05
「ごめんなさい!ごめんなさい!本当になんとお詫びすればいいか、私っ!」
ぺこぺこと頭を下げる目染川先輩。その謝罪をはたしてぼくが受け取っていいものかと、ぼく自身は逡巡してしまう。
先ほどの騒ぎがひと段落した今。母親と思しき女性にこっぴどく叱られた子供の泣き声と母親の謝罪の声のするフロアを出た、ぼくたちは店の入り口で妙な緊張感を持って対峙していた。
ごめんなさい、と目の前の目染川先輩が消え入りそうな声で、また頭を下げる。
「あ、いえ、謝っていただくようなことはないです。お怪我がなくて幸いでした」
後ろめたいことがある身としては、今の目染川先輩のように誠意を持って謝れてしまうと心苦しい。
これが本当にただの偶然だったならよかっただろうが、ぼくは目染川先輩が台車にぶつかるであろうことを予測していたのだ。そして、それが実際に起こるかどうかを確かめていたのだ。
「そうだ、山さん。ひとつ、実験をしてみないか」
その、実験というのがこれだ。
先輩が「あったこと」として体験したことが、実際にあり得るかどうか。「あったこと」が起き、その事象がぼくの手によって変えられた場合、それは先輩にとって「なかったこと」になるのか、実験の要点はその二つ。
もう一つ。それ以前に昨日のように先輩と連絡がつくか、というある意味一番重要な点が残っているのだけれど、とりあえずぼくがするべきことはその二つだけだ。
ぼくが最後まで気乗りしなかった、そしていま目染川先輩の謝罪に後ろめたさを感じている理由でもある。
やれ、とぼくに命じたのも先輩だが、それはいまの目染川先輩には関わりのないことだし。押し切られる形になったとはいえ、やってみますよと約束したのは、ぼく自身に違いない。
目染川先輩に気付かれないように、ため息がわりの吐息をひとつ。
「どうかお気になさらずに。それより先輩、本当にお怪我はありませんでしたか?」
ぼくは重ねて目染川先輩の具合を訊ねる。
台車を止めるタイミングを見誤りさえしなければここまで大事になるはずがなかったのだ、これで目染川先輩にかすり傷でもあれば面目が立たない。
何に?もちろん、ぼくの良心に。
「は、はい。その、た、助けていただきましたから。えと、でもどうしてそこまで……?」
上目遣いにぼくを見る目染川先輩の瞳に警戒の色が浮かんでいる。
ちょっと露骨過ぎたか。何度も同じことを聞かれれば、そりゃあ不審に思うだろう。
あわててぼくは言い繕う。
「あ、いえ。思った以上にスピードが出ていましたから、かすり傷でもあったかと。その、何度も聞きなおすようなことをしてすみません」
「ああ、いえ!お気に掛けていただいてありがとうございます。ですが、このとおり本当に大丈夫です。それより、さ、先ほどは気が動転していて私、とんだ無礼を……このお詫びとお礼は必ずいたしますから、あの、ですね。えと、」
目染川先輩が下に向けていた視線を、ちら、とぼくに向けてまた伏せる。
頬、というより顔が全体的に少し赤い。挙動もどこかそわそわとしている。
やはり、とぼくは思う。
無理もない。つい数分前にあわや正面衝突かというところだったのだ。目染川先輩は大丈夫だと言うが、軽い興奮状態にでもなっているのだろう。
いつまでもこんな人目に付く場所で話し込んでいるのも悪いし、目染川先輩もお疲れの様子だ。早々に話を打ち切ったほうがいいだろう。
「お礼とかは結構です。お詫びならなおのこと受ける謂われはありません。お買い物の邪魔になってしまってはいけませんし、この辺でぼくは失礼します」
なぜか呆けた顔を浮かべる目染川先輩に心中首をひねりつつ、ぼくは踵を返す。自転車置き場に向けて二、三歩歩いたところで唐突に背中に目染川先輩の声がかかった。
「あ、あの!まって、まってくださいっ!」
振り向いて、目染川先輩の言葉を待つ。
「お名前を、せめてあなたのお名前をお聞かせください。し、失礼な女と思われるでしょうが、恥ずかしながら私はあなたのお名前を存じていないのです。その、あのっ、どこかでお会いしたことがあるのでしょうか?」
目染川先輩は、あたふたといった感じで言う。
なるほど。目染川先輩にしてみれば自分の恩人にあたる人物が旧知であるかどうか気になるのだろう。ぼくだって見知らぬ人に親しげに話をされれば、怪訝に思う。特に目染川先輩は怪しげなファンクラブとかあるくらいだから、その辺は気をつけておきたいとことなんだろうな。
ううむ、先輩呼ばわりしたのは失敗だったなあ。名前を出すつもりはなかったんだけど、しょうがないか。
「山口といいます。先輩と呼んだのは文字通り、ぼくが綾川高校での後輩にあたるというだけで他意はありません。お気に障ったなら撤回します」
「気に障るだなんて、そんなこと!……あ、えとあの、そうじゃなくて!」
目染川先輩が激しく首を振る。
ぶん、ぶん、ぶん。
あんな風に首を動かして平気なのだろうか?あ、さっきより顔の赤みが増している。そんなにつらいのなら、無理して呼びとめなくてもいいと思うけれど。
「ごめんなさい、お名前をお聞きしても心当たりがないのです。それで、や、山口さんとお呼びしてもかまいませんか?」
「先輩さえよければ。それにぼくのことはお気になさらずに。ぼくが一方的に見知っているだけですから、面識はありません」
ぼくの言葉に目染川先輩は、ほっとした様子で小さくうなずく。
「……そうでしたか。失礼なことに変わりはありませんが、山口さんにそうおっしゃってもらえるとすこし気が楽になりました」
そう言って目染川先輩は今日はじめての笑顔を見せた。
そこには何かしらの意味がありそうな気もしたが、あいにく、その時のぼくは目染川先輩が山口さん、とぼくを呼んだことに気を取られていた。
山さん、じゃないんだな。目染川先輩は。
「では、や、山口さん。先ほどは助けていただいて、本当にありがとうございました。き、今日のお礼は必ず!」
ぺこり、と目染川先輩が再度頭を下げる。そして、なぜかそのままじりじりと数歩分後ずさって、ぱっと身をひるがえして駆けていってしまう。
なんだったんだろう?今の間は。
店を出たあたりからの目染川先輩の言動は、どうもいつもの目染川先輩に似つかわしくないと思っていたが、最後なんかはまるで変質者にでもあったかのような逃げっぷりだった。お礼は結構ですって言ったのに、聞こえてないみたいだったし。
遠ざかっていく目染川先輩の背中を見ながら、ぼくは今日何度目かの首をひねる。
まあ、いいか。
べつにこれから顔を合わす機会があるってわけでもないだろうし。
ぼくはそんなことを思いながら、目染川先輩の姿が路地に消えるのを見送って、ようやく自転車を引っ張り出した。




