30 トフ侯爵令嬢
貴族・庶民関係無く、国で暮らす人々を守る信念のもとに騎士というのが存在する。
けれども現実には貴族は貴族。そして庶民は庶民のままだ。
貴族主義の奴らは騎士だろうと庶民を毛嫌いするため、こちらの言い分を聞いてはくれない。
そのため、貴族を担当するのは爵位を持つ騎士やそれに準ずる騎士が配属している焔竜か黒竜となる。
白竜は全員庶民上がりなので、王都警備が中心。しかも城下町専属。
そのため、貴族とは殆ど関わりが無い。
そのような状況だから、悪しき習わしとして騎士の中でも貴族社会というのが根本的に存在。
けれどもその騎士達の身分という垣根を平気で越える事が一つだけある。
それは『親衛隊』と呼ばれる特定の人物に対しての信奉者達が作っている組織。
そこに所属している奴らは、基本的には親衛隊番号が全てのため庶民・貴族関係ないらしい。
その理屈ならば、後から入った奴が不利なだけじゃないのか? と思うのだが……
騎士の多くが所属しているのは、夜光蝶親衛隊と雪の妖精姫親衛隊。
つまり、セラフィとアトリア様。
勿論、俺も含めそんなものに所属してない者達もいる。……一部だが。
そんな親衛隊の規律以外は、騎士とて貴族社会。
そのため、貴族にはめっぽう弱い。とくに庶民ばかりの白竜は。
だから、今もこの状況なのに説得する以外道はないのだ――
「リーナ様! 申し訳ないのですが俺は仕事中なんです。ですから、退出を!」
晴れ渡った昼下がり。そんな俺の怒号に近い声が執務室へと響き渡った。
恐らく扉を越え、廊下まで聞こえているだろう。
言葉はなるべく丁寧にしているつもりだが、どうしても感情が先立ってしまう。
いつもは静まり返った執務室が、こんな風に賑わっていた。勿論、悪い意味で。
それは我が物顔で、執務椅子に座っている人物のせい。
緩やかにウェーブかかった栗色の髪に薔薇の髪飾りをしている少女は、トフ侯爵令嬢・リーナ様。
愛らしい顔をしているのに、何故か身に纏っているのはセラフィが良く着ていそうな露出多めのドレス。
そのためアンバランスというか、似合ってない印象を受ける。
ここ最近はゆっくり出来ない日々が続いていた。彼女がこうやって居座るからだ。
こんな何もない所に足繁く通いつめ、こうして俺の執務室や鍛錬中の俺に付き纏っている。
帰って欲しくて仕方がない俺とは違い、彼女は扇で口元を覆いながら、クスクスと笑いを零していた。
「まぁ、怖い」
「一体目的はなんですか?」
「目的? そんなものは決まっているじゃない。貴方の心よ」
そう言いながら彼女は立ち上がると、扉前にいる俺の元へと足を進めてきた。
そのため、自然と眉間に皺が寄るのを抑えられず。
――今すぐ全財産と公爵か侯爵の爵位を交換して欲しいんだがっ!
貴族というのは面倒だと常々思っていた。だから爵位なんて不要だと。
だが、今では金払ってでも欲しい。だがしかし、この国内において金で買える爵位は下級の身分。
俺が欲しいのはリーナ様の家と同等かそれ以上。つまり公爵か侯爵。
そうすればさっさと、追い払って溜まっている仕事が出来る!
……仕事、今日も終わらないだろうなぁ。
未提出の書類が山ほど存在するのだ。
一部屋敷に持ち帰っても、このやり取りで披露しまくってすぐに眠ってしまう。
そのため、至急の解決を望む。
「だって、私はベリル様と一緒にいたいのですから」
そう言って俺の胸に凭れかかる彼女に、頭が痛くなった。
その時に鼻腔に掠めてくる香水の匂いに、鼻を押さえたくなってしまう。
これはセラフィが最近愛用している香水と同じ。
フォーマルハウト商会よりセラフィ宛てに一月ほど前に送られた品物の一つで、それ以来彼女が夜会で使っていた。
――セラフィが付けるとそうでもないんだけどな。
香水というのは体温によって変化するため、付ける人によってもまた香りが違ってくるという。
もしかしたらそのせいだろうか? それとも量か?
