01
「大きな声だったな。さては山さん、嫉妬か?」
割と本気で大声を出したのに先輩には別段堪えた様子が見られない。まあ、いつものことだ。聞いてほしくないことを淡々と聞いてくるのもいつものことだ。
先輩こと、目染川みやこはこういう人なのだ。
きっと、三十分後の世界は携帯も人間も未来仕様なのだろう。
なんといっても、話は通じても心が通じない。
「ええ、まあそうとってもらっても結構ですよ」
「なるほど。嫉妬は見苦しいけど、先ほどの声は腹から出たいい声だったね。腹筋は鍛えているのかい?」
先輩のからかうような口調が、腹立たしさと同時に心地よいと思ってしまうのはどういうことか。先輩の毒気に当てられていないとすれば、この半年間の付き合いなのか、あるいは、これが惚れた弱みというやつか。
「もういいですよ。ぼくが女々しい態度をとったことは謝りますから、ちゃちゃっと本題に入っちゃってください」
すっかりやる気の削げた声を隠そうともせずにぼくは言う。
どうしよう。昨日の今日だからぼく的に結構、気合を入れてきたつもりなのに、テンションただ下がりだよ。出来ることなら、サボタージュしてやりたいくらい。イベント的に無理だけど。
正直、先輩に――――あ、いや、先輩にという意味だけれど。先輩にぼくのこのやるせない気持ちが分かるとは思わなかったけど、この仕打ちはちょっとどうかと思う。まったく、語るべき事柄は語るべき人を選ぶ、とは誰が言ったか知らないけれど、言いえて妙だ。こと恋愛の機微について先輩に語るなんて糠に釘。打たれる釘がかわいそうだ。
「おやおや、ずいぶん投げやりだな。それになにやら私を不当に貶めようとする邪念を感じるよ。山さん、キミはあれかい?私がデート中にいちゃいちゃしたのがそんなに気に食わないのかい?」
「気に入りません、なんて言ったら先輩は電話を切りますよね。だから言いません」
「なかなかうまい言いまわしじゃないか、山さん。小僧な言い分だけに小憎ったらしいね。ま、いいさ。私は君より年上で大人で、できた、心身ともに一定以上の魅力を備えた女だと自負しているからね。青臭い小僧の戯言くらい寛大な心で聞き流してやるのさ」
ふふん、と得意そうな顔で鼻を鳴らす先輩の顔が目に浮かぶ。
その様はとても、年上な大人のできた女性の姿とは思えない。むしろ程遠い。逆だろ。
「山さん?」
少しとがった声で呼びかけられる。
きっといま先輩は、軽く眉をひそめているのだろう。落っことさないように携帯をしっかりと両手に持ち直して、わざと不機嫌そうな声でこういうのだ。
「キミ、ちゃんと聞いてる?」
ずるい、そう思う。卑怯だとも思う。
あっさりというか、かなり手ひどくぼくを振ったくせに縋るような言い方をする。携帯越しの表情がありありと想像できてしまうまで、惚れさせておいて突き落とす。そのくせ、ぼくのちょっとした仕草や言い方ひとつで簡単にたじろぐ。
「ちゃんと聞いてますよ。それで、今日は何かトラブルありました?ああ、もうノロケはいいんで要点だけお願いしますよ」
暗い感情がのようにくすぶり、ぼくの胸にもやをかける。その感情を見透かされないように、ぼくは精魂込めて、気だるげに億劫そうな声を出す。
「惚気って――――まあ、山さんにしてみれば惚気なんだろうね。んー、まあいいや。なんか興が削がれた。もっとうろたえると思ったのに、つまんない」
「うろたえましたよ、十分に。不足なくうろたえたおかげで、不覚にも叫んでしまったくらいです」
いつもの、ジャブの応酬のように軽口を交えながら、一瞬ズレそうになった先輩との距離感を修正する。
「くふ。そういやそんなこともあったね。いや、実際アレは後世に語り継げるくらい見苦しい嫉妬の叫びだったよ。語り継ぐと宣言してもいい」
