34 セラフィの涙
あの件以来、真っ直ぐ帰宅する日々。
あの夜光蝶のスッピンの威力は凄まじかったのか、それとも事件という共通点があったせいか、セラフィとも関係は至って普通だ。
食事はおろか会話らしい会話をしてなかったのに、朝番・夜勤以外は共に食事をしたり、茶を飲んだりと友人のように過ごしている。
今日も仕事を終え、いつも通り玄関ホールへと足を踏み入れれば、マダン達使用人が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「何かあったのか?」
羽織っていたコートをいつものようにマダンに渡しなが、俺は日常の台詞と化したその言葉を放った。
いつもならば穏やかな微笑みを浮かべているのに、今日のマダンは顔色が優れないように見える。なんだか曇っているようで気にかかった。
「どうした?」
「私の気のせいだと思うのですが、奥様のご様子が……」
「なんだ、具合でも悪いのか?」
「えぇ。そうおっしゃっているのですが、アトリア様の訪問時には問題ありませんでした。ただ、もう御一方来客がありまして……」
数週間前の出来事が俺の頭によぎった。針鼠の歯車へと訪れた時に、聞いたあいつの事情。それによれば、セラフィの両親はあまりセラフィに対して良い感情を抱いてないと。
「まさか、カストゥール家の人間が来たのか?」
「はい。侯爵夫人が……なんでも奥様の顔が見たくなったから寄ったと。やはり何かあるのですね」
「ちょっとな。今度からセラフィを訪ねてきたら居留守を使え。逢わせるな」
「畏まりました」
「それで? あいつはどこにいる?」
「ご自分の部屋に」
「わかった」
俺は深い嘆息を零すと、足を踏み出した。
セラフィがどういう状況なのかわからない。意外とあっさりと復活しているのかもしれない。けれども、この目で確かめるまでどうも心が落ち着かず。頭の中がセラフィ一色に染まってしまった。
早く部屋へと気持ちが急かすためか、屋敷の中だというのに全力疾走してしまった。
そのため薄くなった酸素を肺へと送るために大きく深呼吸をする。
気のせいか、今日の扉は深い森のように得体がしれないように感じる。まるで来る者を拒んでいるかのようだ。
重厚な扉をノックすれば、侍女服に身を包んだ女が姿を現した。レダだ。
纏っている空気が張りつめ、重苦しい。室内を窺おうにも黒で塗りつぶされているため何も探れない。
「申し訳ございませんが、お嬢様は体調不良で寝室で休んでおります」
「……何か言われたのか?」
「なんのことでしょうか? 私にはわかりかねますが」
そう淡々と告げたレダ。だが、今にも首元にナイフを当てられそうな殺気を感じる。騎士として何度も危機的状況に遭遇した事がある。だが、レダが発する殺気は別だ。
こちらが気圧されるぐらいで、すぐに腰に差している剣へと手を伸ばしたくなってしまう。
――こいつ、前から思っていたが何者なんだ……?
「とにかく明日出直して下さい。お嬢様は今、人と会えるような状況ではありません」
「とぼけるな。来たんだろ? 侯爵夫人が」
「何も知らぬと思っていたのに、どうやら事情は把握しているようですね」
「あぁ。この間、祖父と針鼠と歯車のマスターから聞いた」
「祖父……?」
ピクリとレダの片眉がはねた。
「もう戻られているのですか?」
「また国外へ。顔合わせの予定は未定だ」
「そうですか」
「一体、何があったんだ?」
と尋ねれば、レダは脇へ逸れるように体をずらすと、俺を中へと促してくれた。
地底のような部屋。明かりも灯されてないため、廊下から零れる燭台の明かりだけが頼りだ。
自分の屋敷なので、ある程度の間取りは把握している。そのため、目が慣れるまでの間ぐらいならば、問題なく前へと進める。絨毯を踏みしめる音に混じり、嗚咽が耳朶に触れふいに胸が締め付けられた。だが、それがセラフィの居場所を伝えてくれている。
それを頼りに向かえば、どうやらソファと窓の間にいるらしい。
「おい」
と、声をかけた時だった。少しばかり離れた後方で淡いオレンジの明かりが灯されたのは。どうやらレダが燭台に火を灯したらしい。そのため、周りが先ほどよりも鮮明に見える。セラフィは絨毯の上で膝を抱え、うずくまっていた。
「セラフィ」
屈み込み彼女の傍へと座れば、その細い小さな体はびくつき、セラフィが弾かれたかのように顔を上げてしまう。化粧が崩れ落ち、涙の痕がくっきりと黒く残っている。
それを気にする事も無く、大粒の紫水晶をはめ込んだような瞳から涙がとめどなく溢れていく。それなのに心に惹きつけられるものがあった。
「……ベリ……ル…さま?」
最初は突然のベリルの出現に呆気にとられていたのか、口を開け見てきていたのだが、すぐに手の甲で目元を擦る仕草をしてしまう。
「おい。擦ると崩れた化粧が目に……――」
手を伸ばしその華奢な手首を掴んだが、何かふと違和感が。
よくよく観察するように指先から視線を這わせれば、ぴたりと人差し指で止まった。
(指輪……?)
