1.夜襲
母の声で叩き起こされた。
悲鳴のようで何と言っているかわからない。母は妹と一緒の筈だ。
ただごとではない。
ぼんやり感じたところで乱暴に戸が開き、少年はベッドから引っ張り出された。祖母の筋張った手に立たされ、寝巻の上からコートを着せられる。
真っ暗な廊下で手を引かれ、寝惚け眼をこすりながら連れて行かれたのは玄関だ。どこへ行くのか。
みんな寝巻の上からコートを着ている。祖父が兄と手を繋ぎ、父は弟をだっこし、母は生まれたての妹を抱いていた。
祖父が、兄の手をぐいっと引いて言った。
「いいか。もし、はぐれても探すんじゃないぞ。神殿で落ち合うんだ」
「迷子になっても、家族みんな、水の縁で繋がってるからね」
祖母がやさしく頭をなでてくれた。
祖父が厳しい声で禁じる。
「それから【灯】は使うな。狙われる」
「いいか、女神様のご加護を信じて、神殿まで走るんだ!」
父が扉を開けた。
夜なのに、夕方みたいに空が明るい。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。
漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
起ち上がり、我が意に依りて、炎から守る盾となれ」
両親が防火水槽の中身を【操水】の術で起ち上げた。冷たい水が生き物のように這い、コートに染み込んでずっしり重くなる。
その冷たさで目が醒めた。
赤く染まった空をトンボに似た影が、無数に飛び交う。
「そんなバカな」
「キルクルス教徒が夜襲を仕掛けるなんて」
「魔法を使えない癖に生意気な」
「魔獣に襲われて自分たちだってタダじゃ済まないのに」
近所の人たちが、赤い光と黒い煙の中を飛ぶモノを睨む。
「いいから、行くよ!」
祖母に強く手を引かれて我に返る。
他の家族はもうみんな走っていた。
夜の街は昼間とは全く違う。電気の灯も魔法の【灯】も消えた暗がりを走る。
毎日通って、よく知っていると思っていたのに、どこをどう走っているかわからない。風向きが変わる度に咳と涙が出た。
暗い道に影が伸び、夜の大通りに人が溢れる。
大人や荷物にもみくちゃにされながら、人の群に押し流された。
子供の泣き声。
誰かを呼ぶ声。
道を急かす声。
罵る怒鳴り声。
激しい咳の音。
加護を求める祈り。
敵を詛う怨嗟の声。
長く尾を引く悲鳴に似た甲高い音。
遠くから聞こえる爆発音と地響き。
気が付いた時には、祖母と手が離れていた。
闇雲に足を動かし、水の気配に顔を上げる。
神殿の白壁と柱が、赤い光を映して禍々しく輝いていた。
前庭は人がいっぱいで、家族がどこに居るかわからない。
「子供、怪我人、力なき民はこちらへ!」
「湖上に出て【跳躍】します!」
新年のお祈りで聞いた神官たちの声だ。悲鳴や怒号が渦巻く中で、二人の声は、湖上の漁火のようにはっきり聞こえた。
大人の足の横をすり抜け、少年は何度も繰り返される声の方へ急いだ。
頭の上から悲鳴や嘆きが降って来る。
「泥棒除けが裏目にでるなんて」
「この近くの【跳躍】許可地点ってどこ?」
「市民広場だ」
「そっちはもう火の海よ!」
「湖水の義勇軍はまだかッ?」
「キルクルス教徒の分際で夜襲なんぞ、生意気な!」
「飛べる魔獣に食われろってんだ」
人いきれを抜ける。目の前に水塊が浮いていた。
色々なものが焼ける臭いが混じり、空気が苦い。
大勢が咳込みながら、叫ぶように呪文を唱える。
「一旦、湖上に出ます!」
その声に続いて、神官が力ある言葉で水に命じた。
「沖へ飛べ」
筏のように四角い水塊には、人がぎっしり乗っていた。その形のまま、ラキュス湖の沖へ出る。
赤い光にギラギラ照らされた湖がうねる。
人の姿が一斉に消え、水塊が湖に落ちた。
入れ替わりに人影が現れる。揺らぐ水面に立ち、白い衣の裾をからげて岸に駆け寄る。若い神官二人だ。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。
漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
起ち上がり、我が意に依りて、確かな足場となれ」
力ある言葉で湖水に命じ、人を集める。
「神殿内はもういっぱいです」
「魔力の続く限り、ピストン輸送します」
「自力で【跳躍】できない子供と力なき民はこちらへ!」
少し離れたところでは、水塊が岸と湖上を往復していた。沖に出た途端、人の姿が次々と消える。あちらは自力で跳べる者ばかりらしい。
神殿に行けと言われた。
祖父母も両親も、【跳躍】除けの結界がない場所でなら、ちゃんと【跳躍】の術が使える。この分では、先にどこかへ行っただろう。
「坊やも早く!」
若い女性神官に腕を掴まれ、水塊に乗せられた。
誰も【灯】を点さないが、神殿の場所はわかりやすい。爆撃機の群が迫る。宙に浮く水塊にどんどん人が乗る。
押されて神官に抱きとめられた。やわらかな胸のあたたかさに涙がこぼれそうになる。
「鵬程を越え、此地から彼地へ駆ける。
大逵を手繰り、折り重ね、一足に跳ぶ。この身を其処に」
目眩に似た浮遊感の後、目の前の景色が一変した。
喉をヒリつかせる焦げた空気はなく、ひんやり冷たい冬の夜気だ。まっくらでどこだかわからないが、大勢の人の気配がした。