07
春休みがあけた。新学期が始まり、ぼくは二年生となった。
先輩とのやり取りは夏を過ぎた今も変わらない。
実験と称してぼくにあれこれさせている。変わってしまったことは、やたらと目染川先輩と接点を持ってしまうということぐらいだろうか。
目染川先輩が例の一件のことでぼくを気に掛けてくれるというのもあるのだが、大半はあちらの先輩がらみだ。
「なるほどなるほど、今回も過去は変わらずか。本当にわけが分からないな、私がした体験はそのまま残っているのに、変えられた未来は私に影響しない。これはどういうことか。確率でいえばそろそろハズレを引いてもいいと思うのだが」
先輩はというと、ぼくにあれこれと釘を刺したくせに、先輩とぼくとの間にある時間について色々と考察を続けている。
なんでも知的好奇心をくすぐられるとのこと。
まあ、ぼくと目染川先輩に迷惑がかからないなら止めようとも思わない。だからこそ今までは止めなかったのだけれど。
「先輩、そろそろ目染川先輩でデータ取るのやめません?先輩にとっては一番身近な存在なのはわかりますけど、目先を変えてみるのもいいと思うんですよ」
「たとえば?」
えらく気乗りのしない声。
その声にたじろぎそうになりながらも、ぼくは何とか言葉をつなぐ。
「天気とか世界情勢とか、ニュースでわかる範囲の情報でもずいぶん検討の価値はあるんじゃないですか?」
「却下」
先輩はにべもなくそういう。なんか機嫌悪そうだな。
「それじゃあ、山さんが介入できる範囲を超えている。……ああ、仮に天候や国際問題を山さんが超常現象で操作できたとしても私には聞かせないでくれ。自分のことならともかく、他人や世界なんてものが変革されたと知ってしまえば、私は正気を保っていられない。キミは、私に明日この街に核ミサイルが落ちてくるといわれても笑い飛ばせるか?そういうことだよ、私には荷が重すぎる」
「それはさすがに……。で、でもですね、このままだとちょっと誤解を招きかねないことが起きてしまうんですよ」
最近、綾川高校で不穏な噂を耳にする。あくまで静かに、ゆっくりと。だがそれは異常な感染力でその勢力を広げてゆく。
曰く、目染川みやこに思い人ができたらしい。
曰く、2-Cの山口が目染川にコナかけているらしい。
曰く、俺は見た!目染川が山口と親しげに話をしているのを!あれは、目染川にしつこく交際を迫っている目だった!おい誰か!手遅れにならんうちにアイツ埋めろ!
ひどい誤解だ。根も葉もない。もっとも話くらいはした覚えがあるが、それにしたって下心前提に動いたと思われては業腹だ。
こういった噂は不思議と当人にはなかなか届いてこないものだが、それにしても気がつくのが遅れすぎた。ここまで広がってしまうと動きが取れない。下手に動けば火に油を注ぎかねない。
「そういうわけで、今後せめて噂が下火になるまでは自重したいと思います。これ以上、目染川先輩に親しくなると、おそらく噂は目染川先輩の耳にまで届きます。なんとかそれは避けたいんですよ、先輩」
「山さん、キミさあ。たぶん無駄なことをしようとしているよ」
わざとだろうか、先輩は気だるげにまるで興味なさそうに、ぼくがしようとしたことを無駄だといった。
先輩と目染川先輩は基本思考は同じだと先輩自身は言ったし、ぼくもそれを否定しようとはもう思わない。それでもアクションの取り方は違う。先輩のようにずけずけとした物言いをする目染川先輩は見たこともないし、イメージすら湧かない。
「無駄って、そんな。先輩だって、顔見知り程度の男と付き合っているなんて噂されれば嫌でしょう?無駄って言うなら何が無駄なんですか!さっきから何に腹を立てているのかは知りませんが、いいかげん、真面目に応えてくださいよ!」
小学生でもあるまいし、高校生にもなって露骨にひやかすような連中はいないだろうが、それでも何かするたびにいわれのない噂や好奇心に満ちたぶしつけな視線を向けられるのはだれだって不快に決っているだろう。それはほかでもなく、先輩に注がれると分からないはずがないのに!
