2.隧道
「ザカート隧道の手前、南の坂道です」
「呪具などで【簡易結界】が使える人は、森で固まって夜明けまで動かないで下さい!」
神官の女性は大声で告げ、少年の手をそっと離して再び【跳躍】の呪文を唱えた。
坂の途中に残された人々の声が、漣のように広がる。
「えぇっと、とにかく、子供はトンネルに入れよう」
「パニセア・ユニ・フローラ様、どうか我らをお守り下さい」
「俺、【魔除け】の護符持ってるんだけど、誰か【簡易結界】できる人ー?」
「街が……燃える」
その声に振り向くと、坂のずっと下で、南ザカート市が夜空を焦がす勢いで炎を上げていた。
キルクルス教徒には、力なき民しか居ない。
魔法で身を守れないから、魔物や魔獣が飛び交う夜は爆撃機が来ない。
大人たちにそう言われ、安心して眠ったのが、遠い昔の夢に思える光景だ。
昨日までは学校に行って、帰ったら家の手伝いをして、兄弟や友達と遊んで、生まれたての妹にちょっかいを出して母と祖父に叱られ、祖母が「あっちでおやつ食べようね」と台所に連れて行って、秘蔵の干し杏を出してくれた。
昼に空襲があっても、湖水の義勇軍や秦皮の葉陰軍など、フラクシヌス教徒の自警団が、協力してキルクルス教徒の爆撃機を撃墜してくれた。
女神派の湖水の義勇軍と主神派の秦皮の葉陰軍は、いがみ合っていたけれど、力なき民の科学の軍勢には協力して立ち向かい、魔術を“悪しき業”などと断罪するキルクルス教徒に「魔法の方が強いのだ」と思い知らせていた。
家も、他愛ない日常も、信じていたことも、何もかもが燃えてしまう。
「ねぇ、どうして火を消さないの?」
「おうち燃えちゃう」
「あれだけ火勢が強くちゃ、もう消せないよ」
「ちょっとやそっと【操水】で水を掛けたくらいじゃなぁ」
少年はまだ幼く、簡単な【操水】の術も覚束ない。
水を含んだコートはいつの間にかすっかり乾いていた。
隧道の中は地脈の力を使った【灯】が点され、薄明るかった。
神官たちの【跳躍】で次々と人が運ばれ、クブルム山脈を貫く長い隧道がいっぱいになる。少年は誰かに肩を抱かれて奥へ奥へと進んだ。
少年と同じ緑色の髪を持つのは、湖の民の子供たち。
ここに居る赤や金、黒、麦や大地と同じ色の髪の人たちは、力なき陸の民。同じ陸の民でも、力ある民は魔法が使えるから、ここには来ていない。
不意討ちで焼け出されたフラクシヌス教徒たちは、湖の女神派も主神派も一緒くたに狭いトンネルで身を寄せ合って過ごした。
南ザカートの街は、まだ燃えていた。
焼夷弾を投下し尽くした爆撃機が、ずっと南のアーテル地方に飛び去る。
濃紺の空の端が白み、星々が輝きを失う。
ぽつんと残った明けの明星がやけに淋しげに見えた。
空がすっかり明るくなってから、神官が数人【跳躍】して来た。
「俺たちの街、どうなったんですか?」
大人の質問がトンネルに谺する。
よく通る女性の声が応えた。少年を【跳躍】で運んでくれた若い神官だ。
「街にはまだ戻らないで下さい。夜明けと同時に戦車と地上部隊が……」
「何だって?」
「ここも、もしかすると、通り道になるかもしれません。森に逃げて下さい」
悔しさが滲む神官の声にトンネルが静まり返った。
空襲後は、焼け跡から【魔道士の涙】を回収する為、各陣営が血みどろの戦闘を繰り広げるのが常だった。死者の魔力が凝った結晶【魔道士の涙】は、使い方次第で武器にも資源にもなり得るからだ。
青年神官が告げる。
「動ける方は、トンネルを抜けて北ザカート市か、ツマーンの森に分散して【簡易結界】を張ってやり過ごして下さい」
「怪我した方は、今から癒します。どなたか、魔力を貸して下さる方……」
少年は、女性神官の呼び掛けに応じた。まだ八歳で、大した魔法は使えないが、魔力ならある。
神官の掌には、輝きを失ったからっぽの【魔力の水晶】があった。
少年が神官の手と一緒に握る。人々が移動を始めたトンネル内に呪歌【癒しの風】が朗々と響き渡った。【水晶】に魔力を吸われるひやりとした感触と同時に、女性神官と共に呪歌を詠じるような高揚感が湧き上がって戸惑う。
澄んだ声で歌うこの神官も、少年と同じ緑色の髪を持つ湖の民だ。
夜通し【跳躍】したのだろう。疲れ切った顔も神官の衣も、煤で薄汚れ、緑の瞳の下には濃い隈が影を落とす。
北へ南へ、どんどん人が散ってゆく。
神官の周囲に集まった人々の顔や手足から、拭い去ったかのように火傷が消える。少年は、コートのポケットから緑青飴を全部出して神官の手に握らせ、振り向かずに走り出た。
癒し手の神官に魔力を貸したのは、少年ただ一人だった。
ザカート隧道は、交通の要衝だ。ネーニア島を南北に分かつクブルム山脈を貫く。いつ、キルクルス教徒の戦車が登って来るとも限らない。
知らないおばさんに呼ばれ、冬枯れしたツマーンの森に足を踏み入れた。
「あたしゃ力なき民だけど【魔除け】の護符と【結界の呪条】を持ってるから、坊やの力、貸してくれない? 勿論タダとは言わないよ。緑青飴あげるから」
おばさんの髪は麦藁色だ。
緑青飴は、湖の民が銅を手軽に摂る為のものだが、陸の民が食べれば中毒を起こしてしまう。おばさんは自分が食べられない緑青飴をポケットにたくさん詰めていた。
少年は全部もらってついて行く。飴を一人で食べるのは心苦しいが、おばさんには毒だから仕方がない。
「おばさん、おなかすかない?」
「一日二日食べなくたって平気さ。あたしゃ大人だからね」
常緑樹の薮の陰で【結界の呪条】を結び、魔力を籠める。麦藁髪のおばさんは白い息を手に吹き掛けて震えるが、少年はコートに掛かった【耐寒】の術で平気だ。
「街に降りたら、戦いに巻き込まれるからね。おなかすいたって、ほとぼりが冷めるまで、ここに居た方がマシなんだよ」
二人は葉に着いた朝露をすすって一日過ごした。
木々の隙間から見える南ザカート市は黒く焼け焦げ、無数の煙が槍のように空を刺していた。