8 それぞれの守りたい者のための契約結婚
「もしかしてその方は貴方の……?」
「あぁ。ナセアは俺の恋人だ。ゆくゆくは妻にしたい。だが、今は無理だ」
「どうして?」
「駆け落ちでもしない限り不可能だからな。いや、駆け落ちしても無駄か。フォーマルハウト家で絶大なる力を持つ当主・祖父が反対し、お前との婚姻を望んでいるんだ」
「それは侯爵家のコネによって、貴族社会に参加するためにという事かしら?」
「恐らく。だが、妙に引っかかる点もある。あの祖父がそれだけのためにこの結婚を進める理由だ。もっと条件も人格も良い候補がいるはずだし」
「人格っ!? ……まぁ、今は置いておくわ。でも、うちは旧貴族の中でも古い部類だから。家柄だけはいいの。それが理由では?」
「そうらしいな。だが、引っかかるのは否めない。何が? と尋ねられれば、直感としか答えられない。そこでだ。協定を結ばないか? 俺は騎士として名を上げ、祖父に認めてもらう。五年……いや、三年以内に」
「それは契約結婚かしら?」
「あぁ。そうしなければ、ナセアの事も守れない。恐らく、この結婚を呑まなければ何をされるかわからないからな。なんせお前の家は没落寸前の侯爵家だ。卑怯な手を使ってナセアを傷つけるとも限らない」
悔しいがそうだ。言い返せない。
私は唇を噛みしめながら、両親の事を思った。
あいつらなら絶対に犯罪にすら手を染める。それが己の挙示のためならば。
今頃屋敷でのうのうと目が飛び出るぐらいの酒を浴びるように飲んでいるであろう人達を思い浮かべ、自然と膝の上に添えていた手に力が入った。
おそらく追い込められたあの人達は、ロロ様にすら危害を加えるだろう。
こっちは腐っても侯爵だ。しかも歴史ある旧貴族。
裏で動き回り男爵家へと圧力をかけることすら容易だろう。
「これは双方にメリットがある。同意するべきだと思うが?」
「そうね……でも……」
私は隣に座るロロ様を見上げれば、琥珀色の瞳とかち合う。
「セラフィ。僕は他の誰かと君が結婚するのは嫌だ。君の両親と話し合おう。きっとわかって下さるから」
ロロ様の綺麗な手がこちらへと伸び、私の頬を撫でる。
温かいそれに全てを任せたくなった。だが、彼は知らない。
澄んだ瞳はきっと汚れた世界を見たことがないのだろう。
だから惹かれたのだ。彼に――
「ロロ様。私、貴方様の事をお慕い申し上げています。ですからお守りしたい。私の両親から」
「その件は僕に任せてくれ。君は僕が守る。ちゃんとご両親も話せばわかって下さるはずだ。実の娘の幸せを願わない親なんていないよ」
「それは天地がひっくり返ってもありませんわ。お恥ずかしい話ですが、我が家はもうすでに屋敷も土地も全て抵当に入っておりますの。しかも、あまりよくない高利貸しに。ですから、公爵という飾りの称号でしかありません。持参金もとても……」
「そこまでだったのか……」
「はい。ですからおそらく両親は私とロロ様の仲を引き裂こうと邪魔を致します。この婚姻を失敗すれば、破滅しか道はないのですから」
きっと死に物狂いで潰しにかかってくる。
しかも犠牲が私だ。石ころのように接してきた相手のため、心なんて痛まない。
むしろ、今まで育ててやったのだから当然なはず。そう彼らは思っているだろう。
「ですから、ロロ様。選択肢は……」
「僕は君が他の男に触れるのは我慢ならないんだ!」
突如として響いた闇すらも裂くような声音。
いつものピアノ音のような優しい音色ではなく、激情を秘めた痛さ。
熱の中に鋭利な剣を持つロロ様の瞳に見つめられ、私は胸が締め付けられた。
太陽のように温かく包んでくれていた彼に、そのような温度があったなんて。
「ロロ様……」
だんだんと視界が滲んでいく。だがそれもベリル様の台詞で波のように引いていく。
「ちょっと待ってくれ。それは俺がその夜光蝶に触れるとでも? 心外だ。言っておくが論外だ。誰にでも股を開く女は好きではない」
「ちょっとお待ちなさいっ! 私が誰にでも股を開くですって? なんて品がない言い方! 私はまだ――あっ」
立ち上がり行儀悪くベリルを指で指さした所で、はたりと気づく。あぁやってしまったと。
私は、血液の集中している顔を両手で覆い隠す。
仮面が外れかけてしまった。夜光蝶のキャラがブレた……
あぁ、穴があったら入ってしまいたい。
いや、もういっそのこと自分で掘って埋めるか。でも考えてもみろ。
さすがに空気が読めない人達ではない。きっとこの場を流してくれる。
そうだ。さすがにそうだろう。相手だってきっとコミュニケーションスキルがあるはずだ。
だが、それも虚しい願い。
相手は、真顔で告げてしまった。「お前、その見かけでか!?」と。
「……まぁ、今はお前の事なんてどうでもいい。俺だってナセア以外は不必要だ。寝室も別にする。信じられないなら契約書も作成するが」
白き結婚。しかも三年後に離婚を前提。こちらとしてはありがたい。
結婚さえしてしまえば、両親も何も言わないはずだ。大金が手に入るのだから。
私はこの話を呑んでしまいたかった。ただ……気がかりなのは愛する人。
隣のロロ様の様子を窺えば、彼は片手で頭を抱え表情を歪ませている。
空いている手はきつく色が変わるほど握り締められ、彼の葛藤が垣間見られた。
「……ロロ様」
そんな彼を見ていられず、私は手を伸ばすとその手をゆっくりと両手で開き、包み込んだ。
それに弾かれたように顔を上げたロロ様と視線が交わる。
奈落の底へと落とされたように暗き瞳。彼にそんな表情をさせてしまい、申し訳なく思う。
願うならば、ずっと微笑んでいて欲しかったのに。
やがて先に視線を外したロロ様は、こちらへ手を伸ばし私を抱きしめた。
「僕は君を愛している」
「私もですわ」
「君を守りたい。全てをかけて。だが……」
その言葉に私は首を横に振ると彼の大きな背中に手を回し、抱きしめ返した。
きつく深くお互いを確かめるように。
そして首を振った。これ以上何も言わないでと――