いつもは大きく自己主張しているそれが今日はない。
もしかしたらこの間のようにネックレスにしているのだろうか。
そもそもセラフィはどうして泣いていたのだ? まるでパズルのピースが嵌められるかのように、ベリルの頭には既に答えが浮かんでいた。
「おい、指輪どうした?」
「……無くしました」
その言葉が震え嘘だと告げる。それと同時に、母親がその件に関係している事を暗示していた。
どうしようもなく愚かな女だと思う。それでも愛しいと心の何処かで思ってしまう自分がいる。
「なんでむざむざと渡すんだ! あのとき、俺の胸倉つかんで啖呵切ったじゃないか」
たとえ血のつながりがあろうと、どうしてここまで自己犠牲をする義務があるというのだ。
祖父母の結婚指輪。大事な祖母の形見。世界でたった一つだけ。
それは一度手放してしまえば、もう二度と手に入れる事は不可能に近いというのに――
心の拠り所にし、常に指輪をはめていたはずだ。
それを奪われるのは、身を切り裂かれるのに等しいだろう。
「金をせびりに来て断れば、この屋敷の物を寄越せって言われたんですよ。そうでなければ、その指輪を代わりにと」
「はぁ?」
緊迫した空気だったが、俺はつい口からそんな間の抜けた言葉が零れてしまった。
それもそうだろう。侯爵家の借金は全てフォーマルハウト家が代わりに返済。
その上、別口であちらから要求された額を支払っている。セラフィのドレス代や宝石類等、屋敷一件は買えるぐらいの金額だ。
――……あれはセラフィに渡ってないのか。そうだよな。自分でドレス代とかせびるようには考えられない。
一緒に暮らしてきて、少しずつ理解し始めている。
そのため、見抜けなかった過去の己を殴りたくなった。
「あれはセラフィのドレス代じゃなかったのか……」
「まさか、侯爵家に金銭を?」
「あぁ。やれドレス代や宝石代とかせびられたが」
そう尋ねれば、侍女服を纏った女の纏う空気がより冷気を帯びる。
ぶわっと体中に鳥肌が立ち、俺は眉を顰める。こんな殺気久しぶりに感じだ。
だが、今は侍女の正体よりセラフィだ。
「…うそ……も……う迷惑…を……?」
「お前は気にするな」
俺は手を伸ばし唇を噛みしめているセラフィの頭を撫でると、泣きじゃくる彼女を覆い守るように抱きしめた。
それが自分でも信じられなかったのは一瞬だけ。
だが、すぐにこの傷ついた女を守りたいという思いに支配されていく。
「必ず指輪は取り戻す。だから、もう泣くな」
これ以上、セラフィに心を痛めて欲しくない。
「ごめんなさい……」
「お前が謝罪する必要はない」
背中をぽんぽんと子供をあやす様に軽く叩きながら、そう尋ねるが鳴き声しか返って来ず。
静寂の中、ひしひしと背中に隠せてない侍女の殺気を感じながら、俺はどうやってセラフィを宥めたらよいのか必死に考えていた。
――もっと気にかけてやれば良かった。セラフィの事を。まさか、侯爵家がそんなに金使いが荒いなんて……
「少し休め。寝るまで傍についててやるから」
俺は、そう告げると寝室へ運ぶためにセラフィの事を抱き上げた。