どちらにせよ、早く離れてくれ……
引き離す為に、へたに触れて誤解を生んでも困るし。
「俺は既婚者です。それに愛人を持つつもりは一切ありません。仕事に支障が出ているんですよ。だから早く帰って下さい。迷惑です」
「まぁ! そんなに冷たいことをおっしゃらないで。私とて存じておりますわ。あの夜光蝶と結婚なされた事ぐらい。有名ですもの。ですが、それも嫌々という噂」
「とにかく俺を狙っても困ります。既婚者ですから」
こんな会話を繰り返したのは、今日が初めてではない。
回数が多すぎて、デジャブか? とつい疑いたくなるぐらいに感覚が麻痺してきてしまっている。
それなのに、リーナ様は一切引かないのだ。
――大体、目的はなんだ? トフ侯爵家は金に困っている様子も無いし。
謎すぎる。何故、俺に固執するのだろうか。
団長がこの騒動を解決しようと色々と動いてくれているのが申し訳ない。
騎士の仕事とは全く無縁だというのに……
「俺ではなく、他の爵位持ちの騎士の方がいいですよ」
「他の男では無意よ。貴方でなければ、あの女を……――」
そうぽつりと零れた言葉を俺の耳が拾った。
今、あの女って言ったよな? どういう事だ? と、思いながら彼女を凝視すれば、その瞳は怒りに燃えていた。
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「ベリル様?」
「は?」
突然名を呼ばれたので、弾かれたように顔を上げた。
すると、反対側のテーブルに腰を落としているセラフィが小首を傾げている。
彼女の手にはフォークとナイフが。
そしてその前にある純白のクロスが敷かれたテーブルには、いい具合に焼き上げられた肉が乗った皿やグラス等が並べられている。どうやら夕食の途中だったようだ。
心身ともに疲れきってしまっているのだろう。どうやって家に帰ったのかも記憶が無い。
「最近、お疲れですわね。少しお休みを頂いては? 騎士は体が資本と伺っておりますわ」
「あぁ……そうだな。団長からは騒動が収まるまで一か月程休んだらどうか? と打診があったし」
「騒動? 何かトラブルですか?」
「そうだ。トフ侯爵のご令嬢知っているか?」
「えぇ」
セラフィは話しに集中するためか、手にしていたフォークとナイフを置く。
そしてその澄んだアメジストの瞳でこちらを捉える。燭台に揺らめく綺麗な宝石のようで美しい。
「リーナ様ですわよね。夜会で見た事ありますが、とても可憐なご令嬢ですわ」
「その可憐なご令嬢が厄介なんだよ。ここ数日ずっと俺の執務室に訪れ、纏わりついて困っているんだ」
「リーナ様がですか? そのようなイメージ浮かばないのですが……本当に可憐な菫のように愛らしい方。ですからどう考えても……」
セラフィが不思議がるのは不思議ではない。
だが、事実だ。
ただ、気がかりな事がある。それは――
「化粧も濃くなったし、ドレスもお前が着ているようなもの。夜会で見かけた彼女と全くイメージが違う。しかも、お前と同じ香水まで付け始めている」
「私と同じ香水? ですが、これはまだ国内では売られていませんわ。輸入しておりませんもの。もしかして、個人的に? よく商品名わかりましたわね」
「とにかく、爵位持ちだから厄介なんだよ。騎士も貴族社会なんだ」
「でしたら、私が彼女にお話しいたしましょうか? それならその問題は物の数秒で片付きますわ。あちらは普通の侯爵家ですから」
「……は?」
俺は裏返った声を上げ、ワインを呑むために伸ばした手を途中で止めた。
「お忘れですの? カストゥール家は旧貴族。ですが、あちらは普通の侯爵。侯爵家同士でも、天と地ほど差がありますわ。こちらが旧貴族の力を振りかざせば、トフ侯爵は何も言えません。旦那様はカストゥールに大金を注いで下さいました。ですから、使えるものは使うべきですわ」
「そうか! その手があったか」
そう言えば、針鼠と歯車で聞いた通りに、由緒ある家柄だったんだ。
カストゥール家は旧貴族。だから、セラフィならこの状況を切り抜けられる。
没落しているから、全く結びつかなかった……
「ですが、少々気になりますわね。リーナ様の激変」
セラフィは眉を顰めると、傍で控えていたレダへと視線を向ける。
すると、レダは首を縦に動かし、そのまま一礼すると退出した。
「早速、明日にでも団長に許可を貰う。悪いが来てくれるか?」
「えぇ、勿論。ベリル様のお役に立てるのならば」
そう妖艶に微笑んだセラフィに俺は感謝した。