3.首都
翌朝、神官の声がツマーンの森に届いた。
隠れていた人々が恐る恐るザカートトンネルに向かう。
神官たちは、【無尽の瓶】で持って来た飲料水の他、湖の民に緑青飴、陸の民には鼈甲飴を配った。
水で喉を潤し、飴を頬張る人々に神官の一人が告げる。
「神殿は焼けましたが、祭壇は辛うじて残っています。我々は捧げられた【魔道士の涙】と【魔力の水晶】を守る為、留まります」
「家族が傍に居ない子供たちは、このフィアールカ神官が聖地に届けます」
年配の神官に紹介された女性神官が、一歩前に出た。空襲の夜、少年を【跳躍】でここに運び、トンネルで呪歌【癒しの風】を歌った神官だ。
フィアールカ神官は、山道に出てきた人々を見回してやさしく言った。
「ここに居ると危ないから、子供たちは私と一緒に聖地へ行きましょうね」
「お父さんとお母さんは?」
誰かの声にフィアールカ神官の顔が強張る。若い女性神官は、緑の瞳を閉じてひとつゆっくり深呼吸して、質問した赤毛の女の子を見た。
「生きていれば、いつか、どこかで会えるからね」
「会えるの?」
「みんな水の縁で結ばれてるから、いつかラキュス湖の畔のどこかで会えるのよ」
それが気休めでしかないのは、幼い少年にもわかっていたが、誰も何も言わなかった。
ラキュス・ラクリマリス共和国の首都ラクリマリスは、フラクシヌス教の聖地でもある。フナリス群島の中央に位置する大都市は、無数に巡らされた水路が全体を網の目のように覆い、巨大な魔法陣を成す。
フィアールカ神官が【跳躍】した丘から見下ろす首都は、どこも損なわれておらず、朝露を受けた蜘蛛の巣のように輝いていた。
丘を降り、堅牢な防壁の内側に入る。
子供たちは水路の畔をフィアールカ神官に続いて言葉少なに歩いた。
「ここは西神殿よ」
ひとつの花の御紋がついた立派な神殿は、故郷のそれより大きかった。
「キルクルス教会の周りだけ空襲の対象外で、街区五つ分も丸々無傷だ」
「まぁ【操水】で溺れさせてやったがよ」
前庭に座る煤けた大人たちは、南ザカート市から逃れた者だろうか。他所も酷い目に遭わされたのだろうか。
不穏な話の断片が聞こえる中、故郷から遠く離れた地での暮らしが始まった。
「生きていれば、いつか、どこかで会えるからね」
フィアールカ神官は、南ザカート市の神殿に戻ったが、度々孤児を連れて首都ラクリマリスの西神殿を訪れた。
一年過ぎ、二年経っても、祖父母も両親も兄弟も、少年を迎えに来ない。
親戚や里親に引き取られ、子供たちが次第に減る。
少年は夜明けの空に取り残された明けの明星のような気持ちで日々を過ごした。
少年が生まれる何十年も前から、魔法を“悪しき業”と断じる力なき民のキルクルス教徒、魔力の有無を気にしないフラクシヌス教徒、湖の民と陸の民、王政と共和制、フラクシヌス教内の主神派と湖の女神派がいがみ合いを続けている。
フラクシヌス教の聖地ラクリマリスは、キルクルス教徒の攻撃からは守られていたが、中に入れば、主神派と女神派の貴族が足を引っ張り合い、毎日のように暗殺や失脚の噂が飛び交っていた。
学校に通えず、神殿の集会所で読み書きと魔法を習う少年の耳に入るくらいだ。誰も隠す気がないのだろう。
フィアールカ神官は、顔を合わせる度に「生きていれば、いつか、どこかで会えるからね」と繰り返し、少年はそれに頷いてみせた。
四年の歳月が過ぎたが、まだ、家族と再会できず、各陣営の争いも終わらない。
「神殿のすぐ傍のお屋敷が、ホテルになると決まりました」
ある日、年配の神官が、知らないおじさんを連れてきた。湖の民の彼が、集会所で学ぶ子供たちを見回して言う。
「ホテルのお仕事を手伝ってくれる子は居るかな? 食事とゆっくり寝られる場所を用意するし、学校にも行かせてあげよう」
少年は真っ先に手を挙げた。
十二歳になった彼は、大人たちから漏れ聞こえる話で、神殿ではもう孤児を養えなくなってきたことを知っていた。もう一棟の集会所は、夜になると雑魚寝の孤児で足の踏み場もない。
他にも、少年より少し年嵩の数人が手を挙げ、開業準備で目が回るような忙しさを一緒に経験した。
ホテルは、失脚した貴族の館に少し手を加え、ほぼ居抜きで使われた。
「シクールス伯爵はここを手放してネモラリス島に移られたそうよ」
「あらあら、墜ちたものねぇ」
「ウヌク・エルハイア将軍の招集に応じた、なんておっしゃってましたけど」
「グロム市のお屋敷も人手に渡ったそうよ」
「いい気味だわ」
庭掃除中に聞こえた客たちの話の意味はわからなかったが、いい話ではなさそうだった。
朝と夕方、教わったばかりの【操水】の術で掃除して、日中は南ザカート市の知り合いが一人も居ない学校に通った。
何も失っていないラクリマリスの子たちに馴染めず、学校でも白み始めた夜空に取り残された明けの明星のような気分を味わった。
中学を卒業する頃、フィアールカ神官と再会した。
少年は背が伸びて声変わりもしたが、彼女は覚えていてくれた。
「ごめんね。南ザカート神殿を守り切れなくて……みんなの帰る所が……」
「でも生きてるから、水の縁が繋がってて、また会えるんですよ」
「そうね。坊やがおうちの人と会えるように、お祈りするからね」
許しを請うように言われたが、少年にはフィアールカ神官を何と言って慰めればいいかわからなかった。
掃除の他、厨房で野菜の皮むきも任されるようになり、包丁の扱いでどやされる日々が始まった。
同期たちはホテルを去り、もっと割のいい仕事に流れた。
少年は、コツが飲み込めると楽しくなり、いつしか料理長から褒められるようになっていた。