02
ぼくと目染川先輩がこんな、ひとことで言うにはちょっとややこしい関係を持つようになったきっかけを語るには、半年前のあの日までさかのぼらなければならないだろう。
春休み、ということもあってぼくは自堕落な生活を満喫していた。
こういうとあたかもぼくが劣等性のようだが、さにあらず。夏期や冬期と違い、課題らしい課題も出ない長期休暇の過ごし方といえば、入学を控えた新入生や進学していく卒業生を除けば、おおむねそんなところだろうと思う。
さて、その日のぼくといえば優雅にテレビを満喫していた。
確か、録画した選抜高等野球大会の準々決勝の抽選会をあくびをしながら観ていた。同年代とは思えないほど堂々と生気あふれる高校生たちがくじを引き当てたところだったろうか。それぞれが明日の対戦チームを見て自信ありげに頷いたり、あるいは一瞬あっけにとられたような表情を浮かべたりする姿を、甲子園とは程遠いこの部屋で眺めていた、その時。
じりりん、じりりりん、じりりりり。
と、ベルが鳴った。
誰が聞いても電話のそれだとわかる音。実物は聞いた事もなければ見たことすらないぼくが、それだと分かる。レトロな響きの黒電話のベルの音だ。
黒電話のベル。それは分かったが、鳴らしているその正体が腑に落ちない。
ベルの音にひかれて半ば反射的に手に取ったのは、ぼくの携帯電話だったからだ。
誰だって自分の携帯から登録した覚えのない着信音が流れれば首をひねるだろう。特にぼくの場合は携帯を買って以来、バイブ機能に設定したまま一度も音が鳴ったことがないのだから。
これは、断固としてぼくの好きなアーティストが他人様の共感を得ないというわけじゃないと弁明しておく。ただ、誰かから電話やメールが来るたびに騒がしくポケットから曲が流れるのが、なんとなく軽薄で好きになれなかっただけであって、けっしてぼくが流行りの曲に疎いというわけではないと重ねて弁明しておこう。
手のひらに収めたものの、ベルの音が鳴りやむ気配はない。
さてさて、どうするべきかと考えようにも『じりり、じりりり』と、こうも喧しくされては考えもまとまらない。
机の上に置かれたデジタル時計は零時を半分ほど回ったところだ。まともに考えれば、こんな夜分にかかってくる非常識な電話などそのまま切ってしまうに限るのだが。
「はい、もしもし」
深夜に黒電話のベルとともに電話がかかってくるなんて怪奇現象、捨てておくにはちょっとレアすぎる。
折りたたみ式の携帯電話を開いたときに出た液晶画面には非通知の文字。なんておあつらえめいてるんだろう。休み明けにクラスの連中にでも話したら、そのまま都市伝説にでもなりそうな話――――だというのに。
「もしもし。キミ、どなた?」
聞こえてきた声は、どこか聞き覚えのある声でそんな事を聞いてきた。
「どなたって、そちらこそどちら様でしょうか?」
相手が霊的な何かではなく人間であるらしいと、判断したぼくは慎重に応える。
もしもし、どなた?第一声がそんなセリフなら掛け間違いという線は薄い。もし、そうだとするなら普通、○○さんでは?と続くのが常識的な流れだ。そうでなくてもまともな人ならば、多少なりとも掛け間違えた事にたいして気後れするそぶりを見せるだろう。それもまったくなく、キミ、どなた?と、来た。
まずいのに当たっちゃったかなあ。
薄寒いものを感じる。幽霊だの呪いだのの怪奇現象ならいっそ諦めもつくが、相手が生きている人間だと別種の恐怖感がある。
相手はどうも女性のようだし、彼氏の携帯に掛けてるつもりとかだと手に負えない。よもや、浮気相手とは勘違いされまいが……ああいや、錯乱状態の人間って自分が聞こえたいように、見たいように見たり聞いたりするってどこかで聞いたようなことがあったっけ。うわあ……すごいことになっちゃったぞ、どうしよう。
「ええと、ですね。まず、冷静にいきましょう。個人情報とかはひとまず置いておいて」
まずはジャブがわり。相手が会話ができる状態かどうかを確かめよう。言葉が通じるならお掛け間違いですよ、とやんわり言って通話を切ろう。もしも、会話が通じそうになかったら――――明日の朝一番に携帯を買いなおそう。鳴りやまない黒電話のベルも一晩くらいなら耐えられるだろう。
ぼくは内心の緊張と恐怖感を極力、声音に乗せないように細心の注意を持って相手に語りかける。
十七年間生きてきて、これほど神経を使ったことはない。なんの知識もなしに着の身着のままで爆弾を解体している気分になる。
「まず、番号はお掛け間違いになっておられませんか?ぼ――私の携帯にはそちらの番号は登録されておりませんが」
さあ、どうだ?どうくる?
心臓がバクバクと今にも飛び出してしまいそうなほど暴れまわっている。鼻息を荒くしないようにするにはどうすればいい?
「え?登録されてない?個人情報がどうとかって――――ん、あれ?」
やばいやばい!そのなんで?ってのは、どっち!?そのリアクションは想定外!なんで私の番号が登録されてないのよ?もう私は必要ないって言いたいの……あ、そう、的なほうなの!?
やばい!限界だ!押すねっ!?
通話ボタンにスタンバイさせていた人差し指を押しこむ、その寸前に「あ、ひょっとしてキミ、綾川高校の生徒?」
その声とともに指先が凍りついた。
……特定された?どうすんの、これ。いやマジで。
怪奇現象かも、これって都市伝説だー、とか言って、うかつに電話に出た結果がこれだよ。警察って被害が出ないと動かないって言うし、ホント休み明けてから登校とができるの?
「……ちょっと、ちょっとキミ!聞こえてるんでしょう?」
「……はい」
こんな声がぼくから出るのか、そう思うほど電話の主に応えたぼくの声は生気を失っていた。
「ん、なんか警戒させたみたいね。……とりあえず、キミが綾川高校の生徒がどうかは答えなくてもいいわ」
「……はい」
もう、特定しただろう。どうしろっていうんだ。
「しっかりしないか!だらしがない男だな、キミは!いいか?今キミがなにを考えているかはだいたい予想がついた。先ほどの用を得ない応対の真意も目星がついた。キミは勘違いをしている」
「勘違い……?」
勘違いをしているのはそっちだろう。どうしてぼくが浮気相手に男をさらわれた危ない女に説教を――――って、あれ?
「私のことは知っているものと思っていた。信じてもらえるかどうかは分からないが、私の携帯にはキミの番号が名無しのまま登録されていたからな。完全に私の手違いだった。それでも、不安だというなら私の名を明かそう。キミが綾川高校の生徒なら聞きおぼえがあるかもしれない。私は――――」
ぼくは、安堵の為に情けなく震えた声で先輩と。
電話の主の正体こと目染川先輩はやたら格好よく、ひょっとしたら電話越しにポーズでも取ってそうな感じで――――という、と言ってのけた。
それぞれ、末尾は違ったけれど、ほとんど二人同時に「目染川みやこ」と口にしたのだった。
これが、はじまりのはじまり。
先輩の携帯にどうしてぼくの番号が登録されていたのかは、結局わからずじまいだったけれど、それはお互いに気にする機会は最初のころだけだった。
その理由となるのが、先輩と話をするうちに現れた奇妙なズレ。話をしていても、いつも食い違うその正体。
二十三時間と三十分、その時間分だけぼくらは離れていた。