今の先輩は、端正な顔には似つかわしくないずいぶん下卑た表情をしているんだろうなな、とひとりごちながらぼくは言う。
「語り継いでどうするんですか、そんなもん」
「女の勲章ってやつさ。思い出はプレミアムってテレビでやってた」
プライスレスです。
プレミアムだといらぬ誤解を生みますよ。
「ま、おしゃべりはもういいか。と、言っても特に今日は報告するようなことはなかったけれど」
先輩がそう前置きして、ようやく本題に入る。
「ええと朝、なかなか寝付けなかったせいか起きたら、九時が回ってた。急いで着替えて駅前まで自転車をとばした。駅に着いたら、そのまま遊園地まで電車に揺られて、あとはさっき話した通り。駅で別れた後はそのまま直帰。今に至る」
「なるほど。デートの前日に緊張と期待で眠れなくなって、寝坊しちゃうあたりが萌えポイントですね?」
「いいか、山さん?一度しか言わないぞ。――――だまれ。」
「…………」
おお、先輩がお怒りになられた。
黙れと仰せなら黙らねばなるまい。黙って、ここからしばらく先輩の説教に付き合わなければならない。謹聴、謹聴。
しかし、どうだろう。萌えポイントを指摘されての逆切れならぬテレ切れ。
ツンデレとも違うテレ切れ。テンプレ的に例えると「も、もう!こ、これは予想外のひとことで動揺しただけなんだからね!べ、べつにどう切り返せばいいか分からないから、怒ってごまかそうとしてみたんじゃないんだからね!!」うむむ、こんな感じか。
……萌えるじゃないか。
今、先輩からは汲めども尽きぬ底なしの井戸のような、あるいはまるで暴風のような萌えを感じる。オーラ力に例えるとハイパー化した黒騎士くらい。戦前に必中とひらめきを掛けておかないと返す刀で危険なカンジ。
「よし、山さん。喋れ」
「え、なんですか?」
というか、なんでですか?
ここからテレ切れについての考察を一気にまとめないといけないというのに。
今、すごく忙しいんです。邪魔しないでほしいな。まったく。
「山さん?」
先輩の、滅多に出さない気遣わしげな声にようやく正気に返った。
「あ、はい。聞いてますよ、アレですね」
やばい。全然聞いてない。なんだっけ?どこまで行った?先輩の様子からして説教タイムは終わったとして、次は何だ?そもそも何の話をしていたんだっけ?テレ切れじゃなくて……テレ切れ……。
「本題ですね!」
「しっかりしてくれよ、山さん。業務連絡みたいなものじゃないか。なんでそんなに反応遅いんだか」
……よし、乗り切った!
先輩の呆れた声が耳に痛いけれど、説教を聞き流して妄想していたとばれるよりは何倍もましだ。
「最近、年のせいか思い出すのに時間がかかるんですよ。嘘ですが。ええっと、昨日はですね――――忘れ物が二点、ジャージと財布ですね。さすがにジャージは貸せませんでしたけど、購買のサンドウィッチ代は建て替えました。偉く恐縮されてしまいましたよ」
ざっと、要点だけかいつまんで報告する。
「うん。一昨日の通りだね。他に変わったことは?」
「いえ、特には。ああ、そういえばから相談を受けました。なんでも最近、家の周りを不審な人物がうろついていて怖いとか」
ん、と向こう側で先輩がわずかに考え込むような吐息を漏らす。
どうせ知っていることだろうと思っていた。うっかりすれば忘れそうな、その程度のことだったのに、無言のままの先輩からはやけに真剣な空気が流れてくる。
おいおい、嘘だろう。
背筋にひやりとしたものを感じる。飲み下した唾がごくりとやけに大げさな音を立てる。
先輩は諦めたように深い溜息をつく。そして、言った。
「私は知らないな、それ」
その言葉に、息をのんだ。




