういう、意味?」
ミサキの顔から生気が消えた。
アイリスは部屋を出たい衝動に駆られたが、自らの使命を思い出し、思いとどまる。顔を引きつらせながら残酷な言葉を投げた。
「私はイネスではないわ。アイリスよ。彼女はとても遠くに行ってしまった。ここにはいないし、もう2度と来ない」
「そ」彼女は言葉を詰まらせる。「そんなことないよ。貴女はイネス、そうでしょう?そんな下らない冗談はやめて……」
語尾が弱々しく消える。
アイリスは見ていられなかった。目を伏せ、我知らず血が滲むほど拳を強く握りしめていた。
ミサキはよろめきながら立ち上がり、アイリスの顔に触れた。小柄な体がさらに小さく見えた。彼女は死体の沈んでいる古井戸を覗き込むような目でアイリスを見た。
「嘘」
まるで世界中から希望が消えてしまったかのような顔だった。
「嘘……嘘嘘嘘嘘、嘘だ。嘘に決まってる。イネスは帰ってくると約束したんだよ。そんな、死んだなんて、嘘……ありえない。ありえないありえないありえないッ」
ミサキはかがみ、頭を抱え、振った。声を荒げる。狭い部屋に反響して壁を震わせた。それほどの大音声だった。
老医師が部屋に駆け込もうとしたが、アイリスは手で制す。
ただ待った。
ミサキが落ち着くまで。
目の前で泣き喚かれても、暴れられても顔色一つ変えずに待った。
何分経ったかアイリスはわからない。ただ、とても長かったような気がする。やがてミサキは落ち着いた。
「ミサキ」
ミサキは肩を震わせながら立ち尽くしている。アイリスの声は届いてない。
「ミサキ」
今一度言った。「ミサキ!」
霜村美沙希はハッとなり、びくっと体を震わせた。アイリスを見上げる。目が合った。
「貴女にしてもらいたいことがあるの」
ゆっくりと、優しく問う。
「アイリス、局長……」
ミサキはやっと目の前にいる人物を正確に認識したようだった。
「とても大切なことなの」
「……」
「どうかしら」
「……私の今の状態、見てわからないんですか」
泣き喚いた為だろう、とてもかすれた小さな声だった。
「何をさせるつもりか知りませんが、無理ですよ」
ミサキはそれだけ言ってベットに潜り込んだ。
アイリスは今日何度目かの溜息を吐いた。引き止めるのは無理だった。そのまま黙って病室を出た。
「どうでしたか。やはり、難しいと思いますがね、私は」
メルスナーが腕を組みながら言った。
「また来る。それしかない。」
アイリスは彼女の様子を見て希望を抱いている。
ミサキは一時は我を失ったが、その後、アイリスを認識し、会話までした。回復の余地はある。
「やれやれ、やっぱりそれですか」
「なに、粘り強くやるさ。火星人類の存亡がかかってるとなればな」
「あのう……」
老医師が遠慮がちに言った。「お二人は、ミサキさんに何をやらせるつもりなのですか」
アイリスとメルスナーは顔を見合わせた。
「そうだな……。貴方はミサキ・シモムラの主治医か?」
「そうです。精神分野のみですが」
「なら、伝えておくべきか」
「ですね」
アイリスの確認にメルスナーが頷いた。
アイリスは老医師に、自分達がミサキに求める役割を伝えた。老医師の表情が驚愕のそれに変化したのは当然だった。
「彼女には“アスラ”と戦ってもらう。つまり、現在建造中の対アスラ巨大人型決戦兵器、それのパイロット最優先候補というわけだ」