言葉を紡ぐうちに感情に歯止めがかからなくなったぼくは、元凶が先輩だというように責めるような口調で怒鳴った。
先輩は平坦な声で「山さん、言っておくよ」と前置きをひとつして語り始めた。
「まず、私の無駄だという言葉に山さんはいたくご立腹のようだが、無駄は無駄だ。なぜなら、おそらく私はその噂は知っている。知っているものを知らさずにいるというのは無理以外の何物でもない」
は?目染川先輩がすでに噂を知っているだって?
「キミは私がその下品な噂にショックを受けると思ったらしいが、あいにくそこまで私は弱くない。そう見えるというのなら、キミの前での私は猫を被っているんだろうよ。山さん好みの女性にみせようとする涙ぐましい努力だよ。擬態だよ。どの程度までかは分からないが、惚れた男の前でぼろを出すようなことはしないだろう。ひょっとしたらキミの前では永遠に猫を被って生きていくかもしれないな。我がことながらそこまでいけば大したものだよ。まったく、こんなことなにるとは思ってもみなかった!」
先輩の口調に熱が入る。
だが、それより先輩の言った言葉にぼくは頭を殴られたような衝撃を受けていた。
目染川先輩が、ぼくに惚れているだって……?そんな、馬鹿な。
「私が不機嫌な理由が知りたいと言っていたな、山さん!不機嫌にもなるさ、なにしろ知らぬ間に私自身がそうなるようにお膳立てしていたと気がついたからな!もっと早くに気がついておくべきだった。気付くチャンスはあった!はじめのころのように冗談で済む話なら笑い話にもなったろうが、冗談でなくなるとまるで笑えない。とてもじゃないが今の気分は形容できそうにないよ。私は私が知らないうちに私の惚れた男とこうして話をしているのだから」
一旦熱くなりかけた先輩の声が徐々に平坦に、冷たいものになっていく。
「そしてキミだ。さっきから目染川先輩、目染川先輩と。そんなに心配なら私に許可なんて求めずになんなりと山さんが良かれと思うことをすればいい。私がなにを言おうともキミの行動を実際に縛ることはできないんだ。それくらい自明じゃないか。わかるだろう。わかりなよ。好きにすればいいと言っているんだ。山さん、キミは――――いや、すまない、全部忘れてくれ。ただのやつあたりだ。責めるべきは山さんではなく、私なのだろうな……」
そういうと先輩はぴたりと口を閉ざしてしまう。
重たい沈黙が流れる。
どのくらい時間が過ぎたのか分からなくなったころ、長い沈黙に耐え切れずにぼくは声を出した。
「……目染川先輩がぼくのことを、ってのは本当ですか?」
ことさらに答えを求めて聞いたわけではないけれど、先輩は短く肯定してくれた。
「十中八九、間違いないだろうな。私だからわかる」
「なら、どうしてそうなったかは……?」
ちっと舌打ちをする音。
「私のせいだ。私は実験と称して山さんに私の尻拭いをさせたな?忘れ物やちょっとした失敗、最初の一件のような事故、そういったことのフォローを」
「ええ。最初のアレは驚きました。もっともその翌日に、今日私は弁当を持っていくのを忘れた。なにか恵んでやってほしい、と大真面目に語られたほうが驚きましたけど」
ふっと、先輩がため息とも笑みともつかぬものをこぼす。
「そういうこともあったな。もう知っているだろうが、私にはすこし抜けた部分がある。意外だったかな?」
「すこしというには、なかなかの頻度だったようにおもいますが」
そういうなよ山さん、そのくらいかわいいものじゃないか、先輩はそう言って今度こそ笑う。乾いた、苦笑いだがそれでもさっきまでに比べれば全然ましだ。
「はじめはいい考えだと思ったんだ。何が起きたか、どう変わったか、分かりやすいし大した手間もかからない。仮に何か問題が起きても、誰かに迷惑がかかるようなこともない。変わらなかった未来こそが私のいる場所なのだからな」
「それが、どうして?」
「どうして?山さん、キミはアニメでもライトノベルでも、PCゲームでもいいが、そういったものを見たり読んだりやったりしたことはないのか?人間として疑問視する感性の持ち主だな、キミは。一度や二度の縁なら大したことはないだろうが、それがなんども続けば多少なりとも意識してしまうものだよ。しかもキミの場合は、そうだな言ってしまえば、好感度を稼ぎやすいイベントをこなし過ぎた」
それも私のせいなのだがな、と先輩は自嘲めいたことを呟いた。
「たとえば、昼食を忘れてどうしようかと悩んでいる時にキミが購買で買ったパンを買いすぎたといって分けてくれる。自転車が無くなってしまったと途方に暮れていると、どこからかやってきて捜すのを手伝ってくれる。楽しみにしていた本を買おうと意気込んでいたら台車をぶつけられそうになる。あわやというところで、キミが抱き止めてくれる――――どうだい?こうして見ると勘違いを起こしたくなる気持ちも分からなくはないだろう?」
「……確かに。でも、そんなことで人を好きになったりするものですか?」
ぼくがその立場にいたなら、好きになるどころかそのエンカウント率の高さに警戒感を抱いただろう。
「私もね、そう思っていた。なにしろ自分のことだから、その程度でなびくような女ではないとたかをくくっていたというのもある。しかし、結果はこのザマだよ。どこで山さんに好意を抱いたかは知りようもないけれど、好意を抱いてからこう立て続けにイベント消化が続けば好意が恋愛感情に発展するのもはやかったろうね」
「ぼくにはちょっと理解できませんが」
「私にだって理解できないよ、山さん。だからこそ間違えたんだ。私は今まで恋愛感情を特定の人物に抱いた事がない。だから、誰かを好きになるというのがどんなプロセスを踏んでおこなわれるのか、まるで無知だった。ふたを開けてみるとどうだい、理由らしい理由なんてない。全部、好きだという感情が肯定するためにデコレーションされた後付けでしかない。もっとも、私が理解できていないだけで、あるいはそれは幸福なことなのかもしれないがね」
私はそんなもの理解したいとは思わないがね、と先輩はうそぶく。
なるほど。そういえば先輩自身の浮ついた話は聞いた事がなかったけれど、独身主義者だったのか。死ぬまで純潔を守る覚悟とは知らなかった。こちらの先輩と同じようにモテるはずなのにおかしいと思っていたんだ。いや、そんな背景があるとは思わなかった。
――――とと、脱線したな。
しかし、恋愛ってそんなものなのだろうか。ぼくも誰かを好きになったという経験がないから、そのあたりはよくわからない。理屈ではなくフィーリング的なものなのだろうか?
「それじゃあ、先輩が気付いたときに目染川先輩とあわせるのを止めさせればよかったじゃないですか」
「それで万事うまくいくようならそうしたさ。だが、その場合私――――いや、もう彼女と呼ぶか。彼女から山さんにアプロ―チをしかけてきただろう。お互い好き合っているのならそれでもよかったが」
そこで先輩が言葉を濁す。
「山さん、キミはどう思っている?私には、キミが私を好きなようには思えないんだ」
「…………」
どうなんだろうか?
ぼくは自分の心に問いかける。何もかも急なことで理解がおぼつかないというのもある。それでなくとも目染川みやこという女性はぼくにとって手の届かない高根の花だと思っていたのだ。恋人になるだなんて夢想したことすらない。
ただ、その一方で憧れはもっていた。他の男子あるいは女子生徒と同じように綺麗な人、美しい人だと思っていた。しかし、それは好きだという強い感情だったか?
ちがう。
先輩が語ったように好意は恋愛感情に変化するのだろう。しかし、ぼくの憧れは恋にかわることなく憧れのまま止まっている。
それは何故だ。ぼくはその理由を知っている。今なら分かる。
だがそれは、ひどい裏切りじゃないのか。
「好きではありません。ぼくはそこまでの感情を目染川先輩に持っていない」
絞り出すようにぼくは言う。
先輩は何の感情も感じさせない声でぼくに返した。
「そうだろうな、きっとそういうと思っていた」